『史記 孫子・呉起列伝 第五』の現代語訳・抄訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『孫子・呉起列伝 第五』の3について現代語訳を紹介する。『孫子』についても書き下し文と現代語訳を公開していますので、興味のある方は御覧になってみて下さい。

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司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 孫子・呉起列伝 第五』のエピソードの現代語訳:3]

前回の記事の続きの現代語訳です。

呉起(ごき)は、衛国の人である。用兵を好んだ。かつて、曾子(孔子の弟子の曾参)に学び、魯の君主に仕えていた。斉が魯を攻めた時に、魯は呉起を将軍にしようとしたが、呉起が斉の女性を妻にしていたため、魯から疑われてしまった。呉起は功名を得たいと思い、遂にその妻を殺して、斉の味方ではないことを明らかにした。それで、魯は呉起を将軍に任じた。将軍となった呉起は斉を攻め、これを大いに破った。

魯の人には呉起に対して次のような悪口を言うものもいた。

『呉起という人は、猜疑心が強くて残忍だ。若い頃には、家に千金の財産があったが、諸国を遊歴して士官しようとしたが失敗して、その財産を失ってしまった。そのため、郷土の人がこれを嘲笑すると、呉起は自分を誹謗した30数人を殺して、東方に出奔するために衛の都の外郭の門から出た。母親と決別した時に、呉起は自分の肘を噛んで、「私は大臣・宰相になれなければ、二度と衛の国には入りません」と誓ったという。それから曾子に師事したが、暫くして母親が死んでも、呉起は衛には帰らなかった。曾子は呉起を薄情だと思って破門してしまった。呉起は魯に来て兵法を学び、我が主君に仕えた。主君が疑うと、呉起は妻を殺してまで将軍になることを求めた。魯は小国なのに、斉に勝ったという名声が高まれば、諸侯は魯を憎んで伐とうとするだろう。また魯と衛とは兄弟の国なのに、主君が衛人である呉起を採用すれば、これは衛を捨てるということにもなる』

魯の君主はこれを聞いて、呉起を解任した。

呉起は魏の文侯が賢主だという噂を聞き、この人に仕えたいと思った。文侯は重心の李克に聞いた。

『呉起とはどのような人物なのか』

李克は答えて言った。『呉起は貪欲で好色な人物ですが、用兵の才覚においても司馬穣苴であっても呉起には及びません』

これを聞いて、魏の文侯は呉起を将軍に任じた。呉起は秦を破って、その五城の街を突破した。

呉起が将軍として臨む時は、士卒の中の最下級の者と衣食を同じようにして、横臥するにも敷物を使わず、外に行く時には馬・車に乗らず、自分の糧食を自分で包んで、士卒と労苦を分かち合っていた。兵卒の中に腫れ物を発症した者があると、呉起はそれを口で吸って膿を出してやった。兵卒の母はそれを聞いて、声を出して泣いた。ある人が言った。

『あなたの息子は兵卒である。それなのに、将軍は自ら膿を吸って出してくれた、なぜそのように泣くのか』

母親は答えた。『そうではないのです。昨年、呉公はあの子の父親の膿を吸ってくれました。父は感激して引かずに奮戦して、遂に討ち死にしました。呉公はまたあの子の膿を吸ってくれました。だから、あの子も呉公のために戦って死ぬことでしょう。だから、泣いているのです』

文侯は呉起が用兵に優れていて、清廉かつ公平であり、能力のある者はことごとく活用し、士卒の心を掌握しているのを見て、西河の太守に任命して、秦・韓の兵を防がせた。魏の文侯の死後、呉起はその子の武侯に仕えた。武侯は舟を西河に浮かべて下り、中流のあたりで呉起に向かって言った。

『美しいものだな。この山河の険しい眺めは。これは魏国の宝である』

呉起は答えて言った。『国家の宝とは、君主の得であり、地形の険しさではないのです。昔、三苗氏(さんびょうし)の国は、左に洞庭湖があり、右に彭蠡湖がありましたが、徳義を修めなかったので禹がこの国を滅ぼしました。夏の桀王が都を置いた場所は、黄河・済水を左にし、泰山・華山を右にし、伊闕(いけつ,険しい土地)を南に持ち、羊腸(ようちょう,険しい坂)が北にありました。しかし、桀王は仁のある政治を修めなかったので、殷の湯王に放伐されてしまいました。殷の紂王(ちゅうおう)の国は、左に孟門山(もうもんざん)があり、右に太行山(たいこうざん)があり、北に常山があり、南に黄河がありましたが、紂王は徳のある政治を修めなかったので、周の武王から殺されました。これらの先例を見ると、(国家が存続するか否かは)君主の徳であり、地形の険しさではないことが分かります。もし我が君が徳を修めなければ、この舟の中の人たちも全て敵国になってしまうでしょう』

武公は言った。『よろしい』。そして、呉起を西河の太守に封じたが、呉起の名声は非常に高かった。

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