『味噌(みそ)』は日本料理・和食に欠かすことのできない調味料であるが、その歴史は古く遅くても平安時代初期(9~10世紀)には日本に存在していたとされる。源順(みなもとのしたごう)が承平期(931年~938年)に著した『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、平安時代における味噌を示す言葉である『末醤(みそ)・高麗醤(こまびしお)・美蘇(みそ)・味醤(みそ)』が書き残されており、元々は『末醤(末は搗いた粉のこと)』と書かれていたのだという。
味噌は中国の調味料である醤(ジャン)の一種である。味噌は元々は味噌汁(みそ汁)として飲まれていたのではなく、食品につけて食べる醤油のような調味料として使われていたという。古代における東アジアの味噌の起源として、主に米・麦を原材料として作られた中国系の『唐醤(からびしお)』、主に大豆を原材料として作られた朝鮮半島系の『高麗醤(こまびしお)』とがあった。
味噌は『米・麦・大豆』の原材料と『コウジ菌(麹菌)』さえあれば簡単に製造できる食品・調味料である。平安後期から室町時代にかけてそれぞれの地域や家庭で特有の味噌が作られるようになってきた。自分の家で作った自慢の味噌から転じて、自分のことを褒めて自慢することを『手前味噌(てまえみそ)』というが、この言葉の原点が『お手製の味噌』をそれぞれの家で作っていた歴史なのである。味噌が貴族・武家を中心にして日常生活に浸透してくると、室町時代の頃から今の味噌の使い方に似たいわゆる『味噌汁(みそ汁)』が飲まれるようになってきた。
室町時代にみそ汁を飲む習慣が広まってきた背景には、贅沢を排除して肉魚のない質素な食事(精進料理)を前提とした禅宗の『懐石料理』の影響がある。一方、室町時代のみそ汁の具材として人気が高かったのは『ツル(鶴)・カモ(鴨)・ウズラ(鶉)・アオサギ(青鷺)』などの鳥肉であり、それ以外にも『タヌキ(ムジナ)・納豆・ウドなど山菜・菊の葉』などが入れられていた。
みそ汁は調理が簡単ですぐにでき、色々な具材と合わせて食べることができる汎用性もあるので、室町時代から江戸時代にかけて徐々に一般庶民の食卓にも浸透していった。一般庶民の食事(特に朝食)として普及していったのは江戸時代前期で、貴重なエネルギー源でご馳走でもあったみそ汁のことを表す『おみおつけ・おつけ』という丁寧語も作られた。
『おつけ』というのはご飯につけるという意味であるが、おみおつけは『御御御つけ』と『丁寧語の接頭語である御』を3つも重ねて漢字で書く。『おみおつけ』という言葉は、江戸時代の人々にとって『おみそ汁』が如何に美味しくて貴重なものであったか、日常生活の食卓(一汁二菜)に欠かせないものであったかを示してくれている。
室町時代の最高のみそ汁とされていたのが鶴の肉を使った『鶴汁(つる汁)』で、ウドやユズ(香りによって鶴肉の臭みを弱める)などと一緒にみそ汁にして煮立てて食べていたという。
味噌から派生する形で副産物としての『醤油(しょうゆ)』も作られた。味噌が『固体の醤(ジャン)』であるとすれば、醤油(油は液体)は『液体の醤(ジャン)』であり、中国大陸における元々の『醤油』は大豆を煮込んだ煮汁を弱火で煮詰めて濃縮した調味料であったという。その後、醤油は味噌から染み出してきた汁のことを指すようになる。
中国の後漢末期から宋にかけて、味噌を製造する時に副産物として染み出してくる醤油は『醤清(ジャンチン)』『醤汁(ジャンジイ)』と呼ばれていたが、醤油が独立した調味料になるのは明・清の時代からで比較的時代が下ってからの話である。
日本では醤油のことを指して『たまり(溜り)』ということがあるように、日本の醤油の歴史的な起源は味噌を製造した樽(たる)の底に溜まっていた汁を掬って食べた『溜り醤油(たまりじょうゆ)』にある。
溜り醤油の製造を伝える初期のエピソードとしては、宋の禅寺・径山寺(きんざんじ)で修行した信州(現長野県)の覚心(かくしん)が『金山寺味噌(径山寺味噌)』の製法を日本に持ち帰り、紀州・湯浅で村人に金山寺味噌の製法を教えている時、樽の底に溜まった溜り醤油(美味しい副産物の汁)の存在に気づいたのだという。溜り醤油は今でも愛知県や三重県、岐阜県で生産が続けられており、日本古来の味噌の味を伝えている。
金山寺味噌(きんざんじみそ)は現在でも『ご飯のお供』として人気の高い食品であり、スーパーなどでもよく売られているが、鎌倉時代の1254年に禅僧の覚心が日本に持ち帰ったものである。炒り大豆とオオムギコウジ、食塩をベースにして味噌を作り、細かく刻んだ塩漬けのウリやナス、シソ、ショウガ、麻の実などを加えて、約10ヶ月間にわたって熟成させたものが『金山寺味噌(径山寺味噌)』である。
室町時代に醤油の醸造技術は洗練されていったが、現在の醤油に近い大豆、麦、米等の穀物を蒸煮して麹(こうじ)を加えて発酵・熟成させるような本格的な醤油が作られ始めたのは『戦国時代中期』くらいだろうと推測されている。豊臣秀吉の死が迫っている安土桃山時代(織豊政権)の末期、1597年(慶長2年)の『易林本節用集(えきりんぼんせつようしゅう)』に、『醤油(しょうゆ)』という言葉が初めて文献に登場している。
醤油が庶民の日常生活に普及するようになると『魚(生魚)の食べ方』が変化して、古代から中世にかけての生魚の身を細く切って酢(醋)につけて食べる『膾(なます)』から、生魚の身をある程度太く切ってから醤油につけて食べる『刺身(刺し身)』へと変わっていったのである。濃い塩味の醤油に浸して生の魚肉を食べることで、臭みを抑えて魚肉本来の味を楽しみやすくなり、日本食としての刺し身が普及する端緒ともなった。文献で初めて刺し身が登場するのは1448年(文安5年)の室町時代だが、この頃はまだまだ刺し身は特別な食べ物でかなりマイナーなものであった。
日本では鎌倉時代まで『海の魚』よりも『鯉(こい)・鮎(あゆ)・鮒(ふな)・山女(やまめ)』といった『川魚』が頻繁に食べられて好まれていて、この時代には鯉が最も美味しい魚とされていたが、近世江戸期になると次第に臭みの少ない海の魚が好まれるようになり、最高級魚の地位は『鯛(たい)』に奪われることになる。
室町期から江戸期にかけて、少しずつ刺し身が好んで食べられるようになると、刺し身を見栄えよく切って盛り付ける『包丁さばき』も進歩していき、美しく切り分けられた刺し身は『つくり身』と呼ばれるようになった。現在でも関西地方(近畿)・九州地方では刺し身のことを『お造り(おつくり)』と呼ぶことが多い。しかし江戸時代中期になっても、刺し身や寿司は基本的に『庶民の食べる料理』であり、公家・武家の上流階級は生魚はあまり食べなかったらしい。栄えていた江戸の町でさえ、基本的に刺し身として食べられていたのは、カツオやフグ、ヒラメに限られていたというから、今のように色々な魚種の肉を生で食べるようになるのは昭和期以降のようである。
色々な魚種でおつくりの刺し身が作られるようになると、どの種類の魚か分かるように『尾鰭(おひれ)』を刺し身に刺す習慣が生まれたという。この尾鰭を刺すことが『刺し身の語源』とも言われるが、刺し身をつくる特殊な包丁のことを江戸期以前は『刺刀(さすが)』といったのでそれが変化して刺し身という言葉が生まれたという仮説もある。
刺し身には、臭み消しや味のバランスから大根(ダイコン)や海藻類が添えられることが多かったが、この食文化の習慣は現代の日本にも伝わっている。今でも、刺し身を盛った皿の後ろのほうに糸状の細切りにした大根を高く盛り付けた『けん』、大根や海藻類を横に添えた『つま』、刺し身に適度な辛味を加える薬味の『わさび(山葵)』は、おつくり(刺し身)の料理には定番で欠かせないものである。
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