『枕草子』の現代語訳:44

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

79段

返る年の二月廿よ日、宮の、職へ出でさせたまひし御供にまゐらで、梅壼(うめつぼ)に残り居たりしまたの日、頭の中将(藤原斉信)の御消息とて、「昨日の夜、鞍馬に詣でたりしに、今宵、方の塞がりければ、方違(かたたがへ)になむ行く。まだ明けざらむに帰りぬべし。必ず言ふべき事あり。いたう叩かせで待て」と、のたまへりしかど、「局に一人はなどてあるぞ。ここに寝よ」と、御匣殿(みくしげどの)の召したれば、参りぬ。

久しう寝起きて下りたれば、「昨夜(よべ)いみじう人の叩かせ給ひし、辛うして起きて侍りしかば、『上にか。さらば、かくなむと聞えよ』と、はべりしかども、『よも起きさせ給はじ』とて、臥し侍りにき」と語る。心もなのことや、と聞くほどに、主殿司(とのもづかさ)来て、「頭の殿の聞えさせ給ふ、『ただ今まかづるを、聞ゆべきことなむある』」と言へば、(清少納言)「見るべきことありて、上なむ上り侍る。そこにて」と言ひて、やりつ。

局は、引きもやあけたまはむと、心ときめきして、わづらはしければ、梅壼の東面(ひがしおもて)の半蔀(はじとみ)上げて、(清少納言)「ここに」と言へば、めでたくてぞ、歩み出で給へる。桜の綾の直衣の、いみじう花々と、裏のつやなど、えも言はずきよらなるに、葡萄染(えびぞめ)のいと濃き指貫(さしぬき)、藤の折枝おどろおどろしく織り乱りて、紅の色、うち目など、輝くばかりぞ見ゆる。白き、薄色など、下にあまた重なりたり。狭き縁に、片つ方は下ながら、少し簾のもと近う寄り居たまへるぞ、まことに絵に描き、物語のめでたきことに言ひたる、これにこそは、とぞ見えたる。

御前の梅は、西は白く、東は紅梅にて、少し落ち方になりたれど、なほをかしきに、うらうらと日の気色のどかにて、人に見せまほし。御簾(みす)の内に、まいて、若やかなる女房などの、髮うるはしくこぼれかかりて、など言ひためるやうにて、ものの答え(いらえ)などしたらむは、今少しをかしう見所ありぬべきに、いとさだ過ぎ、ふるぶるしき人の、髮なども我がにはあらねばにや、ところどころわななき散りぼひて、おほかた色異なるころなれば、あるかなきかなる薄鈍(うすにび)、あはひも見えぬきはきぬなどばかりあまたあれど、露の映え(はえ)も見えぬに、おはしまさねば、裳も着ず、袿姿(うちきすがた)にて居たるこそ、ものぞこなひにて、口をしけれ。

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[現代語訳]

79段

翌年の二月二十日過ぎに、中宮が職の御曹司の建物においでになった時にお供に加わらないで、梅壺に居残っていた。その次の日、頭の中将(藤原斉信)のお手紙ということで、「昨日の夜、鞍馬寺に参詣したのだが、今夜、方角が悪いので方違えに別の所に行くことにした。まだ夜が明けないうちに宮中に帰る予定です。必ず伝えたいことがある。あまり局の戸を叩かなくても良いように(準備をして)待っていて下さい」とおっしゃっていたが、「どうして局に一人で居残っているのですか。こちらで寝なさい」と、御匣殿(みくしげどの)から呼ばれたので参上した。

寝坊してしまって局に下りてくると、「昨夜、ひどく戸を叩く人がいらっしゃったので、何とか頑張って起きて用件を聞いたところ、『上の御匣殿にいるのか。それなら、このように申し伝えよ』とおっしゃった。しかし、『まさか(こんな時間に)お起きにはならないだろう』と思って、断って寝てしまいました」と下女の女房が話している。心無い返事をしたものだなと聞いていると、主殿司がやって来て、「頭の殿がおっしゃっていました。『今、退出するが、お伝えしたいことがある』」と言うので、「やるべきことがあって、上の御匣殿に参ります。そこでお会いしましょう」と言って使いを帰らせた。

局では戸を引き開けるのではないかと、胸がどきどきとして煩わしかったが、梅壺の東側の半蔀を上げて、(清少納言)「こちらへ」と言うと、素晴らしいお姿で歩み出ていらっしゃった。桜襲(さくらがさね)の綾の直衣が非常に華やかで、裏の色つやなどは何とも言えないほど清らかなのに、薄紫染めの濃い指貫には藤の花の折枝の模様を豪華に浮き織りにして、袿(うちぎ)の紅色の打った光沢など、輝くばかりに見えている。紅色の下には、白や薄色の下着がたくさん重なっている。狭い簀子(すのこ)に片足を下ろしたままで、少し簾の下近くに寄って座っておられる姿は、本当に絵に描いたような、物語の中で素晴らしいと言われているような貴公子ぶりで、この人こそが絵・物語に出てくる人なのだというように見える。

梅壺の庭前の梅は、西は白い梅、東は紅梅で、少し花が散りかかっているけれど、なお情趣が残っており、うらうらとしたのどかな日差しで、人に見せたくなるような眺めだ。まして御簾の内側には、若い女房などが綺麗な黒髪をこぼれかからせてと物語で語られるような姿をしており、物の受け答えをしている様子があれば、もう少し面白い情趣のある見所ができたのに、もう梅の花の盛りが過ぎて、私のような古い年を取った女が、髪なども自分の髪ではなくなっていて、所々の髪が乱れて絡まっている。大体、みんなが色の異なる黒い喪服を来ている頃で、色があるかないかの薄い鈍色の上着に、重ねる色合いもない着物ばかり沢山着ているけれど、全く見映えがせず、中宮がいらっしゃらないので裳もつけず、袿姿(うちきすがた)でいたのが、風情を壊していて情けなかった。

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[古文・原文]

79段(終わり)

(斉信)「職(しき)へなむ、まゐる。ことづけやある。いつかまゐる」などのたまふ。「さても、昨夜(よべ)、明し(あかし)も果てで、さりとも、かねて、さ言ひしかば、待つらむとて、月のいみじう明きに、西の京といふ所より来るままに、局を叩きしほど、辛うして寝おびれ起きたりしけしき、答へ(いらえ)のはしたなさ」など、語りて笑ひ給ふ。「無下にこそ思ひうんじにしか。など、さる者をば置きたる」と、のたまふ。げにさぞありけむと、をかしうもいとほしうもあり。暫しありて、出で給ひぬ。外より見む人は、をかしく、内にいかなる人あらむと思ひぬべし。奥の方より見いだされたらむ後ろこそ、外にさる人やとおぼゆまじけれ。

暮れぬれば、まゐりぬ。御前に人々いと多く、上人(うえびと)などさぶらひて、物語のよきあしき、にくき所などをぞ、定め、言ひそしる。涼(すずし)、仲忠(なかただ)などがこと、御前(おまえ)にも、劣りまさりたるほどなど、仰せられける。(女房)「まづ、これはいかに。とくことわれ。仲忠が童生ひ(わらわおい)のあやしさを、せちに仰せらるるぞ」など言へば、(清少納言)「なにか。琴なども、天人の降るばかり弾きいで、いとわろき人なり。御門の御女(おんむすめ)やは得たる」と言へば、仲忠が方人(かたうど)ども、所を得て、「さればよ」など言ふに、(中宮)「このことどもよりは、昼、斉信(ただのぶ)が参りたりつるを見ましかば、いかにめで惑はましとこそ、おぼえつれ」と、仰せらるるに、(女房)「さて、まことに常よりもあらまほしうこそ」など言ふ。

(清少納言)「まづそのことをこそは啓せむと思ひて、参りつるに、物語の事にまぎれて」とて、ありつることども聞えさすれば、(女房)「誰も見つれど、いとかう、縫ひたる糸、針目までやは見透しつる」とて笑ふ。

(斉信)「西の京といふ所の、あはれなりつること。諸共(もろとも)に見る人のあらましかばとなむ、おぼえつる、垣なども皆古りて(ふりて)、苔生ひてなむ」など語りつれば、宰相の君の「瓦に松はありつや」と答へたるに、いみじうめでて、(斉信)「西の方、都門を去れること、いくばくの地ぞ」と口ずさみつることなど、かしかましきまで言ひしこそ、をかしかりしか。

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[現代語訳]

79段(終わり)

(斉信)「職の役所に参上します。伝言はありますか。あなたはいつ参上するのですか」などとおっしゃる。(斉信)「それにしても、昨夜、方違えに行った所で夜も明かさずに、時間が遅いのに以前に言っておいたから待っているだろうと思って、月がたいそう明るい中を、西の京と呼ばれる所から帰ってきて、局の戸を叩いたところ、かろうじて寝ぼけながら起きてきた女房の様子、答えの冷たいそっけなさよ」などを語ってお笑いになる。「無下に断られて落ち込んでしまった。どうしてあんな者を置いているのか」とおっしゃる。本当にそうだったのだろうと、おかしくもあり可哀想でもある。しばらくしてから、出て行かれた。外から見ている人は、情趣を感じて、御簾の内側にどんな素敵な人がいるのだろうかと思って想像するだろう。奥の方から私の後ろ姿を見ていたら、外にそんな素敵な男性がいるとは思わないことだろう。

日が暮れてから、職の役所に参上した。中宮の御前には沢山の女房たちがいて、殿上人などもいらっしゃって、物語の良し悪しや嫌いな所などを議論し、言い合いをしたりしている。涼や仲忠などの宇津保物語の人物について、中宮にもその人物の優劣についてなどお話になられている。女房が「まずこの問題についてはどう考えますか。早く意見を述べて下さい。仲忠の子供時代の生い立ちの怪しさ(不遇さ)を、欠点としておっしゃっていますよ」などと言うと、(清少納言)「それがどうしたのですか。琴など弾いても天人が降ってきたお話のようなもので、あまり大したことのない人物です。涼は帝の娘を妻として得たでしょうか」と言う。仲忠を推薦している者たちは勢いを得て、「その通りだ」などと言っている。(中宮)「こんな物語の人物よりも、昼間、斉信が参上した姿をお前が見たならば、どんなに褒めて気持ちが乱れたことだろうと思っていた」とおっしゃられると、女房が「あぁ、本当にいつもより素晴らしいお姿でした」などと言っている。

(清少納言)「まず私もそのことを申し上げようと思って参上したのですが、物語の論議に巻き込まれてしまいまして」と言い、昼間のことなどをお話すると、女房は「みんなあの方のお姿は拝見しましたが、(清少納言のように)着物の縫い糸や針目までも細かく見ていたでしょうか」と言って笑う。

(斉信)「西の京という所が、寂しく荒れていたこと。一緒に見る人がいれば、(いっそう憐れな感じが増していただろう)と思う。築地などもみんな古くなっていて、苔がそこに生えていて」などと語っていると、宰相の君が「瓦に松はありましたか」と答えたので、頭の中将・斉信はとても感心して、(斉信)「西の方、都門から去ることどれくらいの土地なのか」と口ずさんで吟じていたことなど、うるさいほどに言い立てたのは、風情があって面白かった。

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