『新皇』を称した平将門の乱
瀬戸内海の海賊を率いた藤原純友の乱
古代日本で大王(おおきみ)を中心とする大和朝廷(ヤマト王権)の連合政権が成立して以来、天皇を朝廷(政治機構)の主権者とする律令体制が段階的に整備されていき、桓武天皇(737-806)の時代になると朝廷の権威は奥州地方(東北地方)にまで拡大しました。律令制に基づく朝廷(公家政権)の絶対的な権威を真正面から否定するような勢力は、平安時代中期の平将門の登場まで全く現れませんでした。
桓武天皇は、征夷大将軍の坂上田村麻呂に命じて奥州征討の事業をやり遂げた後に、『健児制(こんでいせい)』の軍制改革をして諸国の軍隊(兵役)を事実上廃止しました。その為、朝廷の軍事力は平安時代以降は大幅に低下して、日本全体の中央集権的な安全保障(治安維持)を行うことが難しくなり、地方諸国の統治は国司・郡司・地方の豪族が行う分権的なものへと変質します。京都・平安京の公家(上級貴族)に代わって、健児(軍団)を組織化した国司・郡司や地方の武士勢力が地方の政治を握るようになり、遙任国司の代官となった受領(ずりょう)が地方で大きな力を蓄えました。
地方国の国司に任命された上級貴族の多くは、文化水準が低く危険の多い現地(任国地)に赴いて政治を行うことを嫌がり、代官を赴かせる遙任(ようにん)国司となります。つまり、遙任国司は自分の権限を委譲した受領を任地に派遣して、『地方からの税金』を受け取るだけの特権階級となり、受領に任命された中級以下の貴族は任地で絶大な権力を握って大きな財産を蓄えたわけです。公家政権である朝廷は、次第に実質的な政治権力から離れて『地方の所領・荘園からの富(租税)』を吸い上げる権威的な政治機関になっていきますが、朝廷の軍事力の低下は地方勢力(武士勢力)の反発を招くことにもなりました。
朝廷の貴族たちが中央集権的に日本国を統治するという『律令制の政治秩序』に、初めて正面から反旗を翻したのが平将門と藤原純友です。平将門(たいらのまさかど,903-940)は、桓武天皇の子孫筋に当たる賜姓平氏であり高望王(たかもちおう)の孫、平良将(良持)の子ですが、関東諸国の国衙(こくが=地方の政庁)を襲って朝廷への反逆の意志を明確に示した初めての貴族です。
高望王には、平国香(たいらのくにか)・平良兼(よしかね)・平良将(よしまさ)・平良正・平良文といった子がいましたが、国香は常陸国大掾(だいじょう)、良兼は下総介(すけ)、将門の父・良将(良持)は鎮守府将軍という官職を得ていて、互いに領土を巡る対立が生じやすい関係にありました。平将門の父・良将は下総国佐倉・豊島・猿島などに勢力圏を持っていましたが、良将の急死後に伯父の国香や良兼からその領土の利権を侵害されるようになり、平氏内部の対立が深まってきます。平将門は京都で藤原北家の氏長者・藤原忠平と主従関係を結びますが、関東の領国に戻ってから平氏一門の内部闘争や源護(みなもとのまもる)との争いに巻き込まれていくことになり、最終的に朝廷に弓矢を向ける『平将門の乱(939)』を起こすことになります。
平将門の乱の原因は確定されていませんが、父の良将(良持)の兄弟の平国香(?-935)・平良兼(?-939)・平良正は、源護(源氏)の娘と婚姻関係を結んでおり、将門と源護の息子の源扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)が935年に衝突したことがきっかけで兵乱が広がったことから、『平将門対源氏一門(源護の血縁者)』という構図で平将門の乱を見ることも出来ます。
平将門の乱の原因としては、『伯父(叔父)達との領地争い・源護の娘を巡る争い・平良兼の娘を巡る争い・源護と平真樹の領地争いの平氏への波及』を考えることが出来ますが、軍記物語の『将門記(しょうもんき)』では冒頭から源扶との戦いが描かれており、将門の乱の直接の原因については説明されていません。『将門略記』では、『女論(じょろん=女性を巡る論争)』によりて源良兼と争うというように記述されており、源護あるいは平良兼の娘を巡る将門の婚姻の問題が将門の乱につながったのではないかと推測されています。935年に、平将門は源扶・源隆・源繁らを打ち破って叔父の平国香を石田館で討ち取りますが、桓武平氏の祖とも言われる国香を滅ぼしたことで国香の子・平貞盛(最後に将門の討伐を行う武将)の強い遺恨を受けることになります。
常平太(じょうへいた)と呼ばれて武芸に秀でていた平貞盛(?-989)は、いったんは将門と和睦しようとしますが、平良兼の粘り強い説得によって平将門と敵対して戦うことを決意します。平国香が討たれた後に、源氏に加勢して将門と衝突したのは、良兼の弟・平良正(たいらのよしまさ)でした。平良正は常陸国・川曲村で将門と戦って敗れます(935)が、平良兼・貞盛に援軍を要請してもう一度936年に再戦を挑みます。
しかし、再び平将門の精悍な軍勢に打ち破られた平良兼・良正・貞盛は、下野(しもつけ)国府に逃げ帰ることになります。平将門を武力で打ち負かすことは出来ないと判断した源護は、朝廷に平将門の横暴を訴えでて将門は朝廷から処罰されることになりましたが、937年に朱雀天皇元服の大赦で罪を許されることになりました。それ以降も、平将門と平良兼・貞盛との武力衝突は続きますが、938年頃までには将門の優勢が明らかとなり、平将門の名声と勢力は関東全域へと広まっていきました。
平将門と平良兼が激しく争った『平氏一門の戦い』は国家への反乱とは見なされませんでしたが、939年2月には、武蔵国権守・興世王(おきよおう)と武蔵国介・源経基(みなもとのつねもと)が、足立郡の郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)と領地を巡って対立します。平将門は三者の利害を調停しようとして紛争に介入しましたが、武蔵武芝の不意討ちの包囲を受けた源経基は京都へと逃げ帰り、興世王・武蔵武芝・平将門が京都に謀反を起こそうとしていると告訴しました。
武士らしい剛勇・武芸には余り恵まれていなかった源経基ですが、『桓武平氏』の祖とされる平国香・貞盛に対して源経基は『清和源氏の祖』と見なされています。源経基に『謀反の疑いあり』として朝廷に告訴された平将門ですが、『謀反の意志はなく事実無根である』という上書を廟堂にいる主人の太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)に送って許されます。その後、新たに赴任してきた武蔵国守・百済貞連(くだらのさだつら)と対立した興世王を将門は庇護して、実質的な支配権を拡大していきます。
平将門の朝廷に対する反逆は、租税を滞納していた藤原玄明(ふじわらのはるあき)を将門が庇護して、常陸国府からの引渡し要求を拒否したことによって始まります。将門自身は朝廷の官軍に武力で立ち向かう気はありませんでしたが、将門追捕の撤回を求めて常陸国府に押しかけた時に、常陸国府から宣戦布告されたために国衙を攻め落としました。常陸介・藤原維幾(ふじわらのこれちか)から国守の印綬を取り上げた将門は、朝廷に対する賊軍の立場に立つことになり、常陸(ひたち)に続いて下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国衙を陥落させて関東一円の盟主となりました。
大和朝廷の成立以降、天皇の朝臣(臣下)の身分で朝廷の律令制を無視して、地方の独立勢力となったのは平将門が初めてですが、将門は『西の朝廷』と対等な政治権力であることを明示するために自らを『新皇(しんのう)』と称しました。長い歴史を持つ天皇と並び立つ新皇の地位の正統性を担保するために、将門は八幡大菩薩の巫女の神託を受けて新皇の座に就きました。
将門は岩井(茨城県坂東市)に政庁を置く自身の政権の正統性について、『将門はすでに柏原帝王(桓武天皇)の五代の孫なり。たとひ長く半国を領せるも、豈非運と言わんや。昔、兵威を振ひて天下を取る者、みな史書に見るところなり。将門、天の与へたる所、すでに武芸にあり、思ひはかるに、等輩(ともばら)誰か将門に比せん』という言葉で堂々と宣誓しており、桓武天皇の血統を引く自分には日本の半国(東国)を支配する権限があると語っています。
平将門は、『伝統的な権威』ではなく『軍事的な実力』によって、西国の公家政権(朝廷)と並び立つ東国の独立王国を作りたいという気概を持っており、この将門の『実力主義の論理』が後の鎌倉幕府の開設へと発展していきます。古代中国の史書(史記・春秋)を見ても、武勇に優れて戦争に勝った王侯(殷の湯王・周の武王・斉の桓公・秦の始皇帝)が天下の支配者となっているのだから、日本国でも兵威(武力)を振るって天下を実力で支配しても良いではないかというのが将門の実力主義の思想でした。
群雄割拠の戦国時代になれば下克上に象徴される実力主義が当たり前になりますが、『天皇の権威の絶対不可侵性』が信じられていた平安時代には『実力主義の価値観』は極めて異端でした。どんなに強大な武力を持った武将であっても、朝廷の天皇・貴族に逆らってはいけないと無条件に考えていた時代であり、儒教的な君臣の忠義が誠実に守られていたので朝廷に反逆を企てる臣下はまずいませんでした。
朝廷の権威に屈服せずに地方勢力の独立を主張する平将門の登場に朝廷の貴族たちは驚嘆して、藤原忠文を征東大将軍に任命して討伐軍を差し向けます。関東(坂東)全域を支配下に置いて勢威を振るった平将門でしたが、940年に藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・平貞盛・藤原為憲の連合軍と戦って敗れ、乱戦の中で鋭く飛来してきた弓矢(神鏑,しんてき)に額を撃ち抜かれて死去しました。
『新皇』を称して僅か2ヶ月で将門を頭領とする新政権は瓦解したわけですが、朝廷への反逆者である将門の首は京都へと持ち運ばれて晒し首にされました。平将門の乱と藤原純友の乱が同時に起こった10世紀半ばは、中華帝国の「唐(618-907)」が黄巣の乱以後の混乱の中で滅びた時代であり、中国の律令体制が崩壊して「五代十国」の戦国時代が幕を開けた時代でした。朝鮮半島では、新羅・後百済を征服した太祖・王建が統一国家の高麗(918-1392)を打ち立てることに成功し、大帝国の唐を中心とする東アジアの世界秩序が大きく変化しようとしていました。こういった唐の律令体制が崩れかけた東アジアの動乱の時代に『新皇』と呼ばれる平将門が現れて、旧来の朝廷の律令制から独立した新国家(武人政権)を樹立しようとしたのです。
関東(坂東)で起きた平将門の乱と同じ939年に、瀬戸内海沿岸で藤原純友の乱が起きますが、この二つの朝廷に対する反逆を合わせて『承平・天慶の乱(しょうへい・てんぎょうのらん)』と呼びます。承平天慶の乱は、関東と西国(瀬戸内海)で朝廷の権威に抵抗する武装勢力が同時に発生したという驚異的な事件であり、公家政権の中央集権的な統治力の衰えを象徴する出来事でもありました。
藤原純友は藤原北家(藤原冬嗣・長良)の血統を継ぐ中級貴族でしたが、父の藤原良範を早くに亡くしたので中央での出世を諦めて地方官の伊予掾(いよのじょう)の任務に就いていました。当初は伊予掾として瀬戸内海で強奪を働く海賊鎮圧の役目を忠実に果たしていましたが、瀬戸内海沿岸の海賊や地方官を取りまとめた藤原純友は、936年までに自身が海賊の首領となって海賊行為を指揮するようになりました。海賊鎮圧の職務を帯びた官軍の司令官・藤原純友が、朝廷の命令を無視して海賊行為を指揮し始めたので、京都の朝廷は追捕使長官・小野好古(おののよしふる)、追捕使主典・大蔵春実(おおくらはるざね)、征西大将軍・藤原忠文(ふじわらのただふみ)らに純友の征伐を命じました。
海賊勢力と地方官を統率した藤原純友の反乱勢力は強く、約2年間もの長きにわたって日振島(ひぶりじま)を拠点とした活動を行い、瀬戸内海の安全を脅かし続けました。藤原純友の軍勢の力が弱まるのは、伊予国警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)の本格的な追討が始まってからであり、遂に940年に、橘遠保によって純友・重太丸父子は捕縛されて処刑されます。有能な指導者を失った海賊勢力は次第にその力を弱めていき、941年には瀬戸内海の安全が回復して藤原純友親子の首が朝廷に送り届けられました。
伊予・讃岐・阿波を含む瀬戸内海沿岸を勢力圏とした藤原純友の乱は、一時期、九州地方にも到達するほどの勢いを持っており、大宰府追捕使の軍勢も純友に敗れたのですが、平将門の乱を鎮圧した朝廷が軍勢を集中させて討伐に当たったことで、純友の反乱も漸く鎮静化することになりました。藤原純友の抵抗のほうは、平将門の反逆と比較すると『(朝廷とは異なる)独立国の建設』といった意図はないのですが、瀬戸内海の大勢の海賊を味方につけたことで反乱が長期化しました。
承平天慶の乱は、それまで絶対と思われていた朝廷の政治権力を相対化するような事件であり、京都の朝廷の権威が東国や西国(九州)にまで十分に及ばなくなってきたことを示唆するような反乱でした。特に、桓武平氏の一族の内乱から発展した平将門の乱は、武力を持たない朝廷を脅かす『武士勢力の誕生』を予感させるものであり、その後、関東(坂東)から更に遠く離れた奥州・出羽において清和源氏の子孫である源頼義・源義家たちが影響力を強めてきます。
奥州地方における前九年の役(1051-1062)・後三年の役(1083-1087)によって、俘囚の長である安倍氏・清原氏を追い落とした源氏将軍家はその武名を高めていき、朝廷の内部対立である保元の乱(1156)・平治の乱(1159)を経て源平の争乱が激しさを増していくことになります。後白河天皇と崇徳上皇が対立した保元の乱では、後白河天皇方に付いた源義朝と平清盛が勝利しますが、平治の乱では初め優位に立った源義朝を平清盛が追い落として『平氏政権』の基盤を固めることになりました。
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