『竹取物語』は平安時代(9~10世紀頃)に成立したと推定されている日本最古の物語文学であり、子ども向けの童話である『かぐや姫』の原型となっている古典でもあります。『竹取物語』は、『竹取翁の物語』や『かぐや姫の物語』と呼ばれることもあります。竹から生まれた月の世界の美しいお姫様である“かぐや姫”が人間の世界へとやって来て、次々と魅力的な青年からの求婚を退けるものの、遂には帝(みかど)の目にも留まるという想像力を駆使したファンタジックな作品になっています。
『竹取物語』は作者不詳であり成立年代も不明です。しかし、10世紀の『大和物語』『うつほ物語』『源氏物語』、11世紀の『栄花物語』『狭衣物語』などに『竹取物語』への言及が見られることから、10世紀頃までには既に物語が作られていたと考えられます。このウェブページでは、『なほ、この女見では、世にあるまじき心地のしければ~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。
参考文献
『竹取物語(全)』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),室伏信助『新装・竹取物語』(角川ソフィア文庫),阪倉篤義 『竹取物語』(岩波文庫)
[古文・原文]
なほ、この女見では、世にあるまじき心地のしければ、『天竺(てんじく)にある物も持て来ぬものかは』と思ひめぐらして、石作の皇子は、心の支度ある人にて、『天竺に二つとなき鉢(はち)を、百千万里の程行きたりとも、いかでか取るべき』と思ひて、かぐや姫のもとには、『今日なむ天竺へ石の鉢取りにまかる』と聞かせて、三年ばかり、大和国(やまとのくに)十市(とをち)の郡(こほり)にある山寺に、賓頭盧(びんづる)の前なる鉢のひた黒に墨つきたるを取りて、錦の袋に入れて、造り花の枝につけて、かぐや姫の家に持て来て見せければ、かぐや姫あやしがりて見れば、鉢の中に文(ふみ)あり。ひろげて見れば、
海山の路に心を尽くし果てないしの鉢の涙流れき
かぐや姫、光やあると見るに、蛍(ほたる)ばかりの光だになし。
おく露の光をだにも宿さましを小倉山にて何もとめけむ
とて返し出だす。鉢を門に捨てて、この歌の返しをす。
白山にあへば光の失(う)するかと鉢を捨ててもたのまるるかな
と詠みて入れたり。かぐや姫、返しもせずなりぬ。耳にも聞き入れざりければ、言ひかかづらひて帰りぬ。かの鉢を捨ててまた言ひけるよりぞ、面(おも)なき事をば、『はぢを捨つ』とは言ひける。
[現代語訳]
それでも、この女と結婚しないでは、この世で生きてはいられないという気持ちがしたので、『たとえ遠い天竺にある物であっても持って来てみせよう。』と考えを巡らせて、石作の皇子は目先の利く人だったので、『天竺に二つとないような鉢を、百千万里の遠くまで出かけたとして、どうやって手に入れることができるだろうか。』と思い、かぐや姫の元には、『今日まさに、天竺まで鉢を取りに行ってきます。』と知らせておき、三年ほど経った後に、大和国の十市の郡にある山寺で、賓頭盧(びんずる,=釈迦の弟子)の前にある鉢で、真っ黒に煤けて、墨がついているものを手に入れ、それを錦の袋に入れて、造花の枝につけてかぐや姫の家に持ってきて見せた。かぐや姫が疑いながらもその鉢を見ると、中に手紙が入っている。広げて見ると、
海を越えて山を越える遥かに遠い天竺までの道のり、精根を尽くしながら石の鉢を手に入れたものの、その苦労には涙が流れました。
かぐや姫が、仏の御石の鉢にあるはずの光があるかと確かめたが、蛍ほどのわずかな光さえない。
もしこの鉢が本物なら野にある朝露くらいの光を宿しているはずですが、近くの小倉山でいったい何を探して来たのですか。
と言って鉢を返した。石作の皇子は鉢を門口に捨てて、この歌に返歌をした。
白山のように光り輝く貴女に会ったために、先ほどまで光っていた光が失せたのかと思い、この鉢を捨てましたが、恥(鉢)を捨ててでも何とか貴女と結婚したいのです。
と詠んで送った。かぐや姫は返歌もしなかった。耳にも聞き入れようとしなかったので、皇子はそれ以上何も言うことができずに帰っていった。あの偽物の鉢を捨てて、また言い寄ったことから、厚かましいことを指して『恥(鉢)を捨てる』と言ったのである。
[古文・原文]
庫持の皇子は、心たばかりある人にて、朝廷(おおやけ)には、『筑紫の国に湯あみにまからむ』とて暇(いとま)申して、かぐや姫の家には、『玉の枝取りになむまかる』と言はせて下り給ふに、仕(つこ)うまつるべき人々、皆難波(なにわ)まで御送りしける。皇子、『いと忍びて』とのたまはせて、人もあまた率(ゐ)ておはしまさず、近う仕うまつる限りして出で給ひ、御送りの人々、見奉り送りて帰りぬ。
『おはしましぬ』と人には見え給ひて、三日ばかりありて漕(こ)ぎ帰り給ひぬ。かねてこと皆仰せたりければ、その時一つの宝なりける鍛冶工匠(かぢたくみ)六人を召し取りて、たはやすく人寄り来(く)まじき家を作りて、かまどを三重(みえ)にしこめて、工匠らを入れ給ひつつ、皇子も同じ所に籠り給ひて、知らせ給ひたる限り十六所を、かみにくどをあけて、玉の枝を作り給ふ。かぐや姫のたまふやうに違はず、作り出でつ。いとかしこくたばかりて、難波にみそかに持ていでぬ。
『舟に乗りて帰り来にけり』と殿に告げやりて、いといたく苦しがりたるさまして居給へり。迎へに人多く参りたり。玉の枝をば長櫃(ながひつ)に入れて、物覆ひて持ちて参る。いつか聞きけむ、『庫持の皇子は優曇華(うどんげ)の花持ちて上り給へり』とののしりけり。これを、かぐや姫聞きて、『我は、皇子に負けぬべし』と、胸うちつぶれて思ひけり。
[現代語訳]
庫持の皇子は、策略を用いる人であり、朝廷には『筑紫の国に湯治に出かけます。』と言って休暇届を出しておいて、かぐや姫の家には『玉の枝を取りに参ります。』と使いを出してから地方に下ろうとするので、お仕えしている人々はみんなで難波までお送りした。皇子は、『これは秘密で』と言って、お供の者も大勢は連れて行かず、身近に仕えている者だけを連れて出発した。見送りをした人々は都に戻った。
人々には『都にはいません』という風に見せかけておいて、三日ほどしてから、難波まで舟を漕いで戻ってきた。あらかじめやるべき事はすべて命じていたので、当時、随一の宝とされていた腕の立つ鍛冶細工師六人を召し寄せ、簡単に人が近寄れないような家を造って、かまどを三重に囲み、細工師らを中に入れて、皇子も同じ所に籠り、自分が治めている荘園十六ヶ所をはじめ、家の財産を注ぎ込んで、立派な玉の枝を作らせた。かぐや姫が言っていたのと全く同じように玉の枝を作り上げた。非常に立派なものに仕立て上げてから、難波までひそかに運び込んだのである。
『舟に乗って帰ってきたぞ。』と自分の屋敷に知らせを遣わせ、皇子はとても疲れてきつそうな様子で座り込んでいた。お迎えの人々が大勢やって来た。玉の枝は長櫃に入れて、物で覆ってから都へと運んでいった。いつの間に噂が広まったのだろうか、『庫持の皇子は優曇華(うどんげ)の花を持って都へお上りになった。』と世間では騒ぎになっていた。これをかぐや姫が聞いて、『(その噂が本当なら)私は庫持の皇子にきっと負かされてしまう。』と、胸が締め付けられるような思いがした。
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