後醍醐天皇の建武の新政と足利尊氏

建武の新政が目指した王道政治の理想とその失敗
後醍醐天皇・足利尊氏・護良親王の対立

建武の新政が目指した王道政治の理想とその失敗

『鎌倉幕府の衰亡』の項目で書いたように、足利尊氏(足利高氏,1305-1358)によって京都・六波羅探題が攻略され新田義貞(1301-1338)が鎌倉を制圧したことで、北条氏の得宗専制によって運営されていた鎌倉幕府は1333年に滅亡しました。足利高氏が六波羅探題を攻め落としたと報告を受けた第96代・後醍醐天皇(在位1318-1339)は、帰京の途上の摂津国・兵庫で幕府滅亡の知らせを聞いたといいます。

天皇親政・王道政治の理想に燃え盛る後醍醐天皇は、『延喜・天暦の治への回帰・律令政治の基本への回帰』をスローガンとしていましたが、当時最新の思想であった宋の朱子学(宋学)の影響も強く受けていました。朱子学とは南宋の朱熹(しゅき,1130年-1200年)が創始した儒学の学派であり、『宋の皇帝専制を支えた科挙制度・文治主義・朱子学』で説明したように大義名分論による君臣秩序と君主政治の正義を主張するものでした。

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延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)とは、平安時代中期に天皇親政に近い政治を行ったとされる醍醐天皇・村上天皇の治世を神聖化した呼び方であり、王朝政治の最盛期のメタファー(比喩)として用いられた概念でした。

作者不詳の軍記物語である『太平記(たいへいき)』では、後醍醐天皇の即位・鎌倉幕府の滅亡・南北朝の対立・細川頼之の管領就任までの約50年間(1318-1368)を取り扱っていますが、後醍醐天皇はどちらかというと欠徳の君主(無策な悪君)として描写されています。後醍醐帝は『天皇中心の政治体制・宋王朝的な官僚機構』という自己の理想を実現するために、無我夢中で建武の新政の政治体制を固めようとしましたが、新政の失敗後にも自身の皇位にこだわり過ぎた為に『南北朝の争乱』によって膨大な犠牲を生んでしまったという経緯があります。

建武の新政は鎌倉の武家政権を打倒して天皇中心の公家政権を再興したという意味で『建武の中興』と呼ばれますが、実際には諸国の所領問題を解決できず、国内の治安・庶民の生活の安定を維持できないという惨憺たる有り様でした。鎌倉幕府の政治に不満を持っていた公家・武士・庶民(農民)のすべてが、後醍醐天皇の『明王聖主の御世(めいおうせいしゅのみよ)』に期待していたのですが、天皇親政の急進的な改革によって日本国は大混乱に陥り、諸国の相次ぐ反乱を招きます。1334年8月に掲げられた『二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)』には、問題の多い建武の新政に対する京童(きょうわらわ=京都の民衆)の揶揄・風刺が以下のような今様の七五調で書き込まれていました。

此比(このごろ)、都に流行るもの、夜討・強盗・謀綸旨(にせりんじ)・召人(めしうど)・早馬・虚騒動(そらそうどう)・生頸(なまくび)・還俗・自由出家
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建武の新政の所領安堵に関する混乱を示す二条河原落書には、『本領離るる訴訟人、文書入れたる細葛(ほそつづら)』と書かれています。これは、1333年6月15日に『旧領回復令(個別所領安堵法)』を出した後醍醐天皇が、『鎌倉時代の土地所有権』を認めず今後は『後醍醐天皇の綸旨(りんじ)』のみが土地の正当な所有権を保証すると宣言したために起こった混乱でした。

旧領回復令は『武家政権の終焉』『天皇の綸旨(命令・保証)の絶対的権威』を天下に知らしめるために行われた発令でしたが、中世社会では土地は『あらゆる富の源泉』でしたから、日本各地の武士が後醍醐天皇に本領安堵(土地の所有権の認定)をしてもらう為に続々と上洛(入京)してきました。『本領離るる訴訟人、文書入れたる細葛(ほそつづら)』とは、自分の土地の領有に関する書類を細葛に入れて上洛してきた全国の武士の姿を描いたものです。

当然、全国から殺到する『膨大な所領問題(本領安堵の訴え)』を後醍醐天皇ひとりで処理できるわけはなく、1333年7月23日には前言(旧領回復令)を翻して『諸国平均知行安堵法』を出しました。後醍醐天皇は所領の所有権をすべて自分(天皇)が裁決するという非現実的な前言を撤回して、所領の安堵を各地の国司に委任することに決めたのでした。建武の新政が不評であった理由には、今日言っていたことが明日には変わってしまうという朝令暮改の不安定さもありました。1334年になると、朝廷は次第に所領紛争の訴訟を取り扱うのをやめてしまい、武士の新政に対する不満がいっそう強まります。

律令制を再建しようとした『建武の新政』の政治機関の役割と管掌については不明な部分も多いのですが、中央には『記録所(きろくしょ)・恩賞方(おんしょうかた)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・武者所(むしゃどころ)・窪所(くぼどころ)』の政治機関(機構)を持っていました。律令制に基づく太政官・議政局の下には『八省(兵部・治部・刑部・式部・民部・宮内・大蔵・中務)』が置かれました。

『梅松論(ばいしょうろん)』という北朝の視点の書物に建武の新政の機関についての簡単な解説があるのですが、訴訟などを取り扱う新政の中枢機関は『記録所』だったようです。建武の新政で最も重要な政治機構は、各地の所領問題(所領紛争)を解決するために置かれた『雑訴決断所』でした。『武者所・窪所』は京都の警察・治安を担当する軍事的な機関であり、『恩賞方』は公家の利益に偏った論功行賞を行って武士階級の抵抗を強めました。

地方には、公家の『国司』と武家の『守護』が置かれ、奥羽地方(奥州地方)には義良親王(のりよししんのう)・北畠顕家(きたばたけあきいえ,陸奥守)の『陸奥将軍府』、関東地方には成良親王・足利直義(相模守=足利尊氏の弟)を中心とする『鎌倉将軍府』が置かれました。

後醍醐天皇は、君主(皇帝)の手足となって動くような宋王朝(中国王朝)の官僚政治を理想としていたので、家格(家柄)にこだわらない有能な人材の活用を妨げる『官司請負制(かんじうけおいせい=官職の世襲制)』『官位相当制(位階と官職の一致の慣例化)』を廃止しようとしました。しかし、『知行国制の否定(国司制度の徹底)』も含むこの急進的な官僚制度改革は上流貴族(公卿)・寺社の既得権益を脅かすものだったので、『物狂の沙汰(ものぐるいのさた)・自由狼藉(じゆうろうぜき)』と呼ばれて公家の建武の新政に対する反発を強めました。

『梅松論』には後醍醐天皇の言葉として『朕の新儀(しんぎ)は未来の先例たるべし』とあり、後醍醐天皇は中世社会の基本原則である前例踏襲主義(伝統主義)に対して敢然と反旗を翻しました。つまり、自分自身の言葉が未来の前例を作っていくのだから、古来からの伝統(官司請負制・官位相当制)に従う必要などないという唯我独尊の親政的立場を明確にしていました。

しかし、新政の時代には、諸国で『合戦・濫妨(らんぼう)・刈田狼藉(かりたろうぜき)・盗賊・重税』などによって民衆(農民)が苦しめられます。国司・守護・悪党からの圧迫・搾取などで、新政に対する民衆の不満は高まりを見せ始めます。武士階級は『所領問題の解決の失敗』と『公家ばかりに有利な論功行賞』によって建武の新政への反発を強めていきました。公家階級(上流貴族階級)は、家格・伝統(前例)を軽視して既得権益を削減しようとする後醍醐天皇の急進的な改革に強い不満を抱いていました。建武の新政は『公家・武家・民衆すべての不満』を集めることになり、結局、足利尊氏の上洛(反乱)によってわずか二年半(1334-1336年5月)で後醍醐天皇の新政体制は瓦解することになります。

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後醍醐天皇・足利尊氏・護良親王の対立

第96代・後醍醐天皇は天皇親政を目指しましたが『兵馬の権(軍事指揮権)』を掌握することを嫌った為に、京都の六波羅探題を武力で制圧した足利高氏(1305-1358)護良親王(1308-1335)に軍事力が集中することになりました。足利高氏は河内源氏の流れを汲む名門足利氏の生まれであり、鎌倉幕府が存在した時代には執権・北条高時から偏諱(へんい)を受けて『高氏』と名乗っていました。

しかし、六波羅探題を滅亡させた討幕の功績により、後醍醐天皇の諱である『尊治(たかはる)』の一字を下賜され、名前を『尊氏』に改名しました。足利尊氏は開幕(占領統治=軍政)の権限を持つ征夷大将軍への任命を希望していたとも言いますが、幕府開設を嫌った後醍醐天皇は、1333年6月5日に足利高氏(尊氏)を鎮守府将軍に任命しました。

そして、建武の新政下で最大の実力者となった足利尊氏を牽制する意図もあり、大和(奈良県)の信貴山(しぎさん)に籠もる皇族の護良親王を征夷大将軍に任命しました(1333年6月23日)が、本心では武力を誇る護良親王を後醍醐天皇は出家させたかったようです。後醍醐天皇は、幕府開設の可能性を持つ武士の足利尊氏だけではなく、武勇に秀でており独自の政権を構築したいという野心を持つ皇族(自分の子)の護良親王も同時に警戒していたのでした。

足利尊氏の権力伸長を警戒する護良親王は、『保暦間記(ほうりゃくかんき)』によると、関東(鎌倉)に強大な軍事力を持つ足利尊氏・直義を牽制するために『陸奥将軍府』の設立を後醍醐天皇に進言したといいます。当時の鎌倉には、後に室町幕府の二代将軍となる足利義詮(あしかがよしあきら,1330-1367)と管領家となる斯波家長(しばいえなが)がいて関東経営の基盤を固めていましたが、護良親王は北畠親房(きたばたけちかふさ,1293-1354)の子・北畠顕家(きたばたけあきいえ,1318-1338)を陸奥国の多賀城に下向させて鎌倉に対抗させました。

奥羽地方(東北地方)の経営は、後醍醐天皇の子の義良親王(のりよししんのう=後の後村上天皇,1328-1368)を長として陸奥守・北畠顕家が政治の実権を握り、独立的な政権である『陸奥将軍府』を確立します。武田信玄に先駆けて『風林火山の旗』を用いたとされる若武者・北畠顕家は、建武新政に1335-36年にかけて鎌倉で反旗を翻した足利尊氏を、楠木正成・新田義貞らと共に九州に追い払うほどの猛将でした。

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しかし、十分な軍勢を結集させることの出来なかった後醍醐天皇方の北畠顕家は次第に劣勢に立たされて、尊氏の参謀・高師直(こうのもろなお)軍と『石津の戦い(1338)』で戦って破れ享年21歳でこの世を去りました。顕家の父・北畠親房は、南北朝時代における吉野南朝(後醍醐天皇の系譜)の正統性を説いた『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の作者として知られています。

陸奥将軍府の義良親王・北畠顕家に対抗するために、足利尊氏は成良親王(1326-1344)を奉じた弟の足利直義(あしかがただよし,1306-1352)を鎌倉統治のために下向させ『鎌倉将軍府』を確立させました。関東(鎌倉)・鎮西(九州)という東西の軍事指揮権を掌握した足利尊氏は、信貴山城に籠もる護良親王の勢力を圧倒するようになり、後醍醐天皇からの庇護も失った護良親王は窮地に立たされます。

1333年6月15日には、後醍醐天皇の『旧領回復令』によって護良親王の令旨の有効性が否定されており、その後に征夷大将軍の官職も解任されてしまいます。政治的失脚を恐れた護良親王は焦りに駆られて足利尊氏の暗殺計画を立てますが、事前に計画が発覚して1334年10月22日に後醍醐天皇の命令で名和長年(なわながとし)・結城親光(ゆうきちかみつ)に捕縛され鎌倉に流されました。後醍醐天皇が護良親王を処罰した理由は、『太平記』や『梅松論』によると『帝位簒奪を企てたため』となっていますが、実際には、護良親王を利用して足利尊氏追討を計画していた後醍醐天皇が事前の発覚を恐れたためとも伝えられています。

鎌倉で足利直義の監視下に置かれた護良親王は、北条時行中先代の乱が起きた1335年に、北条時行に護良親王が担がれることを警戒した直義によって殺害されました。

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第14代執権・北条高時の末子である北条時行(生年不詳-1353)が幕府再興を期して引き起こした『中先代の乱(1335)』は、足利尊氏が建武新政に反旗を翻すきっかけにもなった反乱でした。高時の弟・北条泰家(ほうじょうやすいえ)は、京都で西園寺公宗(さいおんじきんむね)らと共に建武新政の転覆と鎌倉幕府の再興を図る陰謀を巡らしていました。

持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆をしようと画策していましたが、公宗の弟・西園寺公重(さいおんじきんしげ)の密告によって陰謀は失敗に終わりました。しかし、北条時行は諏訪頼重や滋野氏らに擁立されて中先代の乱を起こし、一時期は足利直義の軍を打ち破って鎌倉を支配しました。『中先代』とは『先代(北条氏)と後代(足利氏)との間の時代』という意味であり、北条時行は短期間であっても鎌倉の攻略・統治に成功したわけです。弟・直義の敗報を聞いた足利尊氏は、後醍醐天皇に『北条時行討伐の許可』『総追捕使と征夷大将軍の役職』を要請しますが、後醍醐天皇は尊氏の幕府開設を懸念してこの要請を拒否します。

足利尊氏は後醍醐天皇の勅許を得ないまま勝手に出陣し、直義と合流して中先代の乱を起こした北条時行・諏訪頼重の追討に向かいます。尊氏の勝手な振る舞いに憤激した後醍醐天皇は、はじめ鎌倉将軍府の成良親王を征夷大将軍に任命しますが、実力者・尊氏の本格的な離反を恐れた後醍醐帝は彼を『征東将軍』に任命しました。

しかし、中先代の乱を鎮圧して鎌倉を奪還した尊氏は、後醍醐天皇の上洛命令(京都への帰還命令)と論功行賞の禁止命令を無視して鎌倉に拠点を定め、建武の新政体制からの離反を明確化しました。尊氏は最後に残った後醍醐天皇側の有力な武装勢力である武者所長官・新田義貞(1301-1338)の追討を要請しますが、後醍醐天皇はこの要請を拒絶して新田義貞に尊氏追討の令旨を出しました。後醍醐天皇率いる朝廷に反逆を起こすことを躊躇っていた足利尊氏は、鎌倉の浄光明寺に滞在していましたが、尊良親王(たかよししんのう)・新田義貞の朝廷軍が高師泰・足利直義を破ると戦う決心を固めます。

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軍事的才能に抜きん出ていた足利尊氏は、東海道で新田義貞を追い落とし、1336年1月11日に尊氏は入京します。しかし、尊氏の反乱の報告を受けた陸奥将軍府の猛将・北畠顕家は、急いで京都へと向かい粟田口の戦いで尊氏を打ち破って京都を奪還しました(1336年1月27日)。そして、敗軍の将となった足利尊氏を辺境の九州へと追い落とすことに成功しました。この敗戦によって足利尊氏はそのまま滅亡してもおかしくなかったのですが、四面楚歌の九州地方において後醍醐天皇方についた大軍の菊池氏・阿蘇氏を何とか打ち破ります。

九州で大軍をかき集めて再起を果たした足利尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て1336年5月の湊川の戦いで後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍勢を打ち滅ぼして、楠木正成・正季を自害に追い込みました。1336年6月に光厳上皇を奉じて入京した尊氏は、8月に豊仁親王(光明天皇)を三種の神器無しで践祚しますが、11月に後醍醐天皇と和解して三種の神器を譲り受け北朝第2代・光明天皇(即位1336-1348)が即位します。

1336年9月に、後醍醐天皇は皇子・懐良親王を征西大将軍に任命して九州に派遣し、新田義貞に恒良・尊良親王を預けて北陸に下向させましたが、結局11月には降伏して京都を抜け出すことになります。しかし、京都を抜け出した後醍醐天皇は、北朝の光明天皇に渡した『三種の神器』は偽者だと宣言して、大和国(奈良県)の吉野に自分こそが正統な天皇であるとする『吉野朝廷(南朝)』を開設しました。

ここに、1336年から1392年まで続く南北朝の動乱の時代がスタートし、間もなく北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命された足利尊氏が、鎌倉幕府に続く武家政権の室町幕府を開府させることになります。公家政権である後醍醐天皇の建武新政はわずか二年半で幕を閉じることとなり、再び武者が支配する戦乱の世が訪れようとしていたのです。

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