清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
大進生昌(だいじんなりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足(よつあし)になして、それより御輿(みこし)は入らせ給ふ。北の門より、女房の車どもも、まだ陣の居ねば、入りなむと思ひて、頭(かしら)つきわろき人もいたくもつくろはず、寄せておるべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びろうげ)の車などは、門小さければ、障りてえ入らねば、例の、筵道(えんどう)敷きておるに、いとにくく腹立たしけれども、いかがはせん。殿上人、地下なるも、陣に立ち添ひて見るも、いとねたし。
御前(おまへ)に参りて、ありつるやう啓すれば、(宮)『ここにても、人は見るまじうやは。などかは、さしもうち解けたる』と、笑はせ給ふ。(清少納言)『されどそれは、目(め)馴れにて侍れば、よくしたてて侍らむにしもこそ、驚く人も侍らめ。さても、かばかりの家に車入らぬ門やはある。見えば笑はん』など言ふほどしも、(生昌)『これ、まゐらせ給へ』とて、御硯(おんすずり)などさし入る。
[現代語訳]
大進生昌の家に、宮中から中宮がおでましになるので、東の門を四足門に改築して、その門から中宮のお乗りになった御輿がお入りになる。女房たちの乗った車も、まだ警護の者たちの陣屋が設営されていないから、北の門から入れるだろうと思っていた。髪の毛の状態が良くない女房もあまり髪をつくろっていなかったが、それは建物の近くまで車で寄せて降りられると簡単に思っていたからだが、大きな檳榔毛(びろうげ)の車などは門が小さくて中に入ることができず、いつものように地面に筵道(えんどう)を敷いて降りなければならなくなった、これはとても腹立たしいことだが、どうしようもないことでもある。殿上人だけではなく地下の庶民たちもが、陣屋の近くでこちらを見ているのも非常に不快である。
中宮の御前に参上して事の次第をお伝えすると、『この(のんびりした)邸宅であっても、人が珍しい貴人を見ないということなどあるでしょうか。どうして、そんなに周りに対して気を緩めていたのですか』とお笑いになられた。(清少納言)『けれどもそれは、あの者たちはお互い見慣れた関係の者たちですから、私たちがしっかりと化粧をして身なりを整えていれば、かえって驚かせてしまったでしょう。しかし、これほどの大きなお屋敷に車が入らない小さな門があろうとは。生昌殿の顔が見えれば笑ってあげましょう』などと言っていると、(生昌がやってきて)『これを中宮様に差し上げて下さい』と言って、使っている硯などを御簾の中に差し入れてきた。
[古文・原文]
(清少納言)『いで、いとわろくこそおはしけれ。など、その門はた、狭くは造りて住み給ひける』と言へば、笑ひて、『家のほど、身のほどに合はせて侍るなり』と答ふ。『されど、門の限りを高う造る人もありけるは』と言へば、『あな恐ろし』と驚きて、『それは于定國(うていこく)がことにこそ侍るなれ。古き進士(しんじ)などに侍らずば、承り知るべきにも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られ侍る』と言ふ。
『その御道も、かしこからざめり。筵道(えんどう)敷きたれど、皆おち入り騒ぎつるは』と言へば、『雨の降り侍りつれば、さも侍りつらむ。よしよし、また仰せられかくる事もぞ侍る。罷(まか)り立ちなん』とて、去ぬ(いぬ)。(宮)『何事ぞ。生昌がいみじうおぢつるは』と問はせ給ふ。『あらず。車の入り侍らざりつること言ひ侍りつる』と申して、おりたり。
[現代語訳]
(清少納言)『まぁ、あなたのお屋敷はとても造りが悪いのですね。どうして、あの門をそんなに小さく造って住んでいられるのですか』と言うと、生昌は笑って、『家の構えは、自分の身の程に合わせて造っているのでございます』と答えた。『けれども、門だけを立派に造るという人もいたではないですか』と言うと、『あぁ、恐ろしい方だ』と驚いて、『それは外国の于定國のことでございましょう。古い進士(中国王朝の科挙の合格者)でもなければ、そんなことを聞いても何のことだか分からないですよ。たまたま私はこの道に関心を持っていたものですから、この程度にはなんとか分かるのですが』と言った。
『その道とおっしゃられる道も、余り優れたものではなさそうですね。筵道の敷物をしても、みんながデコボコとした道に落ち込んで騒いでいましたから』と言うと、『雨が降っていたのですから、確かにそのようになってしまうでしょうね。分かりました分かりました、また色々と突っ込まれてしまいそうですから、この辺で失礼させて頂きます』と言って、去ってしまった。中宮が『何を言ったのですか。生昌がとても恐れ入っていたようですが』とお聞きになられた。『大したことはありません。車が門に入らなかったという文句をただ言っただけですよ』と申し上げて、清少納言は部屋に下がった。
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