『史記 仲尼弟子列伝 第七』の現代語訳・抄訳:4

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 仲尼弟子列伝 第七』の4について現代語訳を紹介する。

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司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 仲尼弟子列伝 第七』のエピソードの現代語訳:4]

子貢(しこう)は呉王に報告して言った。『私は慎んで大王のお言葉を越王に伝えました。越王は大いに恐れて、「私は不幸にも年少の時に父を失い、自分の力量も分からずに呉と戦うという罪を犯しました。その戦いに敗れて身に屈辱を受け、会稽(かいけい)に引きこもってしまったため、国土は廃墟になり雑草が生い茂っています。しかし大王のご恩恵によって、祭器を捧げて祭祀を行えるところまで復興しました。死んでもこのご恩は忘れません。どうして呉に陰謀など巡らせることがあるでしょうか」と言いました。』

その五日後、越は大夫の種(しょう)を使者として呉に派遣し、使者は頓首して呉王に次のように申し上げた。

『東海の下賎な臣、越王句践(こうせん)の使者である臣種は、大王の下吏や側近に大王のご機嫌を伺っております。今回、密かに聞いたところでは、大王は大義の軍を興して、強国を誅罰して弱国を救済するため、暴虐な斉を困らせて周王室を安んじようとしておられるようです。越は国内の士卒三千人をすべて進ませ、越王句践は自ら堅固な甲冑をつけ、鋭利な武器を持って、一番先に敵の矢・石を受け止めたいと思っております。越の下賎な臣種は、先代が秘蔵していた武器である甲冑20、屈盧(くつろ)という矛、歩光(ほこう)という名剣を献上して、軍の出陣をお祝いしたいと考えています。』

呉王は大いに喜んで、子貢に言った。『越王は自ら私に従って斉を伐とうとしているが、それを許しても良いだろうか。』

子貢は答えた。『ダメです。他国を空っぽにして、その国の兵をみんな進軍させ、その君主までお供させるのは、義ではないからです。君主は贈り物を受け取り、出陣を許して、越王の従軍についてはお断りになってください。』

呉王は了解して、越王の従軍を断った。そして遂に、呉王は九郡の兵を進めて斉を伐ったのである。

子貢は呉を去って晋に行き、晋の君主に言った。『臣(私)はこう聞いております。「思慮が定まっていなければ、緊急の場合に対処できず、兵が整っていなければ、戦いで敵に勝つことはできない」と。今、斉と呉が戦おうとしていますが、呉が勝てなかった時には、越は必ず呉に反旗を翻して乱すでしょう。呉が勝てば、必ずその兵を今度は晋に向けてくるでしょう。』

晋君は大いに恐れて言った。『どうしたら良いのだろうか。』

子貢は答えて言った。『兵を整えて士卒を休ませ、待機しておくべきです。』

晋君はその申し出を承諾した。

子貢は晋を去って魯に行った。呉王は果たして斉と艾陵(がいりょう,山東省)で戦い、大いに斉を破って七将軍の率いる兵を捕虜にしたが、まだ帰国しなかった。今度は兵を晋に向かわせて、晋軍と黄池(こうち,河南省)で遭遇することになった。呉と晋が戦った結果、晋は呉を大いに破った。越王は呉軍の敗報を聞いて、揚子江を渡って呉を襲撃し、呉の都城から七里の地点に軍を配置した。

呉王はこれを聞いて、晋を去って帰国し、越と五湖(太湖)で戦った。呉は越と三戦したが、三度とも勝てず、都城を守備することも出来なかった。越は呉の王宮を包囲して呉王夫差(ふさ)を殺し、宰相(太宰否)を殺戮した。越王は呉を破ってから三年後、東方で覇を唱えた。

こうして、子貢はいったん魯を出ると、魯を存続させ、斉を乱し、呉を破り、晋を強化し、越を覇者に仕立てたのである。子貢が一度、使いをすれば、諸国の形成(力のバランス)を打ち破り、十年のうちに、五つの国(魯・斉・呉・晋・越)は大きく変化してしまった。子貢は売買を好み、時機を見て貨物を転売した。喜んで人の美点を賞賛したが、人の過失を隠してやることはできなかった。かつて魯・衛の宰相となり、家には千金を蓄えたが、ついに斉でその生涯を終えたのである。

言偃(げんえん)は呉の人で、字(あざな)を子游(しゆう)と言った。孔子より45歳年下である。

子游は既に孔子の教えを受けてから、武城(ぶじょう,山東省)という小さな町の長官になった。孔子が通り過ぎると、(礼楽がきちんと行われていることを示すように)町から弦歌(げんか)の声が聞こえてきた。孔子はにっこりと笑って言った。『鶏(武城)を割くのに、どうして牛刀(子游の大才)を用いる必要があるだろうか。』

子游は言った。『昔、私は先生から「君子は礼楽の道を学べば人を愛するようになり、小人が礼楽の道を学べば(調和するので)使いやすくなる」と教わりました。』

(子游は孔子の言葉を、武城を治める程度の仕事(=鶏)に自分ほどの才能がある人物(=牛刀)が当たるのは勿体ないという意味ではなく、武城を治める程度の仕事(=鶏)に礼楽(=牛刀)を用いるのは大袈裟過ぎるという意味に間違って受け取っていたのである。)

孔子は言った。『お前たちよ、偃の言葉は正しい。さっき言った事は冗談だ。』

孔子は子游が文学の道に通じていることを知っていた。

卜商(ぼくしょう)は字を子夏(しか)という。孔子より44歳年下である。

子夏が質問して言った。『詩経に「巧笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目(びもく)分(へん)たり、素(そ)もって絢(あや)を為す」とありますが、これは何を言っているのですか。』

(『詩経』の言葉は、『笑いを浮かべた口元は綺麗で、美しい黒い瞳には魅力があるのに、更に白粉を塗って綺麗に化粧をする』という意味である。)

孔子は答えた。『絵でいえば、最後に白い粉で仕上げをすることである。』

『忠の後に礼があるというようなものですか。』

孔子は言った。『(よくぞそこまで理解を進めたものだ。)これで商は詩を語ることができるな。』

子貢が孔子に質問した。『師(子張)と商(子夏)ではどちらが賢いのでしょうか。』

孔子は答えた。『師(子張)は行き過ぎており、商(子夏)のほうは及ばない。』

『それは、師(子張)のほうが優れているということですか。』

孔子は言った。『いや違う、過ぎたるは及ばざるが如しである。』

孔子が子夏に言った。『お前は君子の儒(徳を修める学者)になれ。小人の儒(知を誇るだけの学者)にはなってはならない。』

孔子の死後、子夏は西河(山西省)で学問を教え、魏の文侯の師となった。文侯の子が死んだ時、慟哭のあまり失明してしまった。

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