『間宮林蔵のカラフト探検と幕府の蝦夷地支配』の項目ではロシアの日本への外交的接近について説明し、蝦夷地(北海道)に対する幕府の探索領域の段階的な拡大を見てきました。19世紀初頭の幕府の政治に視点を転じると、1817年に老中・松平信明(まつだいらのぶあきら,1763-1817)が死去して、11代将軍・徳川家斉(いえなり:在位1787-1837,1773-1841)の小姓を勤めていた老中・水野忠成(みずのただあきら,1763-1834)の勢力が拡大していきます。水野忠成は洒脱な『化政文化』が爛熟した時代の老中であり、大御所となって派手な生活を享受する徳川家斉に追従する放漫財政を黙認したため、幕府の財政は急速に悪化しました。1818年に老中となった水野忠成は多額の収賄を受けながら、将軍家に取り入って官職・地位を得ようとする大名家の斡旋(賄賂政治)をしたことでも知られ、『水野出て 元の田沼と なりにけり』といった川柳が庶民によって詠まれています。
水野忠成(ただあきら)の老中としての実績に1818年からの貨幣改鋳(かへいかいちゅう)があり、忠成は1818年~1835年までの『金貨・銀貨の改鋳』によって莫大な増収を実現しました。しかし、それ以上に11代将軍・徳川家斉の私生活や大勢の子息の婚姻に対する出費(支出)が大きくなっており、幕府の財政赤字は大幅に増大する傾向を示しました。御三卿・一橋徳川家2代当主の徳川治済(とくがわはるさだ,1751-1827)は田沼意次の『田沼時代』を終焉させた人物として知られますが、その後には田沼に取って代わって『寛政の改革』を断行した松平定信も失脚させています。
この徳川治済の長男が11代将軍・徳川家斉でしたが、家斉は薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)の娘・近衛寔子(このえただこ,近衛経熙の養女)を正室の御台所にして、40人以上の側室を持った『子沢山の将軍』としても知られています。11代将軍・徳川家斉には55人の子どもがいたとされますが、その内25人が成長して徳川家や他の大名家と縁組みしていくことになり、この『縁組み=将軍家の婚姻に対する大名家の斡旋』を請け負った水野忠成に権力と財力(贈収賄)が集中しました。
11代将軍・徳川家斉の治世の後半(譲位後の大御所時代)は、奢侈贅沢な将軍の生活と大名家との縁組みによる出費増大(結納金・下賜金)によって『幕府財政の悪化』が進み、綱紀の乱れや賄賂政治の横行によって『幕政の腐敗』が目立つようになりました。家斉の晩年には老中の間部詮勝(まなべあきかつ)や堀田正睦(ほったまさよし)、田沼意正(意次の四男)を重用する側近政治が行われましたが、水野忠成が一族同門の肥前唐津藩主・水野忠邦(みずのただくに,1794-1851)を抜擢して老中の後任に据えたことにより、1841年1月の家斉没後には質素倹約・綱紀粛正を旨とする『天保の改革(てんぽうのかいかく)』が実施されることになります。
水野忠邦は唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれますが、肥前唐津6万石の藩政改革を行った後に、老中・水野忠成に働きかけて東海地方の浜松6万石に転封されます。水野忠邦はその後も順調に出世路線を歩んで、大坂城代などを経験してから1834年3月に江戸城本丸の老中に就任しました。11代将軍・家斉が『大御所』として存命中には、忠邦の政治的なアイデア・手腕を発揮する機会はありませんでしたが、家斉の死後には老中の松平康任(まつだいらやすとう,1779-1841)と水野忠邦が幕政で大きな力を持つようになります。
水野忠邦は但馬国出石藩(いずしはん)で起こったお家騒動の『仙石騒動(せんごくそうどう,1834年)』を利用して、敵対していた松平康任を老中自認に追い込みました。老中首座・松平康任は出石藩の改革派・仙石左京から6,000両もの賄賂を受け取って、自分の姪を左京の息子・小太郎に嫁がせていたので、左京のお家乗っ取りに加担していたとして処分されたのでした。
12代将軍・徳川家慶(いえよし:在位1837-1853,1793-1853)の下で1839年に老中首座となった水野忠邦でしたが、忠邦の改革政治の眼前には『幕府財政の悪化・異国船の到来(海防問題)・農村荒廃と年貢収入の激減・飢饉と打ち毀し(打ちこわし)』など数多くの難題が立ちふさがっていました。1837年2月には大坂で元与力の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が、天保の大飢饉に見舞われて生活に困窮する農民・民衆を煽動して大規模な打ちこわし(世直しの性格を持つ一揆)の『大塩平八郎の乱』を起こしており、幕府の武家を中心とする階層的な支配秩序に揺らぎが見え始めました。
老中首座に出世する前の1835年に、勝手掛老中であった水野忠邦は銭貨で最も高価な通貨となる『天保通宝(てんぽうつうほう)』を改鋳して、幕府財政の建て直しに着手し1837年~1842年までに150万両を超える益金(収入増加)を得たとされます。水野忠邦の本格的な天保の改革は1841年(天保12年)5月から開始されることになりますが、12代将軍・徳川家慶は幕閣・官僚を前にして、徳川吉宗の『享保の改革』と松平定信の『寛政の改革』を手本とした改革を断行せよという訓示を行いました。
つまり、水野忠邦は財政が逼迫する武家(幕府・大名・旗本)の収入を増大させるために風俗を引き締めて『重農主義的・倹約的な改革』を行おうとしたのですが、江戸・大坂で発達過程にあった『貨幣経済(消費生活)・町人文化・娯楽出版産業』を過度に抑圧するという弊害をもたらしてしまいます。天保の改革は都市部における商品流通を停滞させ庶民の娯楽・消費(奢侈)を禁圧したことで、経済活動の活性化や商業資本の有効活用にとっては逆効果となり、江戸で花開いていた町人文化や出版活動の発展を阻害する結果となりました。
水野忠邦は家斉の『大御所時代』に賄賂政治や側近政治で乱れた『幕政の綱紀・秩序』を引き締めるために、風紀を乱した旧臣を罷免して新たな改革への意欲がある人材を抜擢する『人事刷新』を行いました。この人事刷新によって、真田幸貫(さなだゆきつら,老中)、堀親寶(ほりちかしげ,側用人)、鳥居耀蔵(とりいようぞう,目付)、遠山景元(とおやまかげもと,北町奉行)、矢部定謙(やべさだのり,南町奉行)、岡本正成(おかもとまさなり,勘定奉行)、跡部良弼(あとべよしすけ,勘定奉行)、川路聖謨(かわじとしあきら,小普請奉行)、江川英龍(えがわひでたつ,韮山代官)などが新たに登用されました。当時の老中は、老中首座の水野忠邦、堀田正睦(ほったまさよし)、土井利位(どいとしつら)、太田資始(おおたすけもと)の4人でした。
天保の改革は『貨幣経済・消費生活』に対抗する『重農主義・経費削減』を基本原則とした禁欲的な政治改革であり、『質素倹約・娯楽禁止・農業奨励・軍制改革(西洋砲術の導入)』などによって低下した幕府の権威と統制を何とか回復させようと試みました。水野忠邦の『天保の改革』では、経費節減につながる倹約生活を奨励するための『奢侈禁止令・倹約令』が都市と農村に対して出され、江戸の綱紀粛正・風俗良化を目的として『風俗・娯楽・芸能・出版の検閲規制』が厳しく実施されました。華美な衣服や贅沢な生活の流行を招いて風俗を悪化させるなどの理由で『歌舞伎(かぶき)』は特に厳しい弾圧を受け、『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』を書いた為永春水(ためながしゅんすい)や『偽紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』を書いた柳亭種彦(りゅうていたねひこ)も処分を受けています。
1841年11月には、物価引下げを目的として『株仲間の解散(株仲間解散令の発布)』が行われ、商品の専売を行っていた菱垣廻船積問屋仲間(ひがきかいせんつみどんやなかま)を解散して流通の自由化が試みられましたが、それまでの流通システムが機能しなくなりかえって商品経済が停滞することになりました。重農主義と年貢収入増加の観点からは、江戸に出稼ぎに来ている農村出身者を故郷の農村に帰らせる『人返し令(ひとかえしれい)』が出されました。
天保の改革の総決算として水野忠邦が打ち出したのが、1843年6月に出した江戸・大坂周辺の領地を幕府直轄地にして没収するという『上知令(あげちれい)』でしたが、この上知令に対して大名・旗本から強硬な反対が起こります。土井利位を奉じた上知令の反対勢力によって水野忠邦は老中の座を追われることになり、反商業資本的な質素倹約・経費節減・風紀粛清を中核とする天保の改革は挫折しました。商品経済や出版・芸能の文化を萎縮させて農業経済(年貢収入の財政基盤)へと回帰しようとする復古的な天保の改革では、幕府財政の再建や庶民生活の安定(打ちこわし・百姓一揆の解決)は実現することができず、外圧に対する海防体制も整備することができなかったのです。
天保の改革が要請された時代背景には、外国船の日本近海への出没(国防の危機意識の高まり)と天保の大飢饉を受けた庶民生活と経済活動の混乱という『内憂外患』がまずあり、そこに庶民・農民の幕政・藩政に対する不満が飢えと共に爆発する『百姓一揆・打ちこわし』の増加が重なっていました。そして、歴史は徳川幕府260年の太平の眠りを強圧的に打ち破る『ペリーの黒船来航(1853年)』へと突き進んでいくことになり、西国雄藩(薩摩・長州・土佐・肥前)の台頭と尊皇攘夷思想の先鋭化によって『幕藩体制・将軍権威』の基盤が大きく揺らぐことになります。
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