斜里岳(しゃりだけ,1547m)

スポンサーリンク

斜里岳の標高・特徴・歴史

斜里岳の標高は、『1547m』である。登山難易度は、中級者向けの山である。山頂の掲示板による斜里岳の標高は1545mだが、国土地理院の山岳標高では1547mと測量されている。

斜里岳の登山口のアクセスは、JR北海道の『知床斜里駅(しれとこしゃりえき)』または『清里町駅』が起点となる。『知床斜里駅から斜里岳登山口までの斜里バス(約40分)』、『斜里岳登山口から清岳荘(せいがくそう)までの徒歩(約2時間)』となるが、斜里岳登山口でバスを下りてからの徒歩の時間が長いので清岳荘で一泊してから翌日に登山をするのも良い。

『清里町駅から清岳荘までのタクシー(約40分)』を使えば、約2時間の徒歩の時間と労力を節約することができる。

斜里岳は北海道・知床半島の付け根に位置しており、斜里(シャリ)とはアイヌ語のサリ(葦の生える土地)が語源である。斜里川の水源地としてこの山(斜里岳)があったことから、サリ岳、シャリ岳(斜里岳)と呼ばれるようになったのだという。

斜里岳は現在は火山活動を停止している成層火山の休火山で、山頂には『溶岩ドーム』が形成され、阿寒湖の方面から見ると複数の山頂(南斜里岳1442m・西峰1508m・斜里岳1547m)が連なっていることが分かる。アイヌの人々にとっては、斜里岳は信仰対象となるカムイ(神)の山であり、『オンネヌプリ(年寄りの山・大きい山)』と呼んでいたが、現在でも登山拠点となる清里町には斜里岳の拝礼場所が設けられている。

スポンサーリンク

斜里岳は清岳荘(せいがくそう)の登山口から登り始めると、『下二股(しもふたまた)』という分岐点に着くが、ここから『旧道』『新道』の登山コースが分かれている。旧道は足元に水がある場所が多く、急坂の鎖場なども多いので、『登り=旧道+下り=新道』のコースを選んだ方が安全である。初心者や鎖場・水場が苦手な人は特に、下りに沢沿いの『旧道』を使うとかなり危ないので注意が必要である。

『旧道』は複数の滝の横を登っていく沢沿い・沢登りのコースであり、足が甲の辺りまで沢の水に浸かることになるので『防水性のあるハイカットの登山靴(または沢登り用の靴)・速乾性のある登山用の長ズボン・防水性(撥水性)のあるスパッツ・交換用の靴下・荷物の一定の防水措置(ビニールにくるむ)』が必携であり、旧道のほうが滝の眺めは良いが登山の難易度は高くなる。

『旧道』には『水蓮の滝・羽衣の滝・万丈の滝・見晴らしの滝・龍神の滝・七重の滝・霊華の滝』といった複数の滝があり、滝が流れ落ちる爽快な景色に見ごたえがある。新道は樹林帯の急坂のある道だが沢沿いではないので、一般的な登山道を進む感覚で登ったり下りたりすることができ、『熊見峠』を過ぎると展望が開けてくる。旧道と新道は山頂に近い『上二股(かみふたまた)』で合流することになる。

旧道と新道が合流する上二股の下部には、静謐で神秘的な雰囲気をたたえる『龍神の池』が広がっていて、稜線上の『馬ノ背』にまで出ると『オホーツク海・太平洋・知床連山・サロマ湖・屈斜路湖・摩周湖・阿寒周辺』をずらりと眺め渡せる素晴らしい景色となる。昭和初期に干ばつに苦しめられた村人たちが、龍神の池に藁で造った龍を沈めると雨が降ったという『雨乞い伝説』も残されている。頂上付近には斜里岳神社が建てられており、金属で作られた鳥居と祠があり礼拝することができ、山頂には登山家によってケルンも建てられている。

斜里岳は高山植物にも恵まれた山であり、エゾルリソウ、フタマタタンポポ、キクバクワガタサマニヨモギ、チングルマ、イワブクロ、タカネナナカマドなどの草花を愛でることもできる。

楽天AD

深田久弥の斜里岳への言及

深田久弥は著書『日本百名山』で斜里岳を憧れの山であったと語り、昭和34年(1959年)に釧路から網走に向かう汽車の車窓から初めて斜里岳の美しく威厳のある山容を目にしたのだという。しかし、斜里岳の山の姿が見えたのはその一瞬だけで、その後は霧や曇りで天候に恵まれず、山麓から深く根を張るように聳える斜里岳を眺めることは叶わなかった。

アイヌの人たちは斜里岳を『オンネプリ・オンネヌプリ(大きい山)』とだけ呼んでいたようだが、斜里岳は山麓の裾野が広くて山脈が大地に深く根を張っているので、非常に壮大で神聖なイメージを受けやすい山なのである。北海道の山は元々は原住民であったアイヌ人の信仰対象でもあり、ほとんど誰にも登られることがなく、斜里岳もその例外ではなかった。

現地の人さえ登ったことがなかった斜里岳に初めて登ろうとしたのは、昭和2年(1927年)5月の三井農場(西北麓)から来たスキー登山者だったというが、この時には斜里岳山頂にまでは達せず途中で引き返している。昭和3年(1928年)3月に、越川駅逓(こしかわえきてい)から斜里岳にスキー登山を試みた人物が、初めて斜里岳山頂にまで登りきったというが、その人物が誰なのかの名前までは記されていない。

1959年、深田久弥は妻・小学6年生の次男を伴い、釧路山岳会の佐藤・横浜、早稲田大の鏑木と一緒に6人で清里町駅にまで行き斜里岳に登ったが、現在も斜里岳登山の始点となっている『清岳荘(せいがくそう)』は営林署によって1957年(昭和32年)に建てられたのだという。斜里岳山頂に初めての神道式の社(やしろ)が建てられたのは、大山津見大神(おおやまつみおおかみ)と天之水分大神(あめのみくまりおおかみ)を祀った昭和10年で、昭和34年にその社が神明造りで再建されたのだという。

参考文献
深田久弥『日本百名山』(新潮社),『日本百名山 山あるきガイド 上・下』(JTBパブリッシング),『日本百名山地図帳』(山と渓谷社)

スポンサーリンク
楽天AD
Copyright(C) 2016- Es Discovery All Rights Reserved