鳩山一郎(1883-1959)

鳩山家の華麗なる血脈

鳩山一郎(1883-1959)は、自由党と民主党の保守合同を成し遂げて自由民主党を結党し、自民党の初代総裁となった政治家ですが、鳩山という姓が示すように、戦前から戦後にかけての政党政治家を代表する鳩山一郎は、現在(2006年末)の民主党幹事長である鳩山由紀夫(1947-)と自民党衆議院議員の鳩山邦夫(1948-)の祖父に当たる人物です。鳩山一郎の父に当たる鳩山和夫(1856-1911)も衆議院議長を務めた人物であり、鳩山一郎の長男で鳩山由紀夫の父となる鳩山威一郎(1918-1993)も福田赳夫政権で外務大臣を務めていますから、鳩山家は4世代に亙って有力な政治家を輩出している家系になります。

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また、鳩山和夫・一郎・威一郎・由紀夫・邦夫の全員が、東京大学(東京帝国大学)を卒業しており、海外の一流大学への留学経験がある人も少なくないという意味で、4世代に及ぶ卓越した学歴エリートの家系ということが出来ます。政治家の道を選んでいない為に知名度はあまり高くないのですが、鳩山一郎の弟で東大教授の道へと進んだ鳩山秀夫は、身体に虚弱な部分があったが、一郎を足元にも寄せ付けない学問上の俊英であり、一高と東大ドイツ法学科在学時の6年間にわたってずっとトップの地位を維持していたといいます。弟・秀夫が余りにもずば抜けて成績優秀なため、兄の一郎は『賢弟愚兄』と揶揄されることも度々であったといいます。

名門・鳩山家がコンスタントに最高学歴のエリートを生み出し続けている秘訣について、鳩山一郎は自著『鳩山一郎回顧録』の中で、『教育熱心だった母親・春子がいる家庭こそが最上等の学校であった』と述懐していますが、一郎の母親である春子も夫の和夫に負けず劣らずの経歴を持っている明治の賢女でした。東京女子師範学校の英語教師を勤めた鳩山春子は、当時の女性としては一級の学歴と教養を持っており、後に共立女子職業学校(現・共立女子大学)の創立に関与して、第六代の校長に就任しました。夫の和夫も、アメリカのエール大学とコロンビア大学で法学を修めています。現在の鳩山家の当主である鳩山由紀夫も、東大工学部卒業後にスタンフォード大学の大学院を終了しており、元々政治家の道を志す以前には、東工大や専修大で教鞭を取っていました。

党人政治家・鳩山一郎の軌跡

鳩山一郎の政治家としてのキャリアは、東京市議会議員から始まり、大正4年(1915)に立憲政友会から立候補して衆議院議員に初当選します。鳩山一郎の側近には、絶えず盟友として鳩山一郎の政治活動を支持してくれた大野伴睦(おおのともちか・ばんぼく)三木武吉(みきぶきち)がいますが、憲政会の三木武吉と知り合ったのは東京市議会時代で、初めは近しい政治信条を持つ好敵手でした。鳩山一郎・大野伴睦・三木武吉は、戦前と戦後を代表する党人政治家であり、それまで主流であった官僚政治家と対照的な存在でした。

普通選挙を踏まえた議会政治が進展しようとする大正デモクラシーの時流の中で、大正7年(1918)に政友会の原敬(1856-1921)(爵位を持たない衆議院議員)が内閣を組閣して『平民宰相』として歓迎されました。しかし、平民宰相という呼称を持つ原敬は、必ずしも民衆寄りの政策を提案したわけではなく、どちらかというと政権近くにいる財閥や政商などに有利な政策を立案施行し、貴族院の反感を買わないように適切な根回しと配慮をしていました。

また、平民宰相・原敬というと、普通選挙の実施に熱心な首相であるイメージがありますが、実際には、納税額に関わらず全ての成人男子が参政権を持つという(憲政会や立憲国民党が進めようとした)『男子普通選挙制度』の制定には反対していました。鳩山一郎も、共産主義勢力を支援するプロレタリアートの伸張を懸念して、財産や納税額に関わらず全ての国民が参政権を持つという『普通選挙法』の施行に反対していたので、その点では原敬と共通する部分があります。しかし、鳩山一郎は男子普通選挙に反対する一方で、条件付きの婦人参政権を認めるべきだという考えを持っていたので、男女差別などの意図はなく『政治に参加する権限を持つには、一定の資格や教養が必要だ』と考えていたと言えるでしょう。

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日本で財産(納税額)による制限選挙が廃止されて、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられるのは大正14年(1925)の加藤高明内閣の時ですが、全ての成人男女に選挙権が与えられるのは太平洋戦争の終結後のことであり、鳩山一郎は、政治領域における男女平等感覚に関しては先進的なものを持っていたのかもしれません。鳩山一郎は、清浦奎吾内閣の時に立憲政友会を離れて政友本党に移籍しましたが、その後も、政友会の離党と復党を繰り返しながら昭和2年(1927)に発足した田中義一内閣で内閣書記官長の役職を得ます。

田中義一内閣(昭和2年(1927年)4月20日-昭和4年(1929年)7月2日)は、対中国の外交政策で幣原喜重郎の国際協調外交を転換して、山東半島に陸軍を派遣し、満州(満蒙地帯)を特殊権益地帯とする政策を提示して強硬外交を行いました。田中義一内閣では、国体護持(無政府主義規制)と共産主義や自由主義などの思想統制を目的とする治安維持法(1925年施行)に、罰則としての死刑が導入されました。田中義一内閣では、満蒙を特殊権益地帯とする強硬外交路線が取られ、思想・言論・結社の自由を抑圧する治安維持法が強化されたという意味で、(張作霖爆殺事件から派生した)満州事変や太平洋戦争へと傾斜していく国家総動員体制の基盤が作られたと言えます。

田中義一内閣で首相を書記官として補佐した鳩山一郎も、日本の右傾化の歴史と深い関わりを持っていて、1920年代当時の鳩山一郎は、対中国の強硬路線にはある程度の同意を示していたといえます。しかし、満州事変以降に政党政治家としてのアイデンティティを確立してきた鳩山一郎は、軍閥官僚(軍人政治)の専横や議会を無視した大政翼賛会への批判を強めていきます。昭和18年(1943年)には、翼賛政治会代表者会議の席上で、議会政治を蔑ろにする翼賛体制へ批判的な演説を行って、軽井沢の別荘で一時的な隠遁生活に入りました。

田中義一の内閣が倒れた後には、立憲民政党の浜口雄幸(在任:1929年7月2日-1931年4月14日)が第27代内閣総理大臣として立ちますが、彼は鼻が大きな容貌からの比喩で『ライオン宰相』と呼ばれました。怜悧かつ実直な現実主義を政治信条とした浜口雄幸は、日本が幾ら軍事拡張をしても当時の軍事的スーパーパワーであったアメリカやイギリスに対抗することは難しいと考え、明治時代以来の常識となっていた軍事拡張路線を転換して軍事縮小(軍縮)を推し進め平和協調外交を行おうとしました。

1922年のワシントン海軍軍縮会議に続く1930年のロンドン海軍軍縮会議(1936年に脱退)で、浜口雄幸がアメリカとの妥協案を批准しようとして、天皇に裁可を求めたことが『統帥権干犯』とされ政友会の犬養毅や鳩山一郎から厳しく非難されました。更に、鳩山一郎は、浜口内閣で外相を務めた幣原喜重郎の『英米協調外交』にも否定的でした。また、犬養毅内閣と斉藤実内閣の下で文部大臣の重職に就いた鳩山一郎は、京都帝国大学の滝川幸辰教授を共産主義者であるとして罷免する『滝川事件(昭和8年, 1933)』を起こしています。これらの事から分かるように、鳩山一郎は軍閥官僚の専横や太平洋戦争の開戦は非難しても、軍縮路線を支持する平和主義の考えまでは持っていませんでした。

但し、政党政治の議会の決定が軍閥官僚の暴走を抑えられなかった一因が、上記したようなタカ派(強硬路線)とハト派(協調路線)に分かれた党利党略を巡るいがみ合いにあったことも事実であり、その点に関しては当時の議会政治で重要な役割を果たしていた鳩山一郎にも責任があると言えるでしょう。英米協調路線を批判する鳩山一郎とそれを支持する幣原喜重郎の確執は、GHQの統治下にある戦後の議会政治にまで持ち越されていくことになります。

鳩山一郎は、政治に民意を反映させる議会制民主主義(政党政治)を重視して、選挙の洗礼を受ける代議士こそが政治で中心的役割を果たすべきだという信奉的な考えを持っていましたが、戦後にも『天皇中心の国体』を前提とした『日本民族の自主独立』というナショナリズムの色合いの濃い思想を持ち越しました。

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戦後の鳩山一郎の政治活動の軌跡

戦後、内閣総理大臣に就任することが確実だった自由党総裁・鳩山一郎は、GHQ(連合国総司令部)の公職追放令で政界からパージされました。鳩山一郎から後事を託された吉田茂は、GHQによる政治家・軍事官僚のパージによって、第一次内閣を成立させることが出来たと言えます。吉田茂に総裁の座を委譲した際に交わした約束として、鳩山一郎は『公職追放から鳩山一郎(私)が復帰したら、総裁の座を即座に返還する』という事柄を挙げていましたが、吉田茂はその約束の履行について承認することはありませんでした。

GHQによる政界パージが解除される直前(昭和26年6月11日)に、鳩山一郎は脳溢血で倒れて半身不随と言語障害を発症しますが奇跡的に急速な回復を見せて、昭和27年には意気揚々として政界に復帰しました。吉田茂が、サンフランシスコ条約と日米安全保障条約を締結(1951年)して効力が発効したすぐ後、1952年9月12日には、鳩山一郎は東京の日比谷公会堂で演説をして、『日ソ国交回復』『憲法改正による再軍備の必要性』を国民に訴えています。

鳩山一郎は、政界の名門・鳩山家の出自を持っていて、一郎自身が貴族的な優雅な振る舞いと坊ちゃん育ちの人の良さ、民意を重視する党人政治家としてのスタンスを持っていたため、敗戦後の失意と貧困に喘ぐ国民から強い支持を受けていました。社会主義(共産主義)を標榜する革新派で最も人気を集めたのは、共産党の野坂参三でしたが、保守主義(民族主義)を標榜する保守派で最も民意を集めたのは、自由党の鳩山一郎でした。

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平和主義の新憲法が施行されて間もないこの時代には、憲法9条を改正する議論はまだまだタブーとはなっておらず、保守的な政治家は積極的に憲法改正の主張をしていました。日本国憲法や憲法9条の平和主義(戦争放棄)が不磨の大典として定着してくるのは、もう少し時間が経過してからのことであり、池田勇人内閣か佐藤栄作内閣くらいの時代、高度経済成長に入って経済大国となる目処がついてきてからのことだと思われます。岸信介内閣の時代には、安保改正反対の激しい市民デモが各地で多発していましたから、まだまだ日米軍事同盟を核とする安全保障路線は既定事実化していなかったことを伺わせます。

政界に復帰してすぐに鳩山一郎は、『吉田茂内閣打倒』を掲げて政治活動を精力的に行うようになりますが、その具体的な政策内容は、『ソ連からの侵略の脅威を抑止する為の日ソ国交回復』『日ソ国交回復によるアメリカ一辺倒の追随外交からの脱却』『日本の国防を自力で賄える程度の再軍備とそれに必要な憲法改正』に集約することが出来ます。吉田茂は、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安保条約をアメリカと結びましたが、日米安保については永続的な対米従属外交や自主防衛の放棄につながるのではないかという批判が当時は根強くあったのです。

鳩山一郎が脳溢血で倒れる(1951)前の昭和23年(1948)に、自由党と同志クラブが合同して民主自由党が結成され、昭和25年(1950)には、民主自由党に民主党の一部が加わって自由党(1950-1955)が結成されました。1950年に結成された自由党より前の自由党は、正式には日本自由党といいますが、自由党は『日本自由党(1945-1948)→民主自由党(1948-1950)→自由党(1950-1955)』という歴史過程を経て、1955年の保守合同によって自由党は党名としては消滅することになります。1954年には、吉田茂の米国追従路線に反対する保守政治家の鳩山一郎・三木武吉・河野一郎・岸信介らと改進党の一部議員が集まって『日本民主党』を結成しました。

鳩山一郎・三木武吉・緒方竹虎らが中心となって構想したのが、日本の保守主義の政党を一本化しようとする『保守合同』であり、1955年11月15日に自由党と日本民主党が合同して自由民主党(自民党)が結成され、右派と左派が統一された日本社会党に対立する『保守合同』が成立しました。保守合同とは簡潔に言ってしまえば、『象徴天皇制・資本主義・自由主義』を弁証法的に否定しようとする共産主義・社会主義といった革新勢力の防波堤として、保守派の勢力が大同団結したものと言えます。1955年の自由民主党結党は、日本の政治の大きなターニングポイントとなり、自由民主党(保守勢力)と日本社会党(革新勢力)を二大政党とする政治体制を『55年体制』と呼びます。

55年体制が崩壊して久しい現在(2006年)の日本の政治は、自民党と民主党という保守主義を標榜する二大政党制の時代に突入しようとしているといえます。太平洋戦争が終戦する以前の日本も、立憲政友会と立憲民政党という保守主義の二大政党制でした。保守派の大同団結によって成立した55年体制の意味は、自由民主党という保守主義の政党が、他の政党の政策に妥協して連立政権を組むことなく、単独過半数で政権を掌握する時代を招いたということにあります。

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吉田茂内閣は、1953年2月28日の衆議院で吉田茂首相が、右派社会党の西村栄一への答弁で『バカヤロー』と暴言を吐いたことがきっかけで、3月14日の衆議院解散(バカヤロー解散)に追い込まれます。4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われ、その結果、第5次吉田内閣は総辞職することになり、その後に樹立したのが第1次鳩山内閣(昭和29年12月10日-昭和30年3月19日)です。昭和30年(1955)2月に解散総選挙が行われますが、鳩山一郎率いる日本民主党は国民からの圧倒的支持を集めて『鳩山ブーム』を巻き起こしました。鳩山一郎は、戦争で失われた国土回復や憲法改正と自主憲法の確立による完全な独立の回復といったナショナリズムの政策を掲げて選挙に臨み、結果、圧勝することになりました。

米ソ冷戦の状況下では、アメリカを首領とする西側諸国に付いた戦後の日本にいつソビエト連邦の侵略の手が伸びてくるか分からないという根強い不安があり、鳩山一郎は日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)を結べないまでも最低限、当時の戦争状態を終わらせて、日ソの国交回復を実現したいと考えていました。鳩山一郎が選挙戦で掲げた安全保障政策の中心は、『日ソ国交回復による共産圏への防衛』と『自主憲法制定による再軍備体制』でしたから、鳩山は、日ソ国交回復に後半の政治生命を費やすことになりました。鳩山一郎は、純粋な保守主義者であり、共産主義のイデオロギーには徹底的に批判的でしたが、それ故に共産主義圏の国家の持つ軍的脅威を最もよく理解していた政治家でした。

保守合同がなった昭和30年(1955)に、元ソ連駐日代表部臨時主席のドムニツキーと会談を持った鳩山は、日ソの国交正常化を目指す交渉を本格的に開始し、昭和31年(1956)10月19日に『日ソ共同宣言』に調印することに成功しました。対米協調路線で海洋国家である日本の国益を増強させ、日米の国交正常化(サンフランシスコ講和条約)を実現したライバルの吉田茂に対して、鳩山一郎は、自由主義圏(西側)に所属する事となった日本の最大の軍事的脅威であるソ連と国交回復の共同宣言を調印するという難事業をやり遂げました。日ソ交渉は交渉前の予想よりも順調に進み、実行支配されていた北方領土(国後・択捉・歯舞・色丹)のうち、歯舞諸島と色丹島は平和条約締結後に返還されることが約束されましたが、国後と択捉の日本帰属を巡ってはソ連は明確な回答を返しませんでした。

もう一つの鳩山の悲願であった憲法改正の事業は、選挙によって日本社会党の革新勢力が台頭した為に断念せざるを得ませんでしたが、鳩山の改憲の意志は、現在に至っても、再軍備による自主防衛や対米追随外交からの脱却という意志となって一部の保守派政治家に受け継がれています。

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