武田信玄・今川義元・北条氏康の三国同盟と上杉謙信

武田信玄・今川義元・北条氏康の勢力拡大と甲駿同盟
関東管領・上杉謙信の誕生と武田信玄との戦い

武田信玄・今川義元・北条氏康の勢力拡大と甲駿同盟

『毛利元就・尼子経久・大内義隆』の項目では、西国大名の盛衰の歴史について解説しましたが、関東の東国では甲斐の武田晴信(武田信玄)、駿河の今川義元、相模の北条氏綱が勢力を伸ばしていました。武田信玄という法名で知られる武田晴信(1521-1573)は、鎌倉時代後半から甲斐の守護職に任じられてきた武田氏(甲斐源氏)の血統であり、1521年11月3日に甲斐国守護・武田信虎と正室・大井夫人との間の子として誕生しました。

晴信の父である武田信虎(のぶとら, 1494-1574)は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を拠点として甲斐国を統一することに成功しており、甲斐の有力国人層の大半が信虎へ帰属していました。武田信虎の時代には、躑躅ヶ崎館(1519年建設)を中心に城下町が整備され強力な軍勢を組織しており、1524年には山内上杉氏・扇谷上杉氏・後北条氏(北条氏綱)と戦闘を行い、信濃国への進出の機会を伺っていました。

スポンサーリンク

武田信虎は1530年に、山内上杉氏の上杉憲房(のりふさ,1467-1525)の後室を側室としていますが、子の武田晴信(信玄)も扇谷上杉氏の上杉朝興(ともおき,1488-1537)の娘と1533年に婚姻関係を結んで関東との結びつきを強めています。武田晴信の『晴』の文字は、12代将軍・足利義晴から偏諱を賜ったもので幼名は勝千代(かつちよ)といいました。

山内上杉氏で関東管領だった上杉憲房は、扇谷上杉家の上杉朝興や相模後北条氏の北条氏綱、甲斐武田氏の武田信虎と長期間にわたって抗争を繰り返して政情が不安定な時期に死にます。実力を蓄えて主君の上杉憲房に反抗を繰り返していた重臣・長尾景春(ながおかげはる, 1443-1514)は、上杉謙信(長尾景虎の越後長尾氏)とは異なる血筋ですが、景春は同盟を結んでいた北条早雲からその智謀と武勇を賞賛された奸雄として知られます。

長尾景虎(上杉謙信)の父で越後守護代の長尾為景(ながおためかげ, 1471/1489-1543/1537)は、1510年に長森原の戦いで関東管領・上杉顕定(あきさだ,1454-1510)を戦死に追いやり越後国の実権を掌握しました。武田信虎は駿河守護で戦国大名の今川氏輝(うじてる,1513-1536)と1527年に和睦していましたが、1535年に氏輝は相模の北条氏綱と連携して再び甲斐の武田信虎を攻めてきました。今川氏輝は武勇に優れた武将でしたが、1536年に24歳の若さで死去します。氏輝には嗣子が無かったため、弟の今川義元と玄広恵探(げんこうえたん,良真)の間で後継者争い(花倉の乱)が生じましたが、信虎は義元を支援して駿河守護・今川氏の家督を継がせました。

武田信虎は自らの長女・定恵院(じょうけいいん)を駿河の戦国大名・今川義元(よしもと,1519-1560)に嫁がせており、武田信玄と今川義元は義理の兄弟の間柄になります。更に今川義元の斡旋によって公家の三条公頼から晴信の継室を迎えており、ここに甲駿同盟(甲斐・駿河の同盟)が成立しました。義元の祖父の今川氏親(うじちか)は、1526年4月に戦国時代の分国法として有名な『今川仮名目録』を作成したことで知られますが、『今川仮名目録』は今川宗家の分家・家臣に対する権限(指令権・立法権)を強化する目的で制作されました。

武田氏(武田信虎)と北条氏(北条氏綱)との間では頻繁に戦闘が行われていましたが、甲駿同盟の成立によって相駿同盟(北条・今川の同盟関係)が崩れることとなり、北条氏綱は今川義元の駿河に進撃を加えます。北条氏綱は富士川以東の駿河の領土を支配することになり、この後、『河東の乱(かとうのらん・河東一乱,1536-1545)』と呼ばれる北条氏と今川氏の戦いが長く続けられました。後方の駿河側からの攻撃の心配を取り除いた信虎は信濃(信州)に軍勢を進めて、信濃の有力国人である諏訪頼満(すわよりみつ, 生年不詳-1483)・諏訪頼重(よりしげ,1516-1542・頼満の孫)・村上義清(よしきよ,1501-1573)と連帯して甲斐から信州へと支配領域を伸ばしていきます(1541年の海野平合戦による滋野一族の打倒など)。

スポンサーリンク

順調に信州制覇の地歩を築いているかのように見えた武田信虎でしたが、敵は意外な場所に潜んでいました。信州攻撃に一段落をつけた信虎が甲斐に帰国した1541年6月14日、板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)、飯富虎昌(おぶとらまさ)など譜代家臣からの支持を取り付けた武田晴信(武田信玄)が父親の信虎を甲州から追放したのでした。故国の甲斐を追放された武田信虎は駿河の今川義元を頼って落ちていき、武田晴信が武田氏の家督と甲斐守護の官職を継承しました。武田晴信が父・信虎を追放した理由については、『甲陽軍鑑』『勝山記』『高白斎記』で諸説が取りざたされていますが、信虎が晴信を廃嫡して次男・信繁(のぶしげ)を立てようとした説や戦争で重税・軍役を科したため農民・国人からの怨嗟の声が高まっていたという説などがあります。『甲陽軍鑑』には今川義元との共謀説なども取りざたされています。

甲斐から追放された信虎ですが、結局、京都への上洛途中で病死した武田信玄よりも長生きして、孫の武田勝頼(かつより)が当主になった時に甲斐へと帰還を果たしています。信虎から家督を簒奪した直後に信濃の諏訪頼重と小笠原長時が攻め込んでくるが、晴信はこれを撃退して本格的に信濃征服の動きを進め始めます。1542年に信濃・諏訪に攻め込んだ晴信(信玄)は、諏訪頼重を謀略にかけて降伏させその後に自害に追い込みます。

諏訪上社大祝(すわかみしゃおおほふり)の諏訪氏を滅亡させ、拠点の上原城を取った晴信は、上原城に家臣の板垣信方を諏訪郡代として送り込みます。1547年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めています。武田晴信は怒涛の勢いで信州の諏訪地方に続いて佐久地方も占領しますが、1548年2月に信濃の有力国人である村上義清と『上田原の戦い』で衝突して大敗を喫してしまい、重臣の板垣信方や甘利虎康などを失ってしまいました。

1550年には、信州の国人の小笠原長時を打ち破って拠点の林城を奪い取り、長時は村上義清の元へと落ち延びていきますが、村上義清の支城である砥石城(といしじょう)を攻めた晴信は再び義清に敗北してしまいます。しかし、真田幸隆(幸綱)の策略によって砥石城を陥落させると武田晴信の優勢が確定し、1553年に晴信は村上義清を攻撃して打ち破ります。敗れた村上義清は、拠城の葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ちていきますが、これが日本史上もっとも有名な戦いである『川中島の戦い』の遠因となります。村上義清を放逐して北信を除く信濃をほぼ平定した武田晴信は、甲斐守護と兼務する信濃守護になります。

後北条氏の祖で相模を平定した北条早雲(伊勢宗瑞)については既に解説しましたが、新興勢力の北条氏は『早雲→氏綱(うじつな)→氏康(うじやす)』へと家督が引き継がれていきます。2代・北条氏綱(1487-1541)の時代には、武蔵国に扇谷上杉氏が勢力を伸ばしてきており、扇谷上杉氏の家宰で有能な武将であった太田道灌(おおたどうかん,1432-1486)の死後に太田氏は江戸太田氏と岩付太田氏に分裂しました。太田道灌は30数回の戦争に参軍しその殆どで勝利したという軍略・智謀に優れた名将ですが、1482年に古河公方と両上杉家との間で成立した『都鄙合体(とひがったい)』の功績の多くは太田道灌の活躍に拠るものです。太田道灌は最後まで扇谷上杉氏(上杉顕定)に忠節を尽くして、下剋上を企てた長尾景春の乱を実力で鎮圧したことでも知られます。

楽天AD

関東管領・上杉謙信の誕生と武田信玄との戦い

2代古河公方の足利政氏(まさうじ,1462-1531・成氏の子)の元でも激しい内部対立が起きており、政氏と嫡男の3代古河公方・足利高基(たかもと,1485-1535)が対立しているだけでなく、高基の弟・足利義明(よしあき,1487-1538)も政氏(父)と高基(兄)に敵対して下総に移住していました。父・兄に叛逆した足利義明は下総に独立的な『小弓御所(おゆみごしょ)』を設立して『小弓公方(おゆみくぼう)』を自称しましたが、最終的には北条氏綱に攻め滅ぼされます。北条氏綱はこの戦勝の功績によって、4代古河公方・足利晴氏(はるうじ,1508-1560)から関東管領に任命され、氏綱の娘・芳春院を晴氏に嫁がせます。

北条氏綱は1524年に扇谷上杉氏(上杉朝興)の江戸城を攻略し、川越城に逃げた朝興が1537年に死去して幼少の上杉朝定(ともさだ,1525-1546)が家督を継ぐと、そのチャンスを逃さずに川越城も陥落させます。1545年に、上杉朝定は山内上杉氏の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・駿河守護の今川義元らと同盟して、8万の大軍勢で北条氏康から川越城を奪還しようとしますが、落城ぎりぎりまで追い込んだものの奪還に失敗します。翌年1546年に北条氏康(うじやす,1515-1571)河越の戦いを戦った上杉朝定は22歳の若さで討死しました(扇谷上杉氏の滅亡)。氏康に敗れた古河公方・足利晴氏も強引に子の足利義氏(よしうじ,1541-1583)に譲位させられ、古河公方は実質的に北条氏の傀儡の地位に落ちていきます。義氏の死後には古河公方は消滅したものの、豊臣秀吉の計らいで喜連川氏(きつれがわし)が設立され、江戸時代以降も明治時代まで喜連川藩となって存続しました。

駿河守護が今川氏親(うじちか,1473-1526)の時代には北条早雲は今川氏に服属して、三河地方を侵略していましたが、ここで激しく今川氏に抵抗したのが徳川家康の祖父に当たる松平清康(まつだいらきよやす,1511-1535)です。清洲城を拠点とした松平清康は三河統一を成し遂げるほどの有能で剛勇な国人領主でしたが、信長の父・織田信秀が守る尾張に侵攻する寸前、1535年の守山崩れと呼ばれる内紛で阿部弥七郎正豊に突如斬殺されてしまいます。三河の内部分裂に勝機を見出した織田信秀(1510-1551)は、三河に進軍して1540年に拠点の安祥城が落とされて矢作川以西を信秀に奪われます。

清康の嫡子・松平広忠(ひろただ,1526-1549)は、息子の竹千代(徳川家康)を人質に差し出して今川義元と同盟を結び織田信秀に対抗しようとしますが、途中で戸田康光に竹千代を奪われて竹千代は織田信秀の人質となりました。その後、1549年に今川義元が織田信秀方の安祥城を攻め落として信秀の子・織田信広(のぶひろ,生年不詳-1574)を人質にし、信広と竹千代を交換して竹千代は本来の今川義元方の人質になりました。松平広忠が死去すると三河地方も今川義元の勢力下に組み入れられ、信秀が死んで『大うつけ』と呼ばれた織田信長が家督を継ぐと、義元は今が好機とばかりに尾張制覇(信長打倒)の野心を持ち始めます。結果的には、1560年の『桶狭間の戦い』で今川義元はあっけなく織田信長に敗れて首級を挙げられますが、大名としての格・領土の広さ・集められる軍勢の数では圧倒的に義元のほうが有利な状況にありました。

北条氏康は1545年の扇谷上杉家の上杉朝定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の『北条包囲網』を切り崩して、朝定を討死させて晴氏に古河公方を引退させましたが、上杉憲政(のりまさ,1523-1579)は越後の長尾景虎(上杉謙信)に支援を求めて落ち延びていきました(1552年)。1550年代初頭になると、東国の有力武将として武田信玄・今川義元・北条氏康が突出した実力を蓄えて領土を拡大していくが、それぞれの軍事的計画を実現するために三者は『甲・相・駿の三国同盟』を政略結婚を通して結ぶことになります。1552年11月には、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり、1554年7月には北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ、12月には武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことで、三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立しました。

スポンサーリンク

武田信玄に敗れた信州国人・村上義清に頼られ、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政に助けを求められた長尾景虎(上杉謙信)は『義の武将・仁慈の人物・越後の龍(虎)』として知られますが、信玄が孫氏に由来する『風林火山』の戦旗を掲げれば、謙信は自身の仏教信仰に基づく北方の守護神・毘沙門天の『毘』の文字を旗に掲げました。後に上杉謙信と名乗るようになる長尾景虎(ながおかげとら,1530-1578)は越後守護代の長尾氏の家系に生まれ、越後守護の上杉定実(さだざね,1478-1550)に仕えました。

1530年1月21日に、越後守護代・長尾為景(ためかげ)の四男(又は三男)・虎千代として生まれた長尾景虎は、元服すると周囲の国人から擁立されて家督を継いだ兄の長尾晴景(はるかげ,1509-1553)と対立することになり、最終的に主君の上杉定実の仲介で晴景の養子となった景虎が長尾氏の家督を継承することになります。19歳で家督を継いだ長尾景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入りますが、1550年に実子がいなかった主君の上杉定実が死去すると、将軍・足利義輝の指示で長尾景虎が越後守護の官職に任命されました。

景虎が越後守護になった1550年代には、甲・相・駿三国同盟を結んだ武田信玄が北信侵攻を進め、北条氏康が北関東支配を進め、今川義元が三河-尾張の支配に乗り出していました。北条氏康によって上野国・平井城を奪われた関東管領・上杉憲政が、1552年に越後守護の長尾景虎に助けを求めてくると、景虎は北条氏を攻めて平井城を奪還し憲政に返上しました。上杉謙信は1553年9月と1559年4月に、京都に上洛して後奈良天皇と13代将軍・足利義輝に謁見を果たしており、北条氏を牽制するための関東進出と、北信の国人(村上・高梨ら)の旧領復帰・信玄討伐に対する大義名分を得ようとしたようです。

上杉謙信は13代将軍・義輝に忠誠を誓い、関白・近衛前嗣(このえさきつぐ)に認められることで、三管領家(斯波・細川・畠山)に次ぐ身分上の特権を得ることにも成功しました。1553年、武田晴信(武田信玄)の信濃侵攻によって領地を奪われた村上義清・高梨政頼(景虎の叔父)ら信濃の有力国人が、旧領回復を求めて上杉謙信のもとへ落ちてきます。信濃国人と長年の交流関係があった上杉謙信は、『信玄の不条理な侵略(国人の領地の簒奪)』を許すことはできないとして『川中島の戦い』に出陣します。

楽天AD

川中島の戦い(川中島合戦)は、『1553年4月・1555年7月・1557年8月・1561年9月・1564年8月』の計五回行われたとされますが、実際に武田軍と上杉軍が全面衝突したのは1561年の4回目だけだったとも言われます。川中島の戦いで有名な武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの場面も、この4回目の川中島の戦いで起こった出来事だと言われますが、謙信が単騎で駆け込んで太刀で信玄に斬りかかり、信玄がこれを軍配で受け止めたというエピソードが史実か否かは不明です。

2回目の川中島合戦を終えた1556年6月には出家すると宣言して、高野山(または比叡山)で隠遁しようとしますが、家臣に引き止められて再び北条氏征伐と武田氏討伐の戦いの日々に明け暮れることになります。1561年3月に、長尾景虎は関東管領・上杉憲政を擁して総勢10万人の兵力で攻め寄せる大規模な『小田原城包囲』を行いますが、北条氏康の難攻不落の拠点・小田原城を落とすことは出来ませんでした。しかし、その途中で足利義氏が守る古河御所を落としており、義氏を追放して元々古河公方となる資格のあった足利藤氏(ふじうじ, 生年不詳-1566)を古河公方に復活させています。

しかし、上杉謙信の軍勢が引き上げると、すぐに古河御所に北条氏康が攻撃を仕掛け、1566年以降は捕虜になっていた藤氏の消息が分からなくなっています(一説には北条氏に処刑されたと言われます)。1557年には、関東管領・上杉憲政は長尾景虎を養子としており、1561年3月には鎌倉の鶴岡八幡宮で長尾景虎に関東管領職と山内上杉家の家督を譲渡しました。この時から長尾景虎は、上杉憲政の『政』を偏諱されて関東管領・上杉政虎(うえすぎまさとら)と名乗るようになります。4回目の川中島の戦いで上杉謙信と武田信玄は双方ともに甚大な被害を出しますが、同年1561年12月に将軍義輝の一字を偏諱されて更に上杉輝虎(てるとら)と名前が変わります。

1564年の夏には5回目の最後の川中島合戦が起こりますが、武田軍・上杉軍は60日にも及ぶ睨みあいの対峙の末に撤退しており、戦国時代の最も有名なライバルである武田信玄と上杉謙信の決着の日を見ることはありませんでした。その後、上杉謙信(上杉輝虎)を取り巻く関東と信濃の情勢はますます厳しくなり、関東の国人たちが次々と北条氏康に帰属する中で苦しい戦いを繰り返しますが、1569年に武田信玄に対抗するために北条氏康と『越相同盟』を結ぶ選択をします。

1569年12月に法号「不識庵謙信」を称すようになり、正式にはここで初めて上杉謙信という呼称が生まれたということになります。1571年になると北条氏康が死去し北条氏政(うじまさ,1538-1590)が武田信玄と同盟を結んで『越相同盟』が破棄されますが、これは氏康の『信玄と同盟を結べ』という遺言に基づいた行動だったようです。謙信のライバルであった武田信玄は15代将軍・足利義昭の『信長討伐令』を受けて(1572年10月3日)、一挙に京都上洛を目指し怒涛の進軍を開始しますが、あっという間に徳川家康の諸城を陥落させます。

武田信玄は後の天下人となる徳川家康を一言坂の戦いと三方ヶ原の戦いで二度も打ち破り、命からがら戦場を逃げ出した三方ヶ原の戦いでは恐怖した家康が脱糞したというエピソードさえ残っています。家康の盟友であった織田信長は、近江の浅井長政・越前の朝倉義景・阿波・河内の三好三人衆・石山本願寺の一向一揆に包囲されており援軍を差し向けられる状態ではなく、もし仮に武田信玄の攻撃をこの時に受けていたら信長が大敗北を喫していた可能性も捨て切れません。

しかし、天命は織田信長と徳川家康に味方し、翌1573年に武田信玄は持病を悪化させて進軍を続けられなくなり、甲斐に引き返す三河の街道で突然死去しました。信玄が死去して後方の憂いがなくなった謙信は、1576年2月に一向一揆をある程度制御できる本願寺顕如(けんにょ,1543-1592)武田勝頼(かつより,1546-1582)と和解して同盟を結びます。

室町幕府の権威を否定する信長との同盟を破棄して『信長包囲網』を形成しようとしますが、1577年12月18日に春日山城に帰還した上杉謙信は、翌1578年に計画していたという大遠征を前にして1578年3月13日に死去しました。大遠征計画は、古河公方・関東管領の威令に従わない関東の北条氏政の征伐を目的にしていたとも、京都で朝廷・幕府の権威を否定する織田信長を討伐するためだったとも推測されていますが……『義の将軍』として天皇・将軍・鎌倉公方(古河公方)の旧来的な社会秩序を復古するために戦い続けた上杉謙信は、その目的を達成することなく歴史の波濤の狭間に消えたのでした。武田信玄と上杉謙信亡き後の戦国時代の覇者となるのは、尾張から現れて将軍を京都から追放するほどの権力を獲得した織田信長であり、信長は良くも悪くも謙信の保守主義とは対極的な価値観を持つ『革新主義・進歩主義の戦国武将』でした。

楽天AD
Copyright(C) 2007- Es Discovery All Rights Reserved