後白河法皇と保元・平治の乱

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後白河天皇の即位と保元の乱
平治の乱と平清盛(平氏)の隆盛

後白河天皇の即位と保元の乱

院政を開始した白河上皇(1053-1129)が死去すると、白河上皇との間に璋子(しょうし,待賢門院)を巡って確執のあった鳥羽上皇(1103-1156,白河上皇の孫)『治天の君』として院政を行うようになります。白河上皇は自分の子を身ごもらせた愛妾の璋子を鳥羽天皇(当時15歳)に下げ渡して、白河上皇と璋子の子とされる顕仁親王(あきひとしんのう)を僅か5歳で第75代・崇徳天皇(在位1123‐1142)として即位させましたが、そのために鳥羽上皇は白河上皇に対して強い憎悪を持っていました。

絶大な権力で専制政治を行った白河上皇が薨去(こうきょ)すると、鳥羽上皇は白河上皇の皇位継承路線を否定する動きを見せ、寵愛した妃の得子(美福門院,藤原顕季の孫娘)が産んだ体仁親王(なりひとしんのう)を二歳で第76代・近衛天皇(在位1142-1155)として即位させました。鳥羽上皇は白河上皇に対する恨みから璋子・崇徳上皇を冷遇して、得子・近衛天皇を優遇したわけですが、近衛天皇は病弱であったためか1155年に17歳という若さで崩御します。

近衛天皇には東宮(皇太子)がまだ立てられていなかったので、近衛天皇の後継を巡って意見が割れましたが、鳥羽上皇の四宮である雅仁親王(まさひとしんのう)第77代・後白河天皇(在位1155-1158)として即位することになりました。白河上皇の院政と保元の乱を招いた朝廷の内部対立の項目で書いたように、後白河天皇が即位した時には皇室と摂関家、源氏・平氏の中でそれぞれ対立が深まっており、鳥羽上皇が1156年に崩御すると朝廷の主導権を巡って『崇徳上皇派』『後白河天皇派』が激しく衝突することになりました。鳥羽上皇の死後わずか9日後に発生したこの天皇家・摂関家の内紛のことを『保元の乱(ほうげんのらん,1156)』と呼びます。

藤原摂関家では、藤原忠実(ただざね)と藤原忠通(ただみち)の父子の関係が悪くなっており、父親の藤原忠実は才気煥発で学識と野心に秀でた次男の藤原頼長(よりなが)のほうに期待して嫡男の関白・藤原忠通を疎んじていました。鳥羽上皇を恨んでいた崇徳上皇は鳥羽上皇の後を継いだ第77代・後白河天皇と対立し、崇徳上皇側には藤原忠実・藤原頼長が平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)・源為朝(みなもとのためとも)を率いて加勢しました。後白河天皇に味方したのは、美福門院・得子と親しかった関白・藤原忠通(ただみち)であり、忠通に従った平清盛(たいらのきよもり)源義朝(みなもとのよしとも)は後に源平の棟梁となる猛者でした。

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保元の乱では、崇徳上皇派が軍を動員している途中で平清盛・源義朝の軍勢が夜討ちを仕掛けたため、実際の戦闘はわずか4時間ほどで終わり、後白河天皇が崇徳上皇に勝利することになりました。崇徳上皇は讃岐(香川県)に配流されることになり、崇徳上皇に味方した左大臣・藤原頼長(悪左府)は討死し、平忠正と源為義は斬首されました。崇徳上皇は歌道の道にも通じた人で、『詞花和歌集(しかわかしゅう)』という勅撰和歌集を作らせたことでも知られますが、遂に京都(平安京)に帰ることは許されず、四国の讃岐の地で46歳の生涯を閉じることになりました。

源義朝と源為朝は源為義の子ですが、兄の源義朝は後白河天皇に味方して勝者となり、弟の源為朝は崇徳上皇に味方して伊豆大島に流罪となりました。後白河派の関白・藤原忠通と崇徳派の左大臣・藤原頼長も兄弟であり、平氏の後白河派である平清盛と崇徳派の平忠正も甥と叔父の関係でした。保元の乱における後白河天皇派と崇徳上皇派の主な人物関係をまとめると以下のようになります。

保元の乱における人物の対立関係
後白河天皇派崇徳上皇派
藤原忠通(関白)藤原頼長(左大臣)
平清盛(平氏,甥)平忠正(平氏,叔父)
源義朝(兄)源為義(父),源為朝(弟)

保元の乱で勝利を獲得した後白河天皇は、『保元新制』によって朝廷における権力基盤を固めて全国の荘園整理を実行しますが、1158年に自分の子である守仁親王(もりひとしんのう)に譲位して院政を開始します。保元新制で国政改革を精力的に進めた中心人物は藤原通憲(信西)であり、信西は『新制7カ条』を出して記録荘園券契所を復活させ、不正な荘園を公領へと組み込んでいきました。

第76代・近衛天皇が崩御した時に、関白の藤原忠通らが鳥羽上皇が余り評価していなかった雅仁親王(後白河天皇)を飛ばして守仁親王を即位させようとしたように、元々、後白河天皇は二条天皇の一時的な中継ぎの天皇と捕えられている向きがありました。しかし、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が『日本一の大天狗(おおてんぐ)』と呼んでその狡猾で怜悧な画策を評した後白河天皇は、『中継ぎの天皇』として大人しく役割を果たすような人物ではありませんでした。

結論から言うと、『比類なき暗君(暗主)』と揶揄されながらも後白河法皇(後白河上皇)は、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代にわたって長期の院政を行うことに成功しました。後白河法皇が比類なき暗君と批判された理由には、政治能力の低さよりも『今様(いまよう)の遊興への熱中』があり、上皇(法皇)という気楽な立場を利用して度々、公卿・殿上人と共に華やかな宴を楽しみました。

今様(いまよう)というのは、中級・下級貴族に人気が高かった『現代風の歌曲』という意味であり、平安中期以降の流行歌のようなものと考えれば分かりやすいと思いますが、普通は天皇や上皇といった身分の高い人が進んで歌うようなものではありませんでした。後白河法皇は『今様狂い』といわれるほどに今様の流行歌を歌うことを好んでおり、後白河帝の著作である『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』はその今様を集めて編集したものなのです。

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第78代・二条天皇(在位1158‐1165)に皇位を譲った背景には美福門院・得子の推挙もあったといいますが、即位した二条天皇は後白河上皇の院政に従うことを潔しとせず『二条天皇の親政派』『後白河上皇の院政派』の対立が深まりました。二条天皇の側に立って親政を支持した人物には、美福門院の従兄弟である藤原伊通(ふじわらのこれみち)、母親・懿子(いし)の弟である大納言・藤原経宗(ふじわらのつねむね)、二条天皇の乳母(めのと)の子である藤原惟方(ふじわらのこれかた)がいます。

賢明で誠実な名君であった二条天皇ですが23歳の若さで崩御することになり、二条天皇の子の順仁親王(のぶひとしんのう,六条天皇)がわずか2歳で即位することになりました。二条天皇の時代に1159年の平治の乱(へいじのらん)が勃発しますが、平治の乱が起こることになった遠因は保元の乱後の不平等な論功行賞(ろんこうこうしょう,戦争の功績に応じた表彰・報奨)と院近臣(いんのきんしん)たちの内部対立にありました。

平治の乱と平清盛(平氏)の隆盛

平治の乱(1159)は後白河上皇が院政を始めてすぐの時期に起こった内乱ですが、後白河上皇と藤原通憲(ふじわらのみちのり,1106-1160)が保元の乱後に主導した『保元新制(ほうげんしんせい)』で勢力を拡大した平清盛(1118-1181)とあまり恩恵を受けられなかった源義朝(1123-1160)の利害が衝突した戦いでもあります。院近臣(いんのきんしん)として権勢を振るった藤原通憲は、同時代人では保元の乱に敗れて死去した藤原頼長(ふじわらのよりなが)と並ぶ学識豊かな知識人として知られますが、一般的には出家した後の『信西(しんぜい)』という法名が有名です。

信西(藤原通憲)は、曽祖父・藤原実範(さねのり)から大学頭(だいがくのかみ)となった祖父・藤原季綱(すえつな)へと続く学者の家系に生まれ博覧強記の英才としてその名を轟かせていました。学問の道で稀有な才能を発揮していた藤原通憲は、大学寮で大学頭になることを目指していましたが、その時、通憲は縁戚の高階経敏の養子になっていたので大学寮の役職を世襲する資格を失っていました。学問の道で立身出世を遂げられないことに絶望した少納言・藤原通憲(藤原姓は鳥羽上皇によって復帰して貰う)は、出家して信西(しんぜい)と名乗り仏教の僧籍の立場から政治に介入しようとしました。

信西(藤原通憲)は鳥羽上皇から重用され後白河天皇の時代に朝廷で権力を蓄えますが、信西が後白河天皇に寵遇された最大の理由は、信西が優秀だったからというのも勿論ありますが信西の妻・紀伊局(きいのつぼね)が後白河帝の乳母だったからです。1156年の保元の乱において源義朝が立案した不意討ちの夜襲作戦を認可したのも信西であり、信西は桓武天皇の時代以降長きにわたって停止されていた『死刑制度』を復興して源為義(みなもとのためよし)を斬首しました。後白河上皇の院政において権力の頂点を極めんとした信西(藤原通憲)ですが、藤原信頼(ふじわらののぶより)や源義朝など『信西の反対勢力』が起こした平治の乱で捕らえられ斬首されます。

藤原信頼(1133-1160)は衆道(男色)を好んだ後白河上皇から強い寵愛を受けて朝廷での基盤を固めますが、右大臣・右大将を兼任したいという後白河上皇への嘆願を信西によって却下されたために、信西への恨みを募らせ平氏よりも冷遇されていた源義朝を誘ってクーデター(平治の乱)を起こしました。藤原信頼は、軍事的実力者である平清盛が熊野詣に出かけた留守を狙って平治の乱を起こし、一時は、大内裏を占拠して二条天皇と後白河院を幽閉して朝廷の実権を掌握しました。しかし、熊野詣から帰ってきた平清盛が二条天皇と後白河上皇を取り戻すと、政治情勢は風雲急を告げることになります。二条天皇・後白河院から藤原信頼と源義朝追討の宣旨(せんじ,天皇の命令)を受け取った平清盛は、信頼・義朝の軍勢を打ち破り『平氏政権』の基盤整備に乗り出すこととなりました。

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平治の乱(1159)で、伊勢平氏の棟梁・平清盛(1118-1181)が河内源氏の棟梁・源義朝(1123-1160)を打ち破ったことで平氏の天下が確定しますが、最終的に鎌倉幕府を起こして『武者の世(武家の政治)』を実現するのは義朝の子の源頼朝(1147-1199)でした。平清盛は、後白河法皇に取り入って急速に皇室との縁戚関係を深めていき、朝廷での権力基盤を強固なものにしていきますが、その政治手法は藤原氏の摂関政治と同じ『外戚政治(天皇の外祖父となって権勢を振るう)』に過ぎませんでした。

源義朝は、義平・朝長・頼朝・義門・希義・範頼・全成・義円・義経らの父として知られますが、平治の乱に敗れた後、再起を図るために源義家(八幡太郎義家)以降源氏の根拠地であった東国(坂東・関東)へと落ち延びていきました。源義朝は尾張国(愛知県)にまで落ちていきますが、尾張で家来の長田忠致の館で宿泊した時に恩賞目当てで裏切った長田父子に入浴中に襲撃されて死去しました。源義朝の長男・義平は、京都に潜伏して平清盛を暗殺しようとしますが、失敗して捕らえられ処刑されました。次男・朝長は平治の乱後の落ち武者狩りで重傷を負って自害し、三男・頼朝は捕縛されて斬首されるところでしたが池禅尼に助命嘆願によって伊豆に配流されることになりました。

後白河上皇と対立して天皇親政を目指した二条天皇が崩御すると、後白河上皇と平清盛が共謀して第79代・六条天皇(在位1165-1168)を退位させ、まだ8歳だった憲仁親王(後白河天皇の子)第80代・高倉天皇(在位1168-1180)として即位させました。憲仁親王(高倉天皇)は後白河法皇の第7皇子ですが、母親は清盛の妻・平時子の異母妹に当たる平滋子(建春門院, 1142-1176)でした。建春門院(平滋子)は後白河上皇の妹の上西門院(じょうさいもんいん)に仕えていた女性で、桓武平氏(堂上平氏)の出身です。

後白河上皇は平滋子を寵愛して憲仁親王が生まれ、平清盛は平滋子の義兄ということで後白河上皇からの深い信任を得ることが出来ました。第80代・高倉天皇の中宮となったのは清盛の次女の建礼門院徳子(けんれいもんいん・とくこ,1155-1214)であり、徳子は次の天皇となる言仁親王(ときひとしんのう,安徳天皇)を産みました。後白河上皇が誰よりも強く愛したという平滋子は、平清盛の立身出世の原動力となり清盛と院御所をつなぐパイプとなりましたが、滋子が死去すると後白河上皇と平清盛の関係は急速に悪化することになります。この項目は、『平清盛の死と平氏政権の滅亡』へと続きます。

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