『史記 商君列伝 第八』の現代語訳・抄訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 商君列伝 第八』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 商君列伝 第八』のエピソードの現代語訳:3]

法令は既に出来上がっていたが、まだ布告されなかった。民が自分を信じないことを恐れたからである。そこで長さ三丈の木を国都の市場の南門に立て、その木を移して北門に置いた者には十金を与えると布告して、民を募集した。民はこの布告を怪しいと思って、誰も応募する者が無かった。今度は「木を移した者には五十金を与える」と布告した。一人が応募してその木を移すと、その場で五十金を与えて、布告に嘘がないことを明らかにした。その上で、法令を布告したのである。

新法が施行されて一年が経った。秦の民には、国都にまで行って新法の不便を訴えるものが、千人を数えるほどに多かった。こういった時に、太子が法を犯した。衛鞅は言った。「法が行われないのは、上位の者が法を犯しているからである」 法に照らして太子を処罰しようとしたが、太子は国家の君主の後継者で刑罰を科すことができないので、その傅(ふ,お守り役)の公子虔(こうしけん)を処刑し、その師の公孫賈(こうそんか)に刺青の刑罰を科した。すると翌日から、秦の人々は法令に従うようになった。

新法の施行から十年、秦の民は大いに喜び、道に落し物があっても拾って盗む者はなく、山中の盗賊もいなくなり、各家庭の生活も良くなって満足した。民は公(国)のための戦争には勇敢だが、私の決闘には臆病になり、郷土の村々は良く治められた。過去に新法の不便を訴えていた秦の民が、またやってきて今度は新法の有用性を褒めた。衛鞅は、「これらの変節者は教化を乱す民である」と言って、ことごとく辺境の土地に移してしまった。その後、法令についてあれこれ議論する民はいなくなった。

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それらの功績によって、鞅は大良造(秦の第16爵)に取り立てられた。鞅は兵を率いて魏の安邑(あんゆう)を包囲して攻め落とした。三年後に、土木工事を行って、咸陽に正門・宮殿・広場などを築いた。秦は雍から咸陽に都を遷した。民の父子・兄弟が同じ家屋で生活することを禁止し、小さな郷邑や集落を統合して県にまとめ、各県に令(長官)・丞(副長官)を置いた。全部で31県となった。今までの田地の間にあった道路・境界の畦を破壊して田地を広くし、賦税を平等にして、升・秤・ものさしなどの度量衡を統一した。これから4年後、公子虔が再び法を犯したので、鼻切り(鼻削ぎ)の刑に処した。五年後、秦は富強になったので、周の天子は胙(ひもろぎ)を秦の孝公に与え、諸侯はこの栄誉を慶賀した。

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その翌年、斉が魏を馬陵で破って、魏の太子申(しん)を捕虜にし、将軍の龍涓(ほうけん)を殺した。翌年、衛鞅は孝公に言った。「秦と魏との関係は譬えて言えば、人に内臓疾患があるようなものです。魏が秦を併合しなければ、秦が魏を併合することになります。なぜなら、魏は険しい山脈の西にあって都を安邑(あんゆう)に置き、黄河を秦との境界にして、東方の地(函谷関以東の地)の利益を独占しています。有利な情勢になると西側の秦を侵略し、不利な情勢では東側の領地を拡大しています。今、秦は我が君が賢明な君主であるため国力が盛んになっていますが、魏は以前、斉に大いに打ち破られて、諸侯も従わなくなっているので、魏を討つ好機です。魏が秦軍を支えきれなくなれば、必ず東方に都を遷すでしょう。魏が東に遷都すれば、秦は従来の魏の領地を支配でき、黄河と山嶺の堅固な土地に依拠して、東に進出して諸侯を制することができます。これは帝王の事業というべきものです」

孝公はその通りだと思い、鞅を将軍に任命して魏を伐たせた。魏は公子コウを将軍にしてこれを迎え撃った。両軍が対峙してから、衛鞅は魏の将軍・公子コウに書面を送った。

「私は魏におりました時には、あなたに親しくして頂きました。今は両国の将軍となって向かい合っていますが、攻めるに忍びない気持ちがあります。公子と直接面会して、和睦を誓い、酒宴を楽しく開いて戦争をやめ、秦・魏両国を安泰にしたいのです」

魏の公子コウは最もだと思い、会見して盟約を結び、酒を酌み交わした。衛鞅は武装した兵士を隠しておいて襲撃し、魏の公子コウを捕虜にして、魏軍を攻めて散々に打ち破ってから秦に帰国した。魏の恵王はその軍が何度も斉・秦に破られ、国内の軍事力は弱くなり、領土も削られていくので恐れをなした。そこで秦に使者を送り、河西の地を献上して和睦を結んだ。魏は遂に安邑を去って、都を大梁に遷した。魏の恵王は言った。「私は、公叔座の言葉を取り上げなかったばかりにこんな酷い目に遭ってしまった、恨めしい」

衛鞅が魏を破って秦に帰還すると、秦王は衛鞅を於・商などの十五邑に封じて、商君(しょうくん)と呼ぶようになった。

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