大隈重信(1838-1922):立憲改進党と早稲田大学の創立者

薩長藩閥に比肩する佐賀藩出身の実力者・大隈重信

1838年(天保9年)に大隈重信(おおくま・しげのぶ, 1838-1922)は、肥前国(佐賀藩)の会所小路(かいしょこうじ)というところで、父・信保(のぶやす)と母・三井子(みいこ)の間に生まれました。父の大隈信保は佐賀藩で大筒組頭を務めていましたが1850年(嘉永3年)に没したので、その後は母の三井子が二人の兄弟と二人の姉妹を育て上げました。重信は幼名を八太郎と言いました。佐賀藩(鍋島藩)では、藩士・山本常朝(やまもと・じょうちょう, 1659-1719)が書いた『葉隠(はがくれ)』や徳川幕府の国学であった『朱子学』に象徴される滅私奉公的な武士道が推奨されていました。しかし、ペリー提督率いる黒船来航以後の列強の外圧と西欧文明の猛威に曝された幕末期には、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」のような禁欲的な精神主義だけでは通用しない時代に入りつつありました。

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佐賀藩を西国の雄藩へと押し上げた明君鍋島閑叟(鍋島直正, 1815-1871)は、先代藩主の鍋島斉直(なべしま・なりなお, 1780-1839)の放蕩浪費によって破綻寸前だった財政を緊縮財政(質素倹約)によって立て直し、藩校『弘道館(こうどうかん)』と初等教育機関『蒙養舎(もうようしゃ)』の充実による教育改革に力を入れました。大隈八太郎も7歳で、四書五経など漢学の基礎的な素養を身に付ける『蒙養舎』に入学し、16歳で卒業して当時の藩校の中でも高い教育内容を誇っていた『弘道館』へと入学しました。

大隈八太郎が弘道館に入学する頃に、ちょうどペリー提督率いる黒船が神奈川県の浦賀へと来航し、幕府に開国と通商(自由貿易)を迫り更なる不平等条約を押し付ける構えを見せていました。アメリカ・イギリス・フランスといった西欧列強の強硬姿勢に対抗することが出来ない江戸幕府(徳川幕府)は次第に政権の正統性を失っていき、薩長同盟が成立すると急速に幕藩体制は揺らぎます。帝国列強の軍事的圧力に屈服して不平等条約を締結しただけではなく、1865年の二度目の長州征伐(反幕府の姿勢を明確化した長州藩の武力征伐)にも失敗した幕府は威信を失い、遂には、1867年11月9日に幕府(徳川慶喜)が朝廷に政権を返上する大政奉還が行われます。日本国の統治権を徳川幕府から取り戻した明治天皇が、『王政復古の大号令』を発して徳川慶喜の官位剥奪と領地返還を断行したことにより、地方分権的な幕藩体制が崩壊して中央集権的な明治政府が建設されました。

弘道館の学校内部の論争で規則を破って激しくやり合った大隈八太郎は、学校側から対抗処分を命じられ、当時の先端的な学問であった蘭学に志すようになります。国家の政治や経済の基盤に子弟の教育があることを深く理解していた藩主の鍋島閑叟(なべしま・かんそう)は、西欧文明の精髄を学ぶ為の「蘭学」と東洋文化(日本文化)の要諦を得る為の「漢学」をバランス良く佐賀藩士に学ばせようと考えました。そして、大隈八太郎(大隈重信)には長崎の藩校で蘭学を、副島二郎(副島種臣)には京都に留学させて漢学を学ばせ、日本国の将来に役立つ人材へと成長させました。鍋島閑叟自身は、徳川将軍家や大老・井伊直弼と親しい関係にあったこともあり、それほど開明的な変革を好む主君ではありませんでしたが、保守的ながらも時代の変化を鋭敏に感じ取っていました。鍋島閑叟は、尊皇攘夷思想に傾いて徳川将軍家に弓を引く討幕運動に賛同することはありませんでしたが、西欧列強に対応するために革新的な新しい学問や知識の必要性を認識していたと考えられます。

欧米諸国の中でオランダが必ずしも一番先進的な大国ではないことに気づいた大隈重信は、蘭学を見限って、世界共通語となりつつあった英語を長崎の宣教師・フルベッキから学びイギリス・アメリカ(アングロサクソン系)の文化・知識・技術を習得しようとしました。経理・財政に才覚のあった大隈重信は、佐賀の商人の米の貿易を補佐して資金を獲得し、江戸幕府の崩壊が迫っていた1865年に『致遠館(ちえんかん)』という英会話学校を建設しました。教育機関が充実していた幕末の佐賀藩には、明治維新後にも政府の重要なポストを担う頭脳明晰な英傑が数多く輩出しましたが、その代表格が、大隈重信であり、江藤新平、副島種臣(そえじま・たねおみ)、大木喬任(おおき・たかとう)でした。

王政復古を目指す尊皇攘夷(倒幕運動)に極めて慎重だった鍋島閑叟は、大政奉還への積極的な介入ができず、(大隈重信の大政奉還の意見を聞いていた)後藤象二郎の勧めによって将軍家に大政奉還を働きかけた土佐藩主の山内容堂(やまのうち・ようどう, 1827-1872)に遅れを取ってしまいます。維新後間もない明治政府では、肥前・佐賀藩(佐賀県)も土佐藩(高知県)も、薩摩藩(鹿児島県)・長州藩(山口県)に比較すると優遇されませんでしたが、それは、西郷隆盛を首班とする薩長連合が倒幕の為の戊辰戦争で非常に大きな功績を挙げたからです。鍋島閑叟が徳川幕府に対して強気に出られない理由として、閑叟自身が第11代将軍・徳川家斉(とくがわ・いえなり)の女婿であったこともあります。大隈自身は綾子と明治2年(1869)に結婚し、築地の自宅には伊藤博文・前島密・井上馨などの錚々たるメンバーが度々集って政談・雑談をしたので大隈の自宅は「築地梁山泊(つきじりょうざんぱく)」と呼ばれることもありました。

大政奉還が実現した後に、大隈重信は長崎の外交業務を担当し、副島種臣は長崎鎮台の建設を京都の朝廷に進言しましたが、公卿の沢主水正宣嘉(さわもんどのしょう・のぶよし)を総督とし長州藩の井上聞多(井上馨)を参謀とする長崎鎮台が設立されると、大隈重信は長崎裁判所の判事を拝命する事になりました。沢主水正宣嘉は九州鎮撫総督の官職にも就いていたが、キリスト教徒を弾圧して投獄した為、イギリスやフランス、オランダの公使から激しい抗議を受けました。この時、国際法にも造詣を深めていた大隈重信は『主権国家における内政不干渉』の原則を主張して、『信教の自由』を主張する強硬派の英国公使であったハリー・パークス(1828-1885)を相手に、大阪の本願寺別院で堂々と外交論戦を取り交わしました。

剛直なパークスの威圧や脅しに屈することのなかった大隈重信は、イギリスとの論戦の席を共にしていた木戸孝允や大久保利通、井上馨(井上聞多)、後藤象二郎、小松帯刀(こまつ・たてわき)らにその名と外交上の才能を遺憾なくアピールすることになりました。1872年(明治5年)9月12日に開設した京浜間(新橋‐横浜間)の鉄道建設に必要な資金も、大隈重信が国内保守派(薩摩藩の島津久光・海江田信義・黒田清隆)の反論をはねのけてイギリスからの借款によって準備したものでした。

長崎裁判所判事の次に大隈は横浜裁判所の判事に任命されて、(厳しい明治政府の財政状況の中で)『フランスが建造した横須賀造船所の新政府の接収』『アメリカから購入した軍艦・ストーンウォール号の受取』という難しい任務を見事にこなしてみせました。この任務の遂行に必要な巨額のお金を新政府に融資したのは、イギリスのオリエンタル・バンクであり、大隈重信の政治家としての器量と威厳を信頼した英国公使パークスの口添えが効を奏したといいます。東京の中央政府にその存在と能力を一躍知られることになった大隈重信は、1870(明治3年)に西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らと共に参議(現代の宰相・閣僚に相当する朝廷機関で中納言に次ぐ位階)の官職に任命されました。

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明治維新の世代交替により躍進した大隈重信

1871年12月23日には、岩倉具視を筆頭とする岩倉遣欧使節団(岩倉使節団)が、「欧米諸国との不平等条約改正」と「西洋文明(思想・技術・知識)の修得」を目的として日本を出発します。公卿の三条実美(さんじょう・さねとみ)を首班とする政府中枢に残った参議(閣僚級の人物)は、武断派で内政に興味の薄かった西郷隆盛・板垣退助と行政能力に優れた大隈重信だったので、大隈はその政治的才覚と知識を遺憾なく発揮して次々と重要な政治改革を推し進めていきました。

岩倉使節団がアメリカやヨーロッパ各国を訪問している間に、参議の大隈重信や司法卿の江藤新平、兵部卿・山県有朋らが中心となって重要な政治改革が次々と行われました。明治6年(1873)には、太陰太陽暦(旧暦)太陽暦(グレゴリオ暦)へと改暦されて、日本のカレンダーの日時が西洋のスタンダードなカレンダーに合わせられるようになりました。司法卿・江藤新平(佐賀藩出身)は「司法省誓約五箇条に基づく司法の独立性(三権分立の基盤整備)」を強く主張し、兵部卿・山県有朋は「(徴兵制度の前提となる)兵制改革」を実施し、1872年には義務教育の原型となる「学制」が発布されました。

岩倉遣欧使節団は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの13ヵ国を1871年12月から1873年9月13日までの約2年間で回りました。岩倉や大久保らの帰国後に、西洋の都市文明や政治制度に直接触れた岩倉使節団のメンバーと、留守政府を預かり「征韓論」に傾いていた西郷隆盛や板垣退助、江藤新平との対立が深刻化していきます。岩倉使節団に参加していて、後に明治政府で重要な役割を果たすことになる代表的なメンバーには、特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳がいて、その他にも、日本のルソーと呼ばれた民主主義思想の啓蒙家・中江兆民や津田塾大学を開いた津田梅子がいました。李氏朝鮮に武力外交を用いてでも開国と通商を求めるべきだと主張する西郷・板垣・江藤らの征韓論派は、政府での論争(政権闘争)に敗れて官位を辞してそれぞれの郷里へと下野していきます。

大久保利通や木戸孝允が主導する中央政府との征韓論を巡る外交論争に敗れた西郷隆盛と江藤新平、前原一誠らは、最終的に明治政府への反乱を企てて失敗しその人生を終えることになります。1874年(明治7年)の佐賀の乱で、江藤新平は捕縛されて極刑に処せられました。1876年(明治9年)には、熊本・神風連の乱、福岡・秋月の乱、山口・萩の乱が相次いで勃発するもあっけなく明治政府の官軍に鎮圧されました。1877年(明治10年)には、鹿児島・私学校党の薩軍を率いる明治の元勲・西郷隆盛と桐野利秋、篠原国幹らが決起して西南戦争が勃発しました。

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明治維新で最大の軍功を上げた西郷隆盛率いる旧薩摩藩の軍隊(私学校の薩軍)は、政府軍を圧倒する当時最強の軍隊と考えられており、西郷が決起すれば明治政府は転覆するのではないかとも言われていました。しかし、徴収できる兵力と近代的な兵器、兵站(食糧補給)において勝る官軍が、谷干城が守る熊本城攻略に固執した薩軍(反乱軍)を打ち破って西郷隆盛は死去しました。当時最大の軍事勢力であった旧薩摩藩(鹿児島県)の士族が西南戦争で敗れたことにより、日本における不平士族の反乱は終結して明治政府の権力基盤は強固なものになりました。

明治の元勲として圧倒的な存在感を誇っていた西郷隆盛が西南の役(西南戦争)で死ぬと、その後すぐに長州閥の元老である木戸孝允が病気で死去し、1878年(明治11年)には明治政府で独裁的な権力を振るっていた大久保利通も石川県士族・島田一郎らの手で紀尾井坂(東京都)で暗殺されました。戊辰戦争で大きな功績のあった明治政府の第一世代とも言える西郷・木戸・大久保・江藤などが死去したことによって、重要ポストに空白が出来て明治政府の世代交替が急速に進みました。西郷や大久保、木戸ら明治の元勲が死去しても薩長中心の藩閥政治は相変わらず続きますが、明治政府の第二世代として政治(行政)分野で頭角を現してきたのは、大隈重信(肥前)や伊藤博文(長州)、井上馨(長州)、大木喬任(肥前)、黒田清隆(薩摩)らであり、軍事分野で影響力を強めたのは、山県有朋(長州)や西郷従道(薩摩)、川村純義(薩摩)でした。

薩長を中心とする藩閥政治に対する士族と民衆の不満が高まる中で、国会開設を求める板垣退助らの自由民権運動が高まりを見せるようになり、1874年1月17日には板垣退助・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎らの愛国公党が民撰議院設立建白書を政府に提出しています。進歩的な知識人であった大隈重信は、イギリス型の立憲主義(慣習法)に基づく議会政治の必要性を訴えていましたが、伊藤博文や井上馨はドイツ憲法(プロイセン憲法)に基づく立憲政治を模範にすべきと考えていました。

国会開設と議会政治(イギリス型の立憲主義)を巡って薩長閥の政府首脳部(伊藤博文・井上馨・黒田清隆・西郷従道・山県有朋)と対立した大隈重信は、明治十四年の政変(1881)によって政権を去り佐賀県へと下野します。伊藤博文と西郷従道の訪問によって下野を促された大隈は、それを了承していったん政府から退き東京専門学校(早稲田大学の前身)や立憲改進党の設立に力を尽くします。1889年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)は、プロイセン憲法を模範にして作成されたものでした。

1886年(明治19年)から伊藤博文を首相とし井上馨を外相とする日本政府は、欧米各国と結んでいた不平等条約の改正に着手します。井上馨は華やかな舞踏会とパーティーで、各国の外交官(大使)をもてなす鹿鳴館外交を展開しますが、国家主権を確立する為の条約改正はなかなか上手く進みませんでした。

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大隈重信による東京専門学校の創設と立憲改進党の結成

明治14年の政変(1881)で政権を追われた大隈重信は、政府中枢の仕事の一線から退き、教育者や政党政治家として後世に残る偉業を達成することになります。1882年に、板垣退助の自由党(愛国公党の後身)に続く立憲改進党を大隈は結成しますが、それから間もなく(1882年10月21日)、早稲田に東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立しました。大隈重信の東京専門学校(早稲田大学)よりも早く、福沢諭吉の慶應義塾(慶應義塾大学)が開設(1868)されていましたが、大隈重信は将来有為な政治家や理科系の研究者を養成する為の学校として東京専門学校を創立しました。福沢諭吉は近代教育制度の父として先進的な西欧文明の学術知識を逸早く日本に導入した人物ですが、慶應義塾では、東京専門学校のような政治家の育成よりも経済(理財)や法律など実学の教育普及に注力していました。

大隈重信は外交政治や内政の制度改革に抜群の能力を見せましたが、元々、肥前藩の藩士だった頃に『致遠館』という英学(洋学)の学校を開設して校長を務めていたこともあり、「私学の開設による教育振興」や「西洋の学問の研究」に非常に強い関心を持っていました。東京専門学校(早稲田大学)が創立(1882)されたばかりの頃の教授陣には、大隈重信の盟友である小野梓(おの・あずさ)が率いていた「鴎渡会(おうとかい)」という学生メンバーが多く起用されたようです。鴎渡会のリーダーは後に東京専門学校の学長となる高田早苗であり、それ以外にも、坪内雄蔵(坪内逍遥)や天野為之、市島謙吉といったメンバーがいました。東京専門学校は初め、大隈の養子である大隈英麿が教授となって理科系の学問(数学・物理学・天文学・化学)などを中心に教える学校にしようかと構想していたようですが、国政への関心が旺盛な鴎渡会のメンバーが多数、学校運営に関わるようになって「政治家養成のための学校」という色彩が濃くなりました。

東京専門学校(早稲田大学)は、近代国家を機能的に運営する為に必要な「高度な知性・能力・気力」を備えた人材を育成する学校機関でしたが、薩長閥を中心とする明治政府は、大隈の東京専門学校を鹿児島の私学校(西郷隆盛の派閥で西南戦争を引き起こした勢力)のような反政府的な学校なのではないかという疑念を抱き様々な方法で圧迫・威圧しました。明治政府は依然として、戊辰戦争に勲功のあった薩長閥の9人の元老(山県有朋・井上馨・大山巌・松方正義・西郷従道・西園寺公望・伊藤博文・桂太郎・黒田清隆)が政治の実験を握る「藩閥政治」のシステムから脱け出ていなかったのです。

1886年(明治19年)には大隈重信は東京専門学校の経営と指導からいったん身を引くことを決断し、高田早苗を学長に任命して後事を託しました。外務大臣・井上馨を中心とする不平等条約改正が暗礁に乗り上げていた頃、再び外交政治のエキスパートである大隈重信の活躍が必要とされるようになります。同じ立憲改進党に所属する矢野文雄の勧めもあり、1888年2月1日、大隈重信は停滞した日本外交をブレークスルーする為に伊藤博文内閣の外相(外務大臣)に就任します。大隈は伊藤内閣の後を継いだ黒田清隆内閣において外相を務め、精力的に欧米各国との条約改正の交渉を行いメキシコ・ドイツ・アメリカとの調印に成功しました。

最も強硬に不平等条約改正を拒絶していたイギリスとの交渉も終盤に入っていたのですが、改正条約との調印を遅らせたいイギリスは新聞紙『ロンドンタイムス』で条約改正の具体的内容をスクープして、日本の国内世論を二分させようとしました。そのイギリスのロンドンタイムスの策略に影響されてしまった伊藤博文と井上馨は、「大隈重信の改正案」が国家の利益と独立を損なうものであると強く反対してイギリスと日本の条約改正交渉はいったん中絶しました。更に、大隈には「大隈を国賊と見る玄洋社の来島恒喜(きじま・つねき)」によるテロリズムの不幸が襲いかかり、大隈は投げつけられた爆発物によって右足を失うことになりました(1889年10月18日)。大隈が途中で諦めざるを得なかった不平等条約改正の仕事は外相の陸奥宗光(むつ・むねみつ)へと引き継がれ、日本は欧米の列強諸国と法的に対等の地位に立つことが出来るようになりました。

晩年の大隈重信の政治生活と日本の軍国化

突如襲い掛かった卑劣なテロリズムにより右足を失う負傷を負った大隈ですが、大隈重信率いる立憲改進党は1892年に進歩党と改称します。日清戦争後の1896年9月に成立した松方正義内閣(第二次)では大隈重信は外務大臣となり、政党政治が藩閥政治に大きな影響力を持つきっかけになりますが、日本は朝鮮に対する領土的野心を急速に強めていきます。

大隈が外相を務めた第二次松方正義内閣が総辞職すると、第三次伊藤博文内閣が成立します。伊藤博文は自由党と進歩党の双方を取り込む挙国一致体制の確立に失敗して衆議院を解散し、独裁的な藩閥政府が議会制民主主義を担う政党を押さえ込むことが出来ない政局の変化が生まれました。藩閥政府と一体化することを拒否した自由党(板垣退助)と進歩党(大隈重信)は、1898年(明治31年)6月22日に合併して憲政党を結成し、日本で初めての政党内閣となる『隈板内閣(わいはんないかく)』が誕生しました(1898年6月30日)。

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大隈重信を内閣総理大臣とし、板垣退助を内務大臣とする隈板内閣は11月8日にわずか4ヶ月で総辞職することになりますが、大隈は旧進歩党を憲政本党として再結成して政治活動を続けました。この時代の政党政治の急速な変化の歴史については、『星亨(1850-1901):明治時代の議会制民主主義と政党政治の歩み』の項目を参照してみて下さい。その後、1908年には一度政界の表舞台から引退して、東京専門学校(早稲田大学)の総長や大日本文明協会の会長に就任して、教育文化の方面で充実した活動を行いますが、『閥族打破・憲政擁護』をスローガンとする第一次護憲運動の高まりと共に政界に復帰します。

政治家・大隈重信としての最後の晴れ舞台は、海軍の収賄汚職事件であるシーメンス事件によって山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)内閣が総辞職した事によって訪れました。国民の圧倒的支持を得た大隈重信は、1914年(大正3年)4月13日に、立憲同志会・大隈伯後援会・中正会を与党とする大隈内閣を組閣しました。大隈重信はサラエボ皇太子暗殺事件を引き金とする第一次世界大戦(1914-1918)が勃発すると、中国大陸での権益拡大を目的としてイギリスとの日英同盟を根拠にドイツに対して宣戦布告しました。第一次世界大戦でドイツが劣勢になると、日本(首相の大隈重信・外相の加藤高明)は中国(袁世凱の中華民国)に対して対華21か条要求を突きつけて、ドイツが中国に持っていた山東省の利権を受け継ぎ、関東州の租借期限や満鉄の経営期限の延長を中国に強硬に要求しました。

政治生命の最後で軍部(陸海軍)に急速に接近して、第一次世界大戦への消極的参加を表明した大隈重信首相は、日清戦争・日露戦争から続いていた日本の軍事拡張路線を更に拡大する役目を果たすことになりました。イギリスに味方して連合国側に立った日本は、西欧列強と対等に肩を並べるようになり日本の国際社会における発言力は急激に強まりました。日清・日露・第一次世界大戦の勝利や韓国併合によって東アジアに大きな利権と影響力を持つようになった日本は、この後に満州事変を起こし、急速に国際社会から孤立して破滅の隘路へとはまり込んでいってしまうことになります。

早稲田大学を創設して、欧米の先進的な学術と文化を積極的に取り込もうとした教育者としての大隈重信は日本に大きな知的財産を残しましたが。一方、日本に立憲主義的な政党政治を根付かせようとして立憲改進党を結成した政治家・大隈重信は、政治生活の最後の最後で(歴史の必然的な流れではあったでしょうが)将来の災禍の種子(帝国主義的な政治戦略の萌芽)を残して政界を去ることになりました。1916年10月に大隈内閣は総辞職し、その時に大隈重信は政界から完全に引退し、1922年1月10日に東京の早稲田でその人生の幕を下ろしました。

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