足利尊氏による室町幕府の開設と観応の擾乱

南北朝時代と室町幕府開設までの道のり
足利尊氏・高師直と足利直義が争った観応の擾乱

南北朝時代と室町幕府開設までの道のり

『後醍醐天皇の建武の新政』は北条時行の中先代の乱(1335)に乗じて、朝廷に反旗を翻した足利尊氏(足利高氏,1305-1358)によって打倒されます。鎌倉幕府が調整した両統迭立の原則によれば、第96代・後醍醐天皇(大覚寺統)の後に皇位を継ぐことになっていた持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)は、正中の変の後に北朝第1代の光厳天皇(在位1331-1333)として即位します。

建武の新政の時期には光厳天皇は廃位されますが、急進的な新政が挫折すると光厳上皇は反後醍醐派の足利尊氏の後ろ盾となって、尊氏に新田義貞追討の院宣を下しました。光厳上皇の院宣を受けた足利尊氏は、1336年の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成を下して軍事的優位を明らかにし、比叡山から下山してきた後醍醐天皇を花山院に幽閉します。

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1336年8月15日に、光厳上皇の弟の豊仁親王(ゆたひとしんのう)が、三種の神器の無いまま光厳上皇の院宣により即位して北朝第2代・光明天皇(在位1336-1348)となります。北朝第1代・光厳上皇は、弟である第2代・光明天皇と第1子である第3代・崇光天皇(在位1348-1351)の在位中に治天の君として隠棲を行いました。

これを不服とした後醍醐天皇は、1336年12月21日に京都を脱出して吉野(大和国)に逃れ、足利尊氏が奉じた北朝に対立する南朝(吉野朝廷)を開設しました。南朝の後醍醐天皇は北朝の光明天皇に移譲した三種の神器は『偽もの』であると宣言して、自分が君臨する南朝こそが唯一の正統な王朝であると主張しました。ここに南北朝時代(1336-1392)がスタートするわけですが、明治44年(1911年)以降は後醍醐天皇側の吉野南朝のほうが正統な天皇家の系譜とされています。金峰山を擁する要衝の地である吉野は、古代の昔から敗軍の将が再起を図るために潜伏する土地であり、『三種の神器』を携えた後醍醐天皇は自己の皇位の正当性を唱えて北朝と激しく戦います。

後醍醐天皇は北朝を滅亡させて捲土重来(王政復古)を果たすために、皇子・懐良親王(かねよししんのう)を征西大将軍に任命して九州に派遣し、新田義貞に恒良親王(つねよししんのう)・尊良親王(たかよししんのう)を預けて北陸に向かわせ日本各地で南朝勢力を強化しようとします。しかし、後醍醐帝の死の直前に譲位を受けた第97代・後村上天皇(在位1339-1368)の時代には、1348年の四條畷の戦いで楠木正成の子である楠木正行・正時兄弟が足利氏の執事・高師直(こうのもろなお,)に敗れてしまい、南朝の吉野行宮が陥落させられます。後村上天皇をはじめとする南朝一行は、大和国の賀名生(あのう,奈良県五條市)に落ち延びて、南朝の劣勢の度合いが強まっていきます。

第97代・後村上天皇(在位1339-1368)とは、護良親王(もりよししんのう)・北畠親房(きたばたけちかふさ)が足利尊氏に対抗するために、1333年に陸奥守・北畠顕家(きたばたけあきいえ,1318-1338)と共に奥州に下向させた義良親王(のりよししんのう)です。

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奥州国府に本拠を置く南朝の猛将として、一度は足利尊氏を京都で破るほどの勇名を馳せた北畠顕家ですが、1338年に義良親王を奉じて奥州軍で鎌倉を攻略したものの、その後に足利氏の執事・高師直が率いる軍勢に石津の戦い(いしづのたたかい)で敗れて死去しました。恒良親王・尊良親王を奉じて北陸地方に下っていった新田義貞(1301-1338)は、敦賀の金ヶ崎城(かねがさきじょう)に拠点を定めますが、足利方の高師泰(こうのもろやす)に敗れてしまいます。

新田義貞は落城後も越前国府を奪還して粘り強く戦っていましたが、黒丸城を拠点とする斯波高経(しばたかつね,1305-1367)に敗れて自害しました。軍記物語の『太平記』によると、病を得て死を間近に控えていた第96代・後醍醐天皇は、後継者の第97代・後村上天皇(義良親王)に『玉骨は縦ひ(たとひ)南山の苔に埋もれるとも、魂魄は常に北闕(ほっけつ)の天を望まんと思う。若し命に背き義を軽んずれば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ』と語り、必ず朝敵である北朝及び足利氏を滅亡させるようにと遺言したといいます。後醍醐天皇が崩御したという知らせを受けた足利尊氏は、その菩提を弔うために禅僧の夢窓疎石(むそうそせき)を開山とする天竜寺(京都府京都市右京区)を建立したことでも知られます。

清和源氏の嫡流である足利尊氏は、1336年11月7日に武家法である建武式目(建武式目十七条)を定め、1338年に北朝の第2代・光明天皇(在位1336-1348)から征夷大将軍に任命(補任)されて室町幕府を開設します。建武式目には幕府を開設する場所を、源頼朝が開府した鎌倉にするか鎌倉以外の場所にするとかという興味深い問答も乗っていますが、結局、足利尊氏は朝廷のある京都にそのまま室町幕府を開設することにしました。

『室町(むろまち)』とは三代将軍の足利義満が将軍御所(花の御所)を置いた場所にちなんだものであり、足利将軍家が幕府の中心となる室町時代は、諸国の守護(守護大名)と国人(地方武士層)・土民(農民・職人・町衆)が強い勢力を保持する分権的な時代でした。室町幕府を開設して以降の初代将軍・足利尊氏は政務には直接関与せず、同母弟の足利直義(あしかがただよし,1306-1352)に幕府の政務一切を委譲して『二頭政治(両頭政治)』のような政治体制を確立しました。

しかし、足利尊氏は完全に政治から引退したわけではなく『武家の棟梁』としての存在感を維持しており、尊氏によって『家臣との主従関係』を前提とした軍事的支配体制が維持されていました。室町幕府初期の二頭体制は、兄の尊氏が『軍事(武力による統治)』の指揮権を掌握して、弟の直義が『政務(政治の実務)』の全権を担うという形式によって運営されました。

室町幕府の政務の中心となった足利直義は、武家法である建武式目の制定にも携わったとされますが、建武式目には『賄賂の禁止など幕政の規律・狼藉の禁止など京都の治安維持・裁判の基本的ルール・守護の任用の決まり』などが明確に記されていました。直義の政治理念は『撫民の徳政・武家による律令制の復古』にあり、武士の所領問題では『私戦による自力救済』を厳しく禁止して、室町幕府の裁判の結果によって所領紛争を解決するようにと説きました。

更に、各国の守護職の任免についても、『守護の世襲』を禁じて『能力主義』によって行政官としての守護を任命するように定めましたが、実際には室町時代の守護は斯波氏・細川氏・畠山氏などの管領(かんれい)を中心にして次第に世襲化していきました。しかし、将軍と幕府の集権的な政治秩序を急速に実現しようとした足利直義の政務に反対する勢力として、足利氏の執事・高師直(こうのもろなお,生年不詳-1351)の軍団が登場してきます。

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足利尊氏・高師直と足利直義が争った観応の擾乱

先祖代々、足利氏に執事として仕えていた三河武士の高氏一族は初期の室町幕府において絶大な権力を握っており、公家・寺社の荘園を横領して家臣団に与えようとする高師直・高師泰(こうのもろやす)兄弟は、公家・寺社の所領も秩序正しく安堵しようとした足利直義と激しく対立しました。初めに仕掛けたのは足利直義の側近である上杉重能・畠山直宗らであり、尊氏に高師直が謀反を起こすつもりだと讒言して執事職を解任させ、更に朝廷の光厳上皇にも出仕の停止を求めました(1348年)。

この『直義派』と高氏を中心とする『反直義派』が争い合った室町幕府の内部対立は、最終的に尊氏と直義が武力衝突する『観応の擾乱(かんのうのじょうらん,1350-1352)』へと行き着きます。1349年には、直義派の讒言に激昂した高師直・高師泰が挙兵して、京都の直義邸を襲撃し尊氏邸に逃げ込んだ足利直義を包囲します。尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求した高氏は、遂に直義を出家に追い込み幕府の政務から引退させることで和解しました。しかし、高師直が務める執事は将軍の尊氏に直属する役職だったので、『直義追放』には嫡子の義詮に政務を担わせたかった尊氏の事前の承認があったという説もあります。

この和解では、上杉重能・畠山直宗が流罪となり、足利直義の政務の権限は尊氏の嫡子・足利義詮(あしかがよしあきら)に移されました。義詮は元々鎌倉に下向していましたが義詮を京都に呼び寄せたので、次男の足利基氏(あしかがもとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう)とし、東国統治のための鎌倉府(かまくらふ)を設置することになりました。

高師直は足利義詮を補佐して幕府での権限を強め、尊氏・高師直は、直義の養子で中国探題の足利直冬(あしかがただふゆ,1327-1387)を討伐しようとします。尊氏らの攻撃を受けた足利直冬は九州に落ち延びていき、九州の少弐氏や大友氏の勢力を服従させて反尊氏連合を結成しました。九州で反尊氏(直義派)の勢力が拡大するのを恐れた尊氏は、自ら軍勢を率いて九州へと向かいましたが、その最中(1350年10月27日)に直義が京都を脱け出して南朝に降参しました。南朝に恭順した直義は、直冬と連携しながら支持勢力を結集して、1351年1月に足利義詮が守る京都へと進軍し義詮を京都から追い落としました(観応の擾乱)。

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義詮は備前の尊氏と合流して京都に戻るが、直義に再び敗れて播磨へと後退します。1351年2月17日には、摂津国で行われた打出浜の戦いで直義軍が尊氏軍を打ち破り、高師直・高師泰を出家させるという条件で和睦しました。しかし、この高氏の出家の約束は果たされることなく、京都への護送中に高師直も高師泰も殺害されてしまいます。高氏によって流罪となり殺害された上杉重能の養子である上杉能憲(うえすぎよしのり)が、高師直をはじめとする高氏一族を全滅させたのでした。

足利直義は再び室町幕府の政務を執るようになり、養子の足利直冬は1351年3月に九州探題に任命されました。しかし、尊氏派と直義派の対立は再び激しくなり、足利尊氏・義詮はそれぞれ佐々木道誉(ささきどうよ)・赤松則祐(あかまつのりすけ)の南朝軍を討伐すると偽って、尊氏・義詮・佐々木・赤松で直義派を挟撃しようとしました。この危難に気づいた直義は、桃井直常(もものいなおつね)・山名時氏・畠山国清らを率いて北陸に逃れ、1351年11月に上杉憲顕(うえすぎのりあき)が守る鎌倉に入りました。

直義派は関東・北陸・山陰・九州を拠点とし、尊氏派は東海・四国・山陽を拠点としていますが、地政学的な不利を悟った尊氏・義詮は南朝と一時的に講和を結びます。観応の擾乱によって起きたこの一時的な南北朝の合一のことを、『正平一統(しょうへいいっとう,1351)』といいます。南朝は元号を観応(かんのう)から正平(しょうへい)に改め、尊氏は南朝の後村上天皇から直義追討・直冬追討の宣旨を受けました。

正平一統によって、1351年11月7日に崇光天皇と皇太子・直仁親王(花園天皇の皇子)が廃位されました。1352年2月には、南朝軍が京都に侵攻して義詮の軍勢を追い払い、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王(なおひとしんのう)は大和国賀名生(あのう)と河内国金剛寺に長期(2年と3年)にわたって軟禁されることになります。三上皇が無事に帰京したのは、1357年のことでした。南朝軍に天皇・上皇を連れ去られた北朝・義詮は、光厳院の第三皇子で崇光天皇の弟になる弥仁親王(いやひとしんのう)を、北朝第4代・後光厳天皇(在位1352-1371)として即位させました。

後光厳天皇が上皇の院宣と三種の神器を欠いたまま即位したことにより、北朝の天皇の権威は著しく低下しました。後光厳天皇の践祚(せんそ)は、弥仁親王の祖母である広義門院(こうぎもんいん)によって代理的に行われたに過ぎなかったからです。1371年には後光厳院の第一皇子である緒仁親王に譲位がなされ、北朝第5代・後円融天皇(ごえんゆうてんのう,在位1371-1382)が即位しました。

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鎌倉で尊氏に降伏した直義は1352年2月に急死し、室町幕府の内部対立である観応の擾乱はとりあえず終結します。九州・中国地方で一大勢力となっていた足利直冬は、養父・直義が死んだ1352年に南朝に帰服して1354~55年に京都に攻め入り尊氏・義詮を追い落としますが、南朝・直冬は京都の支配を維持することが出来ませんでした。直義を打ち破った尊氏は、東国(鎌倉)の統治を安定させてから1353年9月に帰京しますが、当時は『尊氏と義詮の室町幕府・中国地方の直冬派・九州地方の懐良親王(かねよししんのう)』の三大勢力がせめぎあっていました。

室町幕府の二代将軍・足利義詮(1330-1367)は、尊氏の死後(1358年)に征夷大将軍に任命されますが、この時には九州地方にいた南朝方の征西府の将軍・懐良親王(かねよししんのう,1329-1383)が非常に強大な勢力になっていました。懐良親王は南朝の始祖である後醍醐天皇が、南朝の勢力を日本各地で強化するために派遣した皇子の一人であり、後醍醐天皇の子である懐良親王は8歳の時に征西大将軍として九州に赴きました。

尊氏の死後には、中国地方の守護である山名氏・大内氏が幕府(北朝)か南朝かの帰趨を明らかにせず、幕府内での内部対立や南朝への寝返りが多く起こっていましたが、1363年に山名氏と大内氏が幕府に帰順してからは幕府の日本全国に対する統治権力が安定してきました。足利義詮は1352年に、公家・寺社の荘園領主が支配する本所領(荘園)の年貢の半分を武士が受け取ることが出来る『半済令』を出したことでも知られます。

九州地方の大勢力となり『九州国王』と呼ばれるほどの勢威を得た懐良親王は、幼少期には紀伊の海賊や熊野水軍の支援を受けて薩摩へと上陸します。肥後の菊池武光(きくちたけみつ)や阿蘇惟直(あそこれなお)を勢力下に置いた懐良親王は、幕府方の島津氏と対立しながら1348年に隈府城(わいふじょう)を中心とした征西府(せいせいふ)を開設します。1355年10年には、懐良親王が室町幕府の九州統治機関である九州探題の一色直氏・範氏を破って、島津氏への攻勢を強めました。懐良親王は、中華王朝・明の太祖(朱元璋)から1371年に冊封を受けることを決め、朝貢貿易によって大きな経済的利益を得るようになります。

明の史書である『太祖実録』によると、倭寇の禁圧に同意した懐良親王は『日本国王良懐』として認定されて明に朝貢を行うようになります。アジアの超大国である明は、実質的な日本の専制君主である室町幕府の三代将軍・足利義満ではなく、九州の地方政権(征西府)の盟主に過ぎない懐良親王のほうを『日本の正式な国王』として認定していたのでした。

しかし、九州王国の君主として一代の栄華を誇った南朝の懐良親王も、室町幕府が派遣した今川了俊(いまがわりょうしゅん,1326-1420・今川貞世)によって征西府を攻め落とされてしまいます。筑後の高良山に立てこもった懐良親王は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇の皇子)に譲って、筑後の矢部で病没したとされています。第二代将軍・足利義詮は、側近であった管領・細川頼之(ほそかわよりゆき)に嫡男である義満の後見を頼んでから病没しました。

三代将軍・足利義満は成長してから後に後円融天皇・後小松天皇を傀儡にしてしまうだけでなく、自分自身を天皇を凌駕する専制君主として位置づけるような革命的な改革(天皇位簒奪)を企てることになります。後小松天皇が在位した皇位が100代目に達しようとするその時に、足利義満(1358-1408)という日本史上稀に見る『野心的な国王(将軍)』が登場し『皇統断絶の危機』が迫っていたのです。

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