『枕草子』の現代語訳:48

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『その後また尼なる乞食(かたゐ)のいとあてやかなる、出で来るを~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

83段:続き

その後また尼なる乞食(かたゐ)のいとあてやかなる、出で来るを、また呼び出でて、物など問ふに、これは、いとはづかしげに思ひてあはれなれば、例の、衣一つ賜はせたるを、伏し拝むは、されどよし、さてうち泣きよろこびて去ぬる(いぬる)を、はや、この常陸の介は来(き)あひて見てけり。その後、久しう見えねど、誰かは思ひ出でむ。

師走の十余日のほどに、雪いみじう降りたるを、女官どもなどして、縁にいと多く置くを、「同じくは、庭にまことの山を作らせ侍らむ」とて、侍(さぶらひ)召して、仰せ事にて言へば、集りて作る。主殿寮(とのもり)の官人の御きよめに参りたるなども皆寄りて、いと高う作りなす。

宮司(みやづかさ)なども参り集りて、言加へ興ず。三、四人まゐりつる主殿寮(とのもづかさ)の者ども、二十人ばかりになりにけり。里なる侍、召しに遣はしなどす。「今日この山作る人は、日三日賜ぶ(たぶ)べし。また、参らざらむ者は、また同じ数とどめむ」など言へば、聞きつけたるは、惑ひまゐるもあり。里遠きはえ告げやらず。作り果てつれば、宮司召して、絹二結ひ(ふたゆい)取らせて縁に投げ出だしたるを、一つ取りに取りて、拝みつつ腰に差して皆まかでぬ。袍(うえのきぬ)など着たるは、さて狩衣(かりぎぬ)にてぞある。

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[現代語訳]

83段:続き

その後、また尼の姿をした乞食でとても上品な感じの者がやって来たのを、また呼び出して色々質問すると、これはとても恥ずかしい感じにしていて可哀想なので、いつものように、着物一枚を与えたのを、伏し拝んで頂いたのはそれで良かったが、さて泣いて喜んで去ったのを、ちょうどこの常陸介が来て見てしまったのだった。その後、長く姿が見えなかったけれど、誰がそんな乞食のことを思い出すだろうか。

12月10日過ぎの頃、雪がとても降ったので、女官などに命じて縁の上に沢山積み上げておいたが、「同じようにするなら、庭に本当の山を作らせましょう」と女官が言って、侍の者たちを呼び出して、中宮様の命令だと伝えると、集まって雪の山を作り出した。主殿寮の役人たちが雪かきに参上したが、この者たちも一緒に寄って、とても高い雪の山を作った。

中宮職の役人なども集まってきて、あれこれ言葉を発して面白がっている。三~四人だった主殿寮の者たちも、二十人ほどにまで増えた。非番の侍まで、召しだすために使いを走らせている。「今日この雪の山を作った者は、褒美に三日の休みを与える。また参上しなかった者は、三日の休みを取り上げる」などと言ったので、聞き付けた者は、慌てて参上したりもする。家が遠い者には使いを行かせることができない。作り上げたので、宮司を呼んで、人々に下賜品として絹二巻を縁に投げ出したのを、二巻ずつ一緒に取って拝みながら、腰に差してみんな退出した。宮司で上着など着ていた者は、そのまま狩衣に着替えて退出した。

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[古文・原文]

83段:続き

「これ、いつまでありなむ」と、人々にのたまはするに、(女房)「十日はありなむ」「十余日はありなむ」など、ただこの頃のほどをある限り申すに、「いかに」と、問はせ給へば、(清少納言)「正月(むつき)の十余日までは、侍りなむ」と申すを、御前にも、えさはあらじと、思しめしたり。女房は「すべて年の内、晦日(つごもり)までもえあらじ」とのみ申すに、あまり遠くも申しつるかな、げに、えしもやあらざらむ、朔日(ついたち)などぞ言ふべかりける、と、下には思へど、さはれ、さまでなくとも、言ひそめてむことは、とて、かたうあらがひつ。

二十日(はつか)のほどに雨降れど、消ゆべきやうもなし。少したけぞ劣りもてゆく。「白山の観音、これ消えさせ給ふな」と祈るも、物狂ほし。さて、その山作りたる日、御使(おつかい)に、式部の丞忠隆(しきぶのじょうただたか)まゐりたれば、褥(しとね)さし出だして、ものなど言ふに、(忠隆)「今日、雪の山作らせ給はぬ所なむなき。御前の壺にも作らせ給へり。春宮(とうぐう)にも、弘徽殿(こきでん)にも作られたり。京極殿(きょうごくどの)にも作らせ給へりけり」など言へば、

ここにのみめづらしと見る雪の山所々にふりにけるかな

と、傍ら(かたはら)なる人して言はすれば、たびたび傾きて、「返しは、仕うまつりけがさじ。あざれたり。御簾(みす)の前にて、人にを語り侍らむ」とて、立ちにき。歌いみじう好むと聞くものを、あやし。御前にきこしめして、「いみじうよくとぞ、思ひつらむ」とぞ、のたまはする。

晦日(つごもり)がたに、少し小さくなるやうなれど、なほいと高くてあるに、昼つ方、縁に人々出で居などしたるに、常陸の介出で来たり。(清少納言)「などいと久しう見えざりつる」と問へば、(常陸介)「なにかは。心憂き事の侍りしかば」と言ふ。「何事ぞ」と問ふに、(常陸介)「なほかく思ひ侍りしなり」とて、長やかに詠み出づ。

うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなる人に物賜ふらむ

と言ふを、にくみ笑ひて、人の目も見入れねば、雪の山に登りかかづらひありきて去ぬる後に、右近の内侍に(清少納言)「かくなむ」と言ひやりたれば、(右近内侍)「などか、人添へては賜はせざりし。かれがはしたなくて、雪の山まで登りつたよひけむこそ、いと悲しけれ」とあるを、また笑ふ。

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[現代語訳]

83段:続き

「この雪の山は、いつまであるのだろう」と、中宮が人々におっしゃると、女房たちが「十日はあるでしょう」「十日以上はあるでしょう」などと、思いつくままにその期間を申し上げると、中宮が清少納言に「お前はどう思うか」とお聞きになられたので、「正月の十何日かまではありましょう」と申し上げると、中宮は、まさかそんなに長くはないだろうとお思いのようだった。女房たちが「絶対に年内しか持たない。12月の月末までは持たない」と申し上げるので、あまりに長い期間を言ってしまった、本当にそんなに長くは持たないかもしれない、正月の一日までと答えるべきだったと内心で思ったけれど、それほど長く持たなくても、いったん言ってしまったことだからと、頑固にみんなに反対した。

二十日の頃に雨が降ったけれど、雪の山が消えそうな様子はない。少し山の高さが低くなっていく。「白山の観音様、どうかこの雪の山を消えさせないで下さい」と祈るのも、馬鹿げたことではある。さて、その雪の山を作った日、内裏からの帝の使いで式部の丞忠隆が参上したので、敷物を差し出してやり取りすると、「今日は雪の山を作らない所はありません。帝の清涼殿の中庭にも作らせました。春宮にも弘徽殿にも作らせました。京極殿にも作らせました」などと言うので、

ここにのみめづらしと見る雪の山所々にふりにけるかな

と詠んで、側にいる女房にも詠ませると、何度も首を傾けて感嘆して、「お返しの返歌は、あなたの歌を汚すのでやめておきましょう。素晴らしい歌ですね。御簾の前で、人々にこの歌を詠んで聞かせましょう」と言って、席を立ち上がった。歌がとても好きな人だと聞いていたが、返歌をしないというのは奇妙である。中宮にその事をお話すると、「(あなたの歌に見合った)とても素晴らしい歌を返さなければならないと思ったからでしょう」とおっしゃった。

12月31日の頃、雪の山は少し小さくなったようだけれど、まだかなり高く残っているので、昼頃に、女房たちが縁に出て来て座っていると、(気品のある乞食の女の)常陸の介がやってきた。「どうして長い間、姿を見せなかったのか」と聞くと、「何ということもありません。面白くないことがございましたので」と言う。「どうしたのか」と聞くと、「やはり別の乞食に中宮様が着物を上げていたあの時に、このように思ってしまったのです」と言って、のびやかな声を張って歌を詠みだした。

うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなる人に物賜ふらむ

と言うのを、女官たちは憎らしく思いながら笑って、みんな相手にしない。常陸の介が雪の山に登ったり辺りをうろうろしたりして立ち去った後、右近の内侍に清少納言が「このようなことがあった」と言ったところ、「どうして、誰か人を付けてこちらに寄越してくれなかったのですか。常陸の介がどうしようもなくなって(みんなの前で歌を詠んだのに相手にされず面目が立たなくなって)、雪の山に登ったりうろうろしていたのは、とても悲しい姿ではないですか」と返事をしてきたので、また女官たちに笑いが起こった。

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