惜しむべし一杯の茶(おしむべしいっぱいのちゃ):投子和尚

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惜しむべし一杯の茶
(おしむべしいっぱいのちゃ)

投子和尚(とうすおしょう)

[出典]
『五燈会元』

[意味・エピソード]

投子和尚(805-914)は中国の唐(618-907)の末期から群雄割拠の五代十国時代(907-960)を生きた禅僧である。投子和尚の下で稽山(けいざん)の章禅師(しょうぜんし)が修行をしていた時、柴頭(さいじゅ)という役職を割り当てられていた。

柴頭というのは柴を刈って薪を作る役職である。章禅士(修行僧の段階では禅師ではなく禅士と記述する)は薪作りの仕事を終わらせた後で、師の投子和尚から『一杯のお茶』を振る舞われてねぎらいを受けた。

投子和尚は一服のお茶を点てて(たてて)、とぽとぽと茶碗にお茶を注ぎながら言った。『森羅万象、すべて這裏(しゃり)に在り』と。這裏というのは『ここ(此処)という意味』を持つ唐・宋の時代の俗語であるが、投子和尚はこの一杯のお茶に世界のすべて(森羅万象)が含まれているという非常に意味深な言葉を語りながら差し出してきたのである。

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禅問答の緊張感を伴う師の投子和尚の一杯のお茶の振る舞いであり、普通であれば章禅士はそう簡単に『森羅万象が宿るとされる特別なお茶』を飲むことはできない。しかし章禅士は森羅万象が宿る大変なお茶なのだぞという投子和尚の威圧にまったく屈することはなく、むしろ負けん気の強さをむき出しにして反射的に思いがけない行動に打って出たのである。

まだ修行者の身である章禅士だったが、師匠の投子和尚の挑発的で意味深な言葉が終わらないうちに、反射的に力を入れて茶碗を吹き飛ばしてしまった。吹き飛ばされた茶碗からはお茶がこぼれただろう。章禅士は師が振る舞ってくれたお茶の意味を考えたり、受け取ろうかどうか迷ったりすることはなく、『森羅万象、何の処にかある(森羅万象などという大それたものがどこにあるというのか)』と言いながら力技で茶碗を吹き飛ばすという行動に出たことになる。

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章禅師は『このお茶に森羅万象が入っている』と大言壮語する師の投子和尚に対して、お茶(森羅万象)の入った茶碗を手で吹っ飛ばして中身のお茶をこぼすことで、『森羅万象が入っているというが中身はただのお茶じゃないか』という実力行使的な科学的反駁をしたとも言える。

しかし、章禅師のこういった力任せの禅問答(公案)への回答方法は、禅宗の世界ではほとんど認められることがなく、若さばかりが勢い立った『禅機(禅的機鋒)』であると批判的に言われることが多い。この力任せの科学的反駁に直面した投子和尚は参ったというどころか、静かな眼差しと落ち着いた口調で『惜しむべし、一杯の茶』とだけ返したのである。

『惜しむべし、一杯の茶』という投子和尚の何気ない言葉には、あぁ、一杯の大切なお茶をひっくり返して悦に入るなんてまだまだ悟りの水準が浅いねという投子和尚のシニカル(冷笑的)な態度も見え隠れする。問いかけながら出された一杯のお茶を飲み干すのではなくひっくり返してしまった章禅師のいきり立つ若い未熟な禅機に対して、投子和尚はまだまだ『森羅万象が這裏=ここにあるということ』の意味が分かっていないなあという思いを込めて、『惜しむべし、一杯の茶』と語ったのである。

参考文献
有馬頼底『茶席の禅語大辞典』(淡交社),秋月龍珉『一日一禅』(講談社学術文庫),伊藤文生『名僧のことば 禅語1000』(天来書院)

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