『史記・項羽本紀』の7:劉邦とケイ陽の戦い

スポンサーリンク

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『項羽本紀』について解説する。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

楽天広告

[書き下し文]

漢の三年、項王数(しばしば)漢の甬道(ようどう)を侵奪(しんだつ)す。漢王食乏しく恐れて和を請い、ケイ陽以西を割きて漢と為さんとす。項王これを聴かんと欲す。歴陽侯(れきようこう)范増(はんぞう)曰く、「漢与(くみ)し易きのみ。今釈して(ゆるして)取らずんば、後必ずこれを悔いん」と。項王乃ち(すなわち)范増と与(とも)に急にケイ陽を囲む。漢王これを患ひ(うれい)、乃ち陳平の計を用いて項王を間(かん)せんとす。項王の使者来たるに、太牢(たいろう)の具を為し、挙げてこれを進めんと欲す。

使者を見、詳りて(いつわりて)驚愕して曰く、「吾以て亜父(あほ)の使者と為せしに、乃ち反って項王の使者なるか」と。更に持ち去り、悪食を以て項王の使者に食わしむ。使者帰りて項王に報ず。項王乃ち范増漢と私有らんかと疑い、稍く(ようやく)これが権を奪う。范増大いに怒りて曰く、「天下の事は大いに定まれり。君王これを為せ。願わくは骸骨を賜ひて卒伍(そつご)に帰せん」と。項王これを許す。行きて未だ彭城(ほうじょう)に至らざるに、疽(そ)背に発して死す。

[現代語訳]

漢王の3年(前204年)、項王はしばしば漢の物資の輸送路を攻撃して略奪行為を働いた。漢王は食糧が欠乏して、飢えを恐れて項王に和睦を申し出たが、漢王はケイ陽から西の半分を漢の領土にしてほしいと言った。項王はその申し出を聞き入れようとした。歴陽侯の軍師・范増は言った。「今の漢は簡単に倒せる与しやすい相手だぞ。今、漢王を許して討伐しないならば、必ず後になって後悔することになる」と。それを聴いた項王は范増と共にケイ陽を包囲した。漢王は憂慮していたが、陳平の計略を用いて、項王と范増との仲を割くことにした。項王の使者が来ると、最高の料理を準備して恭しくその料理を進呈しようとした。

使者を見てわざと驚いた様子で言った。「私は亜父殿(范増様)の使者だと思い込んでいましたが、あなたは項王様の使者でしたか」。そして豪華な食事を持ち去って、代わりに粗末な食事を項王の使者に食べさせた(項王の使者を范増の使者よりも下に見てわざと侮辱した)。使者は帰って項王にその様子を報告した。項王は范増が漢と内通しているのではないかと疑い、少しずつ范増の軍師・諸侯としての権限を奪い取っていった。范増は激怒して言った。「天下の大勢はもう定まってしまった。(わしが不要だというなら)主君がご自分で為されればいい。どうぞ私を免官して(クビにして)、ただの一兵卒に戻して下さい」。項王はその范増の免官の申し出(軍師・諸侯の辞任)を許した。范増は立ち去ったが彭城に到着する前に、腫物(がん)が背中にできて死んだ(項羽は怜悧な知性を持つ最大の助言者・政略家である軍師范増を失ってしまった)。

[解説]

項羽と劉邦の戦いである『楚漢戦争』は、圧倒的な軍事力と才覚を持つ項羽の圧勝が続き、劉邦は連戦連敗の苦渋を飲ませられながらも、『張良・蕭何(しょうか)の賢臣の支え』と『漢中の堅固な守り』によって何とか持ちこたえていました。しかし、ケイ陽で籠城している劉邦は、ケイ陽への輸送路を項羽に襲撃されてしまい、食糧が届かなくなって絶体絶命の危機に陥ってしまいます。

ここで劉邦に助け舟を出したのが、かつて項羽の家臣であった陳平(ちんぺい)という参謀格の人物でした。陳平は項羽の激昂を買って殺されかけた過去があり、暴君の項羽に対して怨恨感情を持っていたのですが、陳平は項羽を政略・軍略の部分で支え続けている軍事范増を項羽と仲違いさせれば、劉邦に籠城状態からの脱出のチャンスが生まれるという謀略を巡らします。

項羽と范増を離反させることに成功した劉邦は、遂に『垓下の戦い』で項羽との楚漢戦争に勝利することになるのですが、『項羽の敗因』は家臣を信用せずにすぐに疑心暗鬼に駆られたり、乱暴な振る舞いをする(家臣に怨恨・不安を抱かせる)という暴君的な気質にもありました。項羽は強くて恐ろしい天下無双の豪傑であり、周囲を威圧して平伏させるカリスマを持っていましたが、『他人からの心からの協力・応援』を得ることができない孤立しやすい性格(強くて勢いがある時には人が集まるが、困った時や弱った時には誰も助けてくれなくなる人物)でもあり、疑ったり激怒したりすると簡単に家臣を誅殺してしまうような凶暴さがあったのです。

反対に、沛の片田舎で不良の親分だった劉邦のほうは、自分自身には優れた知性や武勇などはなく、どちらかといえば怠惰で臆病、遊び好き(女好き)な人物であり、個人として見れば項羽の足下にも及ばないように見える頼りない主君でした。しかし、『自分を支えてくれる優れた家臣』を心から信用して上手く甘えられる(何でも相談して対応策を与えてもらえる)という項羽とは対照的な人に好かれる性格、人を惹きつけて協力して貰える器量(徳)を備えていたのです。

劉邦はいつも『困った困った、このままだと負けてしまう。恐ろしい項羽がやってくるぞ(俺なんかじゃとても項羽の武勇に敵わない)。いったいどうしたら良いのか』と張良・韓信などの自分よりも能力や知識のある家臣に素直に聞いて、窮状の打開策を与えてもらうことができたのです。一人ではどうにもできない困った時や弱った時にこそ、周囲の家来たちが『主君を助けるために最後まで諦めずに必死に動いてくれる』という、他に類例のない上に立つ人物としての魅力、見捨てることのできない愛嬌を持っていたところが、項羽にはない劉邦の強みでした。

スポンサーリンク
楽天広告

[書き下し文]

漢将の紀信(きしん)漢王に説きて曰く、「事已(すで)に急なり。請う、王の為に楚を誑きて(あざむきて)王と為り(なり)、王は以て間出(かんしゅつ)すべし」と。ここに於て漢王夜に女子をケイ陽の東門より出だす。甲(こう)を被るもの二千人なり。楚兵四面よりこれを撃つ。紀信黄屋(こうおく)の車に乗り、左トウを伝け(つけ)、曰く、「城中食尽き、漢王降る(くだる)」と。楚軍皆万歳を叫ぶ。

漢王亦数十騎と城の西門より出で、成皋(せいこう)に走る。項王紀信を見て問う、「漢王安くにかある」と。信曰く、「漢王已に出でたり」と。項王紀信を焼き殺す。

[現代語訳]

漢の将軍・紀信が漢王に進めて言った。「事態は差し迫っています。漢王のため、私が楚を欺いて王になりすましますので、王はその隙に城を脱出してください」と。その言葉を受けて、漢王は夜に女性をケイ陽の東門から出した。鎧を着た女性が2千人もいた。楚の兵はその軍隊に見せかけた女性集団を、四方から攻撃した。紀信は君主の乗る黄色の屋根の車に乗り、トウをその左側に付けて、「城中の食糧が尽きたので、漢王は降伏することにした」と項王に通告した。楚軍は、みんなで万歳と叫んでいる。

漢王はわずか数十騎だけを連れて、城の西門から脱出し、成皋へと落ちていった。項王は紀信を見て問い質した。「漢王はどこにいるのか」と。紀信は答えた。「漢王なら既に城を脱出しているぞ」と。項王は(激怒して)紀信を焼き殺してしまった。

[解説]

劉邦の君主としての器量・魅力は、自分のためなら命をも投げ出して助けてくれる多くの優れた家臣を惹きつけたということに尽きますが、この部分でも劉邦の身代わりとなって漢王になりすます計略を実行した紀信という武将が、激昂する項羽に捕縛されて残忍な火あぶりの刑に処せられています。

有能で忠実な家臣を集め続ける劉邦に対して、項羽のほうは『韓信・ゲイ布・陳平』といった優れた武将たちが劉邦の側に寝返ってしまい、項羽をギリギリまで支持して助言し続けた軍師・范増もまた、これほどに尽くした自分を疑い始めた項羽に愛想を尽かしてその元を去ってしまった(去った後にすぐに范増は死去していますが)のです。

スポンサーリンク
関連するコンテンツ
Copyright(C) 2013- Es Discovery All Rights Reserved