『平家物語』の原文・現代語訳39:さる程に、山門の大衆、先座主取り留め奉つたる事~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『大衆先座主をば、東塔の南谷妙光坊に~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

西光が斬られの事

さる程に、山門の大衆、先座主取り留め奉つたる事、法皇聞し召して、いとど安からず思し召しけるところに、西光法師申しけるは、「昔より山門の大衆は、発向のみだりがはしき訴へ仕る(つかまつる)事、今に始めずとは申しながら、今度は以ての外(ほか)に過分に候。よくよく御計らひ候ふべし。此等を御警め(おんいましめ)候はずば、この後は世が世でも候ふまじ」とぞ申しける。只今我が身の亡び失せんずる事をも顧みず、山王大師の神慮にもはばからず、かやうに申して宸襟(しんきん)を悩まし奉る。

讒臣(ざんしん)は国を乱ると云へり。実(まこと)なるかな、叢蘭(そうらん)茂からんとすれども、秋の風これを破り、王者明らかならんとすれども、讒臣これを闇う(くらう)すとも、かやうの事をや申すべき。「新大納言成親(なりちか)の卿以下、近習の人々に仰せて、法皇、山攻めらるべし」と聞えしかば、山門の大衆、「さのみ、王地に妊まれて(はらまれて)、詔命を対カンせんも恐なり」とて、内々院宣に随ひ(したがい)奉る衆徒もありなど聞えしかば、先座主は、東塔の南谷妙光坊におはしけるが、大衆二心ありと聞き給ひて、「又いかなる憂き目にか逢ふべきやらん」と、心細げにぞ宣ひける。されども流罪の沙汰はなかりけり。

さる程に、新大納言は、山門の騒動によつて、私の宿意をば暫く抑へられけり。そも内議支度は様々なりしかども、擬勢(ぎせい)ばかりで、この謀叛叶ふべしとも見えざりければ、さしも頼まれたりつる多田の蔵人行綱(ゆきつな)、この事無益なりと思ふ心や付きにけん、弓袋の料にとて送られたりける布どもをば、直垂・帷(かたびら)に裁ち縫はせ、家の子郎等どもに着せつつ、目うちしばたたいて居たりけるが、つらつら平家の繁昌する有様を見るに、当時たやすう傾け難し、もしこの事洩れぬる程ならば、行綱先ず失はれなんず、他人の口より洩れぬ先に返り忠して、命生かうと思ふ心ぞ付きにける。

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[現代語訳・意訳]

西光が斬られの事

そうこうしていると、比叡山の大衆が前座主を奪還して守っているということを、後白河法皇はお聞きになり、非常に落ち着かないイライラした気持ちでいたところ、西光法師が、「昔から山門の大衆が理不尽で暴力的な訴えを起こすことは、今に始まった事ではありませんが、今回の強訴はもっての外でやり過ぎです。よくよくお考えになられて決断をされて下さい。この暴動に対して懲戒をくだされなければ、この後も、まともな安定した世の中にはなりませんので」と申し上げた。

自分の身がまさに今滅びようとしていることを顧みることもなく、山王大師の神慮も憚ることがなく、このように申しあげて、後白河法皇の御気持ちを悩ませた。他人を誹謗中傷する家臣のいる国は、やがて乱れると言われてきた。それは本当だな、香りの良い蘭の花が繁茂しようとしても、冷たい秋風が吹いて蘭を枯らし、王者(帝)が聡明であろうとすると、讒臣がその知性を覆い隠そうとすると言うが、西光の讒言のようなことを言っているのだろうか。

「後白河法皇が新大納言成親の卿以下の側近の人たちに、比叡山を攻めよとの命令を出した」という話が聞こえてくる。山門の大衆には、「この王者(帝)の統治する土地に生まれているのに、帝の勅命に背くというのは恐れ多いことだ」と言って、密かに院宣に従おうとする衆徒もいるようだと聞こえてきたが、東塔の南谷にある妙光房にいらっしゃる先代の座主・明雲は、大衆に二心があるというのを聞き、「またどんな酷い目に逢うか分からない」と、心細そうにおっしゃられた。しかし、流罪の処分は下されなかった。

そして、新大納言の成親卿は、この山門の騒動のために、しばらく平家打倒のクーデター計画を抑えられることになった。一方、内々の相談や準備は色々とあったが、見せ掛け(はったり)の気勢を上げるばかりで、この謀反の計画が実現できそうにもないように思われ、あれほど頼みにされていた多田蔵人行綱も、こんな計画を実行しようとしても無駄ではないかと思うようになった。

行綱は弓袋の材料にと贈られた布を、弓袋にせず直垂・帷子に縫わせており、家の郎党や家来が着ているのを目をしばたたかせながら眺めているが、平家が隆盛している様子をよくよく見てみると、現在の平家が簡単に倒せるとは思えない、もしこの計画が洩れるようなことがあれば、この行綱が最初に謀反者として殺されるだろう。他人の口から計画が洩れる前に自分が寝返って平家に忠義を示し、命を奪われないようしよう(平家に謀叛の罪で誅殺されないようにしよう)と思い始めたのである。

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