イスラム教の宗教教義と行為規範

偶像崇拝や多神教的信仰を否定する『厳格な一神教』であるイスラム教(イスラーム)は、7世紀初頭にムスリムが偉大な最終預言者であると信じるムハンマドによって創始された。ムハンマドが唯一神アッラーフ(アッラー)の啓示を、天使ガブリエルの声を介して受けたというイスラム教誕生の年は厳密に特定されていない。但し、イスラム暦の始まりは、メッカからヤスリブ(メディナ)へのヒジュラ(聖遷)が行われた622年7月16日であるとされ、西暦とイスラム暦とを区別するために『A.H.(After the Hijrah)』と記述することがある。

イスラム教(イスラーム)の誕生の経緯については、『イスラム教の誕生とムハンマド』を参照して頂きたいが、ここでは、ムスリム(イスラーム信者)の生活全般の規則を示す戒律やイスラーム国家の政治経済にも影響を与えるイスラム教の基本的な教義を説明したいと思う。

イスラム教が他の宗教と異なる最大の特徴は、政教一致のウンマ(イスラーム共同体)を理想とする政体が存在すること、クルアーン(コーラン)シャリーア(イスラム法)で規定されるムスリムが守らなければならない戒律・教義(六信・五行)が現在でも形骸化していないことである。キリスト教や仏教にも聖職者や信者が守るべき禁欲的な戒律規程は存在するが、その多くは形式化・形骸化していて厳格に戒律・禁忌が守られているケースは少ない。特に、飲食の種類や断食の時間、偶像崇拝に関する禁忌などは、イスラーム以外の宗教で厳格に守られている宗教は極めて稀である。

デンマークなど欧州のキリスト教国で、ムハンマドの風刺画がイスラーム信者の強烈な反発と憤慨を受けたが、これもイスラームの戒律で厳しく偶像崇拝が禁じられているためである。唯一神アッラーフやその最終預言者ムハンマドは、絵画や彫刻などの偶像によってその神聖性(人間の預言者に過ぎないムハンマドは神聖な崇拝対象ではないが)や偉大さを表現することが不可能であり、偶像崇拝は神以外の物象を崇めることになるので禁じられている。

メッカのカーバ神殿に献納されているアッラーフの御神体は、イスラーム誕生以前の多神教時代に、地球外の惑星からの隕石と伝承されていた黒曜石であるが、聖地メッカにあるカーバ神殿への礼拝行為は禁止されている偶像崇拝には該当しない。勿論、イスラム教の礼拝所(寺院)であるモスクには、キリスト教の教会のような偶像崇拝の対象となる彫刻・絵画・ステンドグラスは存在しない。

イスラム教はキリスト教や仏教という他の世界宗教と比較すると、宗教教義がムスリムの日常生活の隅々にまで行き渡っているという点が注目される。即ち、政治・経済・法律・倫理・都市建築などもイスラム教の教えによって正しいあり方が規定されていて、キリスト教や仏教よりも社会や民衆に与える影響力の強度が非常に大きいのである。ムスリムの人生全体の方向性やムスリムが生活する社会の規範意識・政治規律を規定するという意味で、イスラム教は一般的な宗教というよりも宗教的な政治社会文化の全体を指示すると解釈することもできる。

イスラームを信仰するムスリムは、ユダヤ教徒やキリスト教徒を『啓典の民(アフル・アル・キターブ)』と呼ぶが、それはムスリムがイスラームとキリスト教、ユダヤ教の神が本質的に同一の唯一神であると考えているからだ。歴史的に先行したユダヤ教の神(ヤハウェ)とキリスト教の神(父なる神)も、アッラー(アッラーフ)と同一の神であり、旧約聖書や新約聖書といった教典も、最終的な真理を啓示するクルアーン同様に神聖な啓典なのである。

クルアーン(コーラン)とは、アラビア語で『読誦・朗読するもの』という意味であり、ムハンマドが聞いた唯一神アッラーの啓示を体系的にまとめたものとされる。敬虔なムスリムにとって、最終的な啓示ではない旧約聖書と新約聖書の神聖性・価値は、来世における救済の真理を伝えるクルアーンよりも劣るが、重要な先行聖典であることに変わりはない。無論、アル・クルアーン(コーラン)をアッラーの意志と救済を伝える最高の聖典と信じるムスリム自身も『啓典の民』である。

イスラームの教義では、キリスト教世界において神と同一とされる神の子イエス・キリストも、ユダヤ教初期の預言者アブラハムやモーセと並ぶ一人の預言者に過ぎないとされる。唯一神アッラーは、この世界に12万4千人の預言者を遣わされたが、クルアーン(コーラン)には25人の預言者について記載がなされていて、その最終預言者がイスラム教の開祖ムハンマドなのである。ムハンマド以外に特に重要な預言者としてクルアーンに取り上げられているのが、アダム・ノア(ヌーフ)・アブラハム(イブラヒム)・モーセ(ムーサー)・ダヴィデ(ダーウード)・イエス(イーサー)らである。

敬虔なイスラム教徒(ムスリム)は、中東地域の全土、アフリカ、東南アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ大陸など世界各地にいて、世界の総信徒数は2006年現在で約13億人から14億人に上ると見られておりその信徒数は現在でも増加を続けている。

六信・五行

唯一神アッラー(アッラーフ)に無条件に帰依して絶対服従するムスリムは、クルアーンの言葉やスンナ(ムハンマドの言行録)の解釈から導かれる『六信・五行』を信じて実践しなければならない。ムスリムは、神の前の人間の平等を尊重し、現世の向こうにある来世の存在を信じている。アッラーに全てを捧げる敬虔な信仰生活を真面目に送ることによって、死後の『最後の審判』の試練に耐え、神の国へと入れると信じているのである。アッラーの御意志に従って六信・五行の規定を忠実に守り、クルアーンやハディースで規定された善行を積み重ねるのがムスリムの勤めなのである。

六信

ムスリムが信じなければならない6つの信仰箇条である『六信』とは以下のようなものである。

五行

ムスリムが最大限の努力をして実践しなければならない5つの実践項目である『五行』とは以下のようなものである。

ハディースとシャリーア

ハディースとは、ムスリムが尊重して従属すべき預言者ムハンマドの言行(スンナ)を記録した書物のことで、唯一神アッラーの言葉をそのまま記した啓典ではないが、クルアーンに次ぐ価値と権威を持つものとされている。

ムスリムが尊敬の念を捧げるムハンマドの詳細な言行録であるハディースは、クルアーンで網羅し切れないムスリムの日常生活や社会制度に関する細々とした行為規範の根拠として使われることが多い。ハディースは、神アッラーの言葉であるクルアーンだけでは導き出せないムスリムが遵守すべき規範を伝えたり、実践することが望ましいとされる行動を示唆したりする書物である。

アッラーの啓示であるクルアーンとムハンマドの生活行動記録であるハディースは、イスラム世界で大きな権威と規制力を持つシャリーア(イスラム法)の重要な法源となっている。シャリーアは、信仰・教義・祭祀儀礼といった宗教本来の規則だけでなく、結婚・離婚・性・割礼・経済活動・契約行為・違法行為に対する刑罰規定など、ムスリムの生活全般とウンマの社会制度を細かく規定するイスラーム独自の宗教法学の成果といえる。無論、自由主義と民主主義、人権思想を前提とする近代法の精神とは相容れない部分は数多くあるが、シャリーアはイスラーム文化圏では倫理観や行為規範の本質的根拠とされることも少なくない。

イスラム共同体の法律・倫理として機能するシャリーアの法源としては、『クルアーン・ハディース・イジュマー(合意)・キヤース(類推)』の4つがある。

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