古代ギリシアの精神病理と中世ヨーロッパの魔女狩り

古代ギリシア・ローマ時代の精神病理の理解
中世ヨーロッパの成立と魔女狩り

古代ギリシア・ローマ時代の精神病理の理解

古代ギリシア文明では、『自分が認識可能な能力・属性』については既知のものとされましたが、自分や他者が合理的に認識できない精神現象やアイデア、生理現象については『超自然的な神の業』と考えました。てんかんの持病を持つ哲学者のソクラテス(B.C.470-399)は、ダイモーン(鬼神)の声を聴いて哲学的な思索を進めたといいますが、ダイモーンは現代の精神医学の見地からすれば病理的な幻聴症状に該当するものです。『イリアス』『オデュッセイア』を著した伝説上の詩人ホメロスは、『既知のもの』と『未知のもの』との曖昧な区分によって人間存在の秩序を打ちたて、狂気のような精神病理は『ダイモン・神・制御不能な情動』によって説明が行われました。

B.C.14世紀頃に、青銅器を持つクレタ文明(クレタ島)とミケーネ文明(ミュケナイ・ティリンス)は、青銅器よりも戦闘に適した鉄器を持つギリシア民族(アカイア人・イオニア人・ドーリア人)によって滅ぼされます。この時代からエーゲ海の島嶼部や地中海沿岸部、小アジアにギリシア植民都市が急速に増え、B.C.8世紀頃にアテナイ(アテネ)やスパルタが強大なポリス(都市国家)として成長しました。ホメロス時代には精神の本質である『プシュケー(魂)』の理解は『死ねば魂が人間から失われる』といった漠然としたものでしたが、アテナイで学問や芸術が興隆し始めると、プシュケー(精神)とソーマ(身体)が一元論的に不可分のものとして論じられるようになり、プラトンのイデア思想(idealism)を経由してプシュケーとソーマの心身二元論が主流になってきます。

ギリシア三大悲劇詩人として知られるアイスキュロス(B.C.525-B.C.456年)は謙虚(ソープロシュネー)と傲慢(ヒュブリス)の二元論で精神を捉え、『オイディプス王』の悲劇を書いたソフォクレス(B.C.496-B.C.406)は人間の精神構造(性格構造)を『プシュケー(情緒)・フロネーマ(情緒と知性の接合力)・グノーメー(知性)』の3つの要素から成り立つと考えました。

ソクラテスやプラトンは精神疾患の原因を自然的要因に求めようとしますが、学問研究が盛んなアテナイにおいても精神疾患は『差別と畏敬の両義的対象』として見られ、プシュケーの狂気は伝染するとして共同体から不当な迫害を受けることもありました。哲学者プラトン『狂気の歴史(1961)』を書いたミシェル・フーコー(1926-1984)に先駆けるかのように、『狂気とは神霊の働きによる社会的慣習からの逸脱である』と定義し、狂気の類型として『予言的狂気(アポローン)・密儀的狂気(ディオニュソス)・詩的狂気(ムーサ)・美的狂気(エロス)』の4つを提起しました。

予言的狂気は、当時のギリシア世界の宗教的権威であったデルフォイ(デルポイ)のアポロン神殿で巫女が下す神託にも通底するもので、予言的狂気は秩序志向的な知性に基づく心理療法に応用されました。密儀的狂気(ディオニュソス)は予言的狂気の対極にあるもので、集団で舞踊を踊ったり大声で叫んで騒いだりしながら『脱魂状態・忘我状態(エクスタシー)』による精神の解放を目指しました。ディオニュソスの狂気が生む心理療法とは、非日常的な解放感や脱秩序志向の自由な舞踏によって、人間の精神から病理の鬱屈や差別の弊害を取り除こうとするものでした。

古代ギリシア世界では、『医学・精神治療』『宗教・呪術』の境界線は曖昧であり、前ソクラテス時代の哲学者ピタゴラスやエンペドクレスはシャーマンや予言者のような呪術的医療の実践者でもありました。しかし、医神アスクレピオスのもとで、合理的(科学的)な医学治療を標榜するヒポクラテスが登場して、呪術や儀式とは異なる臨床医学の先駆者となり、『ヒポクラテス全集』の知見はローマのガレノスやイスラーム圏の医師たちに大きな影響を与えることになります。

数学・天文学・博物学(動植物学)・政治学・論理学・文学演劇などを研究して『万学の祖』と呼ばれたアリストテレス(B.C.384-322)も、ヘレニズム時代を経てローマ帝国の学術・医療の研究やキリスト教の天動説の世界観に影響を及ぼします。ローマ期にヒポクラテスの系譜や理論を継ぐ最大の医師とされたのはガレノス(129頃-200頃)でしたが、ガレノス時代の医療・医師教育の中心地は北アフリカのアレクサンドリアであり、キリスト教の布教によって科学的な医療が衰退するまでアレクサンドリアは医師の再生産地として機能していました。

コンスタンティヌス大帝によってキリスト教は公認され(313年)、テオドシウス大帝によって国境化されます(380年)が、ローマ帝国におけるキリスト教の隆盛によって医学(臨床医学)と信仰(神の恩寵)の区別が曖昧になり、その後の中世ヨーロッパでは宗教療法(神霊治療)を行う教会や修道院が病院の役割を果たすようになります。ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国が滅ぼされると、ヨーロッパ世界はローマという政治的統治の中心軸を失いますが、各王国の軍事的な王権とキリスト教会の宗教権威によって世界秩序の再建が進められることになります。

西ローマ帝国が崩壊するとゲルマン民族の諸部族が領土・利権を巡って戦う群雄割拠の中世ヨーロッパへと移行していきますが、その中で有力な部族として突出してきたのがガリア地方のフランク族であり、フランク族のクローヴィス1世(465-511)メロヴィング朝 (481-751)を成立させ、8世紀にメロヴィング家の王権が衰退すると宮宰(財政・行政の最高執政官)のピピン3世(714-768,小ピピン)カロリング朝(751-987)を開きました。

中世ヨーロッパの成立と魔女狩り

『カール・マルテル→ピピン3世→カール大帝』という系譜によって、フランク王国(カロリング朝)の支配圏と権勢は拡大しますが、カール・マルテルが732年に『トゥール・ポワティエ間の戦い』ウマイヤ朝イスラーム帝国を撃退したことで、西欧世界をイスラーム世界から防衛することができました。カール・マルテルはトゥール・ポワティエ間の戦いの後に、カロリング朝の家臣(騎士)に封土(土地)を分け与え、その代わりに家臣団に忠誠と奉公を誓わせるという『中世的な封建主義』の原型を整えました。

9~10世紀のヨーロッパ世界は『暗黒の中世』と呼ばれるように、土地(農耕地)が荒廃して農業生産力が低下し、都市をつなぐ交通路には盗賊・山賊が多く出没して治安も悪化しました。更に、『異端審問(異なる発想や知見の宗教的排除)』を駆使するキリスト教神学(スコラ学)の浸透によって、『科学的知識・実証的研究の進歩』が抑圧されるという『知の暗黒』も拡大していました。一方、古代ギリシアの哲学・学問・医学が伝播したアラブ世界(イスラム世界)では、独自の先進的(科学的)な学術体系が花開くことになり、アラブ世界との貿易活動(海陸の通商)や侵略戦争を通じて、キリスト教の規範的文化に覆われたヨーロッパ世界に当時の先端をゆく学問・文物・技術が輸出されました。

ピピン3世の後を継いだカール大帝(シャルルマーニュ,742-814)は、数多くの軍事征服を成功させて西ヨーロッパ世界を統一した偉大な国王(皇帝)として知られる人物ですが、その最大の功績は『西ローマ帝国の復興』『古典ローマ文化・ゲルマン文化・キリスト教文化の融合』でした。カール大帝の大規模な軍事遠征によって、フランク王国の領土は現在の『フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア』の各一部にまで拡大し、現在でもカール大帝(シャルルマーニュ)はフランスとドイツの始祖であるという評価が為されています。800年12月25日には、サン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世(在位:795年-816年)によってカール大帝は戴冠し、ローマ教皇庁の守護者として西ローマ帝国の皇帝が数百年ぶりに復活することになります。

カール大帝の文化的功績としては、イタリア・ルネサンスに先駆けてギリシア-ラテン文化を復興しようとした『カロリング朝ルネサンス(Carolingian Renaissance)』があります。カロリング朝ルネサンスでは古代ギリシア・ローマの学術研究の復興が精力的に進められ、ラテン語の教育文化の振興によってキリスト教神学の知的基盤が整備されました。この時に大きな学問上の貢献をしたのが、アルクィン(735-804)をはじめとするブリタニア(イングランド)の知識人であり、アルクィンはフランク王国の教会制度(教育制度)や教義の再編に大きな役割を果たしました。中世ヨーロッパでは病者の医療や看護(ケア)が、ベネディクトゥス修道院やフランシスコ会といったキリスト教会で行われますが、中世における精神障害の認識は『狂気対正気・正常対異常』という単純なものではなく、狂気の中に『神聖性・真理性・預言性』を見出すという側面を持っていました。

暗黒の中世を表現するキーワードとして農村共同体における『魔女狩り』がありますが、魔女狩りは単なる『悪魔崇拝・異端信仰・呪術儀式・魔術行為・悪魔の憑依・パーソナリティの異質性』に対する弾圧ではなく、魔女狩りには共同体の村八分の要素や民衆を抑圧する政治体制(官僚の失政)のガス抜きの要素、魔女とされた人物の財産の没収の要素が見られました。魔女狩りというと中世の全期間を通して行われたような印象がありますが、実際にカトリック教会の異端審問が関与する魔女狩りが行われた期間は中世の末期(15世紀~18世紀)に限られており、それ以前の魔女狩りは封建的な村落共同体における民衆裁判だったと考えられます。15世紀初頭にスイス・ヴァレー州の異端審問所が魔女裁判を行ったのが最初だとされますが、魔女裁判(魔女狩り)のキリスト教の神学上の根拠は、旧約聖書の『出エジプト記』22章18節律法にある『呪術を使う女(ヘブライ語でメハシェファ)は生かしておいてはならない』という章句だったといいます。

13世紀のヨーロッパでは、イタリア、パリ、南フランス(プロヴァンス)、ライン川沿岸に次々と大学機関が設立され、自治都市群の裕福な子弟の多くが大学に通って『スコラ学・ローマ法』を学びました。当時の大学で最も重要な教科は、キリスト教神学と結びついた『スコラ学』と社会秩序を維持するルールを学ぶための『ローマ法』でしたが、14世紀以降のイタリア・ルネッサンスの影響によって学問の自由化が進み『ネオプラトニズム的な神秘主義』にも注目が集まるようになりました。

ネオプラトニズム(neoplatonism)とは、3世紀のプロティノスに始まるプラトン思想に類似した思想潮流のことであり、科学的な実証主義や経験主義の対極にある『直感的・観想的・メタファー的な思想類型』のことです。ネオプラトニズムは『イデア的な一者からの世界創造・一元論的な世界認識』という理念を持っており、キリスト教神学とも相性が良かったが、イタリア・ルネサンス期にもネオプラトニズムが流行して神秘思想や呪術儀式と結びつきます。具体的には、中世ヨーロッパの大学生たちは『占星術・錬金術・魔術・呪術』に深い興味を持っていたのであり、15世紀以降の先進的な地域(特にイタリア・フランスの都市部)ではこれらの魔女と結びつきそうな学問はタブーではありませんでした。

ルネサンス期のネオプラトニズムの学問の中で最も高い人気と敬意を得ていたのは、哲学者プラトンとエジプトの占星術師ヘルメス・トリスメギストスであり、天体(星)の運行によって人間の人生や社会の未来を予測できるという占星術を多くの学者や知識人が信じていました。神秘主義的なネオプラトニズムは、大宇宙(マクロコスモス)である宇宙と小宇宙(ミクロコスモス)である人間が相互に照応していると説き、そういった世界観を持っている大学卒業生たちがルネサンス期の王朝(宮廷)に『官僚・宮廷人・魔術師(占星術師)』として就職していったのです。しかし、14~16世紀の各地の王朝は政情が不安定で国家の財政状況も厳しかったため、多くの宮廷官僚や知識人の失業者を生み出し、気候の寒冷化の影響もあって農業生産力も低迷しました。国家の経済状況の悪化によって『高学歴の失業者の不満』が高まり、村落共同体の農業生産の低下と生活困窮とによって『民衆(農民)の集団ヒステリー』が起こりやすくなります。

これらのことを踏まえると、中世の魔女狩りの原因には『宮廷官僚層(エリート層)の不満・自治都市の没落・寒冷化による農村の荒廃・ペストの被害』といった社会全体の不安や不満が大きく影響していたのではないかと推測されます。魔女狩りの多くは領土が小さくて生産力が弱い政情が不安定な地域で行われており、魔女狩りには『没収した財産・家産』を裁判官が自分の所有物にできるという特権もあったので、私財や利権を増やしたい異端審問所の裁判官が率先して魔女裁判を請け負ったという事情もありました。官僚やカトリックの僧侶エリート層には『財産・家産の没収』という利益があり、一般の民衆や農民には『生活不安の一時的解消(スケープゴートによるカタルシス)』という精神的メリットがあったと考えられます。

魔女裁判では精神障害者たちも犠牲になりましたが、13世紀以降はペストの大流行によってライ病者が激減したので、ライ収容施設に精神障害者が収容されるという問題が起こってきました。魔女裁判に反対する思想家・宗教家・クリスチャン・神秘主義者も少なからずいましたが、『共同体の秩序維持』『法務官僚・カトリック聖職者の利権』と絡んだ魔女狩りが終焉するのは、近代啓蒙思想(科学的思考形態)が知識人・法務官僚に普及し始めた17~18世紀のことでした。共同体の秩序を維持し民衆の不満を逸らすために行われた魔女裁判は、『非生産的な異端者・非標準的な異質性』を排除するという意味では精神障害者の隔離・迫害とも共通した要素があり、実際に幻覚・妄想など重い精神症状を持つ人が魔女裁判にかけられた事例が少なくなかったと見られています。

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