『大学』の書き下し文と現代語訳:10

儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは儒者の自己修養と政治思想を説いた『大学』の解説をしています。『大学』は元々は大著の『礼記』(四書五経の一つ)の一篇を編纂したものであり、曾子や秦漢の儒家によってその原型が作られたと考えられています。南宋時代以降に、『四書五経』という基本経典の括り方が完成しました。

『大学』は『修身・斉家・治国・平天下』の段階的に発展する政治思想の要諦を述べた書物であり、身近な自分の事柄から遠大な国家の理想まで、長い思想の射程を持っている。しかし、その原文はわずかに“1753文字”であり、非常に簡潔にまとめられている。『大学』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていく。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『大学』(講談社学術文庫),伊與田覺『『大学』を素読する』(致知出版社)

[白文]

此謂知本。此謂知之至也。

右伝之五章。蓋釈格物致知之義。而今亡矣。間嘗窃取程子之意、以補之曰、所謂致知在格物者、言欲致吾之知、在即物而窮其理也。蓋人心之霊、莫不有知。而天下之物、莫不有理。惟於理有未窮。故其知有不尽也。是以大学始教、必使学者、既凡天下之物、莫不因其已知之理、而益益窮之、以求至乎其極。至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全体大用、無不明矣。此謂物格。此謂知之至也。

[書き下し文]

これを本を知ると謂う。これを知の至りと謂う。

右伝の五章。蓋し格物致知(かくぶつちち)の義を釈す。而して今亡ぶ。間ろ(このころ)嘗み(こころみ)に窃か(ひそか)に程子(ていし)の意を取ってもってこれを補って曰く、所謂知を致すは物に格る(いたる)に在りとは、吾の知を致さんと欲せば、物に即いて(ついて)その理を窮むるに在るを言うなり。蓋し人心の霊、知あらざる莫し(なし)。而して天下の物、理あらざる莫し。唯だ理において未だ窮めざるあり、故にその知尽くさざるあるなり。是(ここ)をもって大学の始教(しきょう)は、必ず学者をして凡そ(およそ)天下の物に即きて、その已(すで)に知るの理によって益々これを窮め、もってその極に至らんことを求めざる莫からしむ。力を用うるの久しきに至って、一旦豁然(かつぜん)として貫通すれば、則ち衆物(しゅうぶつ)の表裏精粗(ひょうりせいそ)到らざるなく、吾が心の全体大用(たいよう)明らかならざるなし。これを物格る(ものいたる)と謂う。これを知の至りと謂う。

[現代語訳]

これを本を知るという。これを知の至りという。

右は伝の五章で、格物致知の意味を解釈したものである。しかし今は亡びてない。この頃、試みに程子の意見を採用して補ってみたのだが、そこに書いていることは、いわゆる知を致すは物に格るにありとは、自分の知を最大限に極めようと思えば、事物(モノ・コト)についての知識・道理を窮めなければならないということを言っているのである。思うに人心は霊妙なものであるから、知がないという人はいない。そして、天下の事物もまた、道理・本質がないというものはないのだ。ただ事物の道理・理知について未だ窮めていない部分があり、そのために、人心に備わっている知を尽くすことができないのである。そこで『大学』の教えを始めようとする時には、必ず学者をして概ね天下の事物について、既に知られている知識・道理によってますますこれを窮め、もってその究極の理に到達しようとするのである。このやり方で集中力を用いるのが久しくなると、いったん豁然と悟って万物を貫くような完全な理知・道理を得れば、万物の表も裏も精細さも粗雑さも至らない部分がなくなって、私の心は万事に通じる全体と諸事に対応できる大用を明らかに身に付けることができる。これを、物に格る(事物について知り尽くす)というのである。これが知の究極への到達点なのである。

[補足]

儒学の学問の目的である『格物致知(かくぶつちち)』について、非常に詳しく説明している部分であり、『事物・万物の道理(仕組み)について知り尽くすこと』が物に格って知に到る道なのだということを示している。『格物致知』は儒教の科学的態度を表しているという解釈が為されることもあるが、実際には観察・経験によって万物を調べて理屈によって理解するというよりも、万物の物・事を貫いて宿っている本性・本質のようなものを洞察して感じ取るということに重点が置かれていたようである。

[白文]

所謂誠其意者、毋自欺也。如悪悪臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必慎其独也。

[書き下し文]

所謂その意を誠にするとは、自ら欺く毋き(なき)なり。悪臭を悪む(にくむ)が如く、好色を好むが如し。これをこれ自ら謙く(こころよく)すと謂う。故に君子は必ずその独りを慎むなり。

[現代語訳]

いわゆるその意を誠にするというのは、修身をするに当たって自分自身を不正に欺くことがないということである。悪臭を憎むように悪を憎めば悪事をなさず、好色を好むように善を好めば善事をなすようになる。このようになれば自然に善行を為して悪を遠ざけるので、快い気持ちになっていくというのである。そのため、君子は必ず自分ひとりしか知らないこと(他人に見られていない言動)を慎むのである。

[補足]

君子の誠実さの道徳のあり方について説明している。君子の善悪の基準は簡略であり、悪臭を嫌うように悪事を嫌い、好色(異性)を好むように善事を好むことから、その善の実践と悪の回避に無理がなくて極めて自然なのである。君子は『他人から見られていない場所・状況での自らの言動』に気をつけており、独りである時にこそ自分の言動を非常に慎むものなのである。

[白文]

小人間居為不善。無所不至。見君子而后厭然、覆其不善而著其善。人之視己、如見其肺肝然。則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必慎其独也。

[書き下し文]

小人間居(かんきょ)して不善を為す。至らざる所なし。君子を見て后(のち)厭然(えんぜん)として、その不善を覆いてその善を著す(あらわす)。人の己を視る(みる)こと、その肺肝(はいかん)を見るが如く然り(しかり)。則ち何の益かあらん。これを中(うち)に誠あれば外に形る(あらわる)という。故に君子は必ずその独りを慎むなり。

[現代語訳]

徳のない小人は暇を持て余して家にこもると、人目を憚らないので不善を行ってしまう。不善に至らないということがない。君子を見た後にはその影響を受けて、不善を覆い隠して、善の実践を現そうとするのである。他人が自分を見ることは、その内部にある肺肝を見るようなものでありその目線は厳しい。だから、表面的な悪を覆い隠すだけの行為には、何の利益もない。これを心の中にある誠実さが、自然に外見にも現れるということである。そのため、君子は必ず誰にも見られていない独りの時にこそ、その言動を慎むものなのである。

[補足]

故事成語としても良く知られている『小人閑居して不善を為す』の原点となっている部分である。徳が備わっていない小人は『他人の目線・監視』がない独りの状況だと、すぐに悪事に誘惑されてしまって善行を放棄してしまうというエピソードを書いている。しかし、有徳の君子の場合には『誰にも見られていない独りの時』にこそ、自分自身の言動を厳しく戒めて慎むので、そういった小人の過ちを犯さないのだというが、『君子の特別な自己制御能力・自律性』を表現しようとした章である。

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