『荘子(内篇)・斉物論篇』の3

荘子(生没年不詳,一説に紀元前369年~紀元前286年)は、名前を荘周(そうしゅう)といい、字(あざな)は子休(しきゅう)であったとされる。荘子は古代中国の戦国時代に活躍した『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家であり、老子と共に『老荘思想』と呼ばれる一派の原型となる思想を形成した。孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持つが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想である。

『荘子』は世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔するような傾向が濃厚であり、荘子は絶対的に自由無碍な境地に到達した人を『神人(しんじん)・至人(しじん)』と呼んだ。荘子は『権力・財力・名誉』などを求めて、自己の本質を見失ってまで奔走・執着する世俗の人間を、超越的視座から諧謔・哄笑する脱俗の思想家である。荘子が唱えた『無為自然・自由・道』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれている。荘子は『内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇』の合計三十三篇の著述を残したとされる。

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金谷治『荘子 全4冊』(岩波文庫),福永光司・興膳宏『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫),森三樹三郎『荘子』(中公文庫・中公クラシックス)

[書き下し文]

斉物論篇 第二(続き)

喜び怒り、哀しみ楽しみ、慮れ(おそれ)嘆き、変じることもあれば執われる(とらわれる)こともある。姚(よう)のようで佚(きまま)でもあり、啓(あけすけ)のようで態(たい=思わせぶり)でもある。楽(がく)の虚(あな)から出て、蒸せた気の菌と成るがごとし。日も夜も前に相(あい)代わりて其の萌えるところを知ること莫し(なし)。已んぬるかな。已んぬるかな。

旦け暮れ(あけくれ)此れを得て、其の由りて(よりて)以て生くるのか。彼に非ざれば我なく、我に非ざれば取るところなし。是れ亦(また)近し。其の使わしむることを為す所を知らず。真の宰(あるじ)有るが若く(ごとく)にして特に其のあとを得ず。行うべきことは已だ(はなはだ)真なれども、其の形を見ず。情は有れど形なし。

百骸(ひゃくがい)・九激(きゅうきょう)・六蔵(りくぞう)、そなわりて存り。吾れ誰れ(いずれ)をか親しむことを為さんや。汝みな之を説ぶ(よろこぶ)か、其れ私すること有るか。是く(かく)の如くあれば、皆臣妾(しんしょう)と為すこと有るか。其れ臣妾は以て相(たがい)に治むるに足らざるか。其れ逓りて(かわりて)相君臣と為るか。其れ真の君の存すること有るか。求めて其の情を得ると得ざるとの如きは、其の真に益損することなきなり。

[現代語訳]

人は喜びと怒り、悲しみと楽しみ、恐れと嘆きの感情を持つ、移り気なこともあれば執着することもある。へつらっているようで、頓着しない気楽さもある。あけっぴろげなこだわりのなさがあるようで、どこか思わせぶりなもったいぶった態度を取ったりもする。風の音楽が巨木の穴から流れ出て、蒸した湿気から菌(きのこ)が生長するかのようである。昼も夜もなく、入れ替わりそういった感情や人間の性質、風の音やきのこは生まれ出てくるが、その根本の起源は知ることができないのだ。どうしようもならない。どうしようもならないことなのだ。

明けても暮れても様々な感情を感じているが、人というものはそういった感情によって生きているものである。喜怒哀楽の感情がなければ私はない、私がいなければ感情が具体的な形を取ることはないだろう。これは人の存在と感情の真実に近い。感情を感じさせる原因が何なのかは知らない。本当の原因(真宰)というものがあるようだが、誰もその本当の原因の痕跡を知り得たものはいない。本当の原因が感情を引き起こすことは全くもって真実だけれど、その具体的な形は見えないのだ。感情はあっても目に見える形がないのだ。

人間の身体には百の骨・九の穴・六の臓腑が備わっている。私はそのどれを特別に親しむことができるだろうか、いや、どれかだけを親しむことなどできない。あなたはその全てを悦ぶのか、それともどれか一つだけを選んで悦ぶのか。このようであれば、真の支配者がいない身体の全ての部分が臣妾(被支配的要素)になっているのだろうか。しかし、支配者がいない臣妾だけでお互いにきちんと統治することができるだろうか。それとも、交互に入れ替わって主君(支配者)になったり家臣(被支配者)になったりするのか。真の主君(身体の全体的な支配者・統制者)はいるのだろうか。その感情を感じるか感じないかということは、真の感情の原因を知っていなくても良く、何の損得も生じないのである。

[解説]

荘子は人間の精神と身体の背後には、その構成部分を全体的に支配・統制する『真の原因・絶対者(=真宰・真君)』があると推測していたが、その真の原因とは突き詰めれば『自然(天)』である。人間の不完全さや苦悩の原因を『喜怒哀楽の感情』に求めつつも、喜怒哀楽を感じるという事実そのものが、人間の人生であり私の悦びである(感情がなければ私の自我も存在できない)という洞察にまで辿り付く。

身体は非常に多種多様な部分から構成されているが、自分にとってどの骨が一番大切だとか、どの内臓が最も重要だとかいうような分類・選択をすることは原理的に無意味であり、『身体の有機的な全体性(部分の相互依存性)』こそが人間の身体にとっての従うべき『自然』なのである。人間の感情と寿命、自然界の風の音や生物の誕生は、すべて人がどんなに抗っても戦ってみてもどうしようもない『自然・天命』であり、荘子はそういったありのままの自然性を享受する所に人間の喜び・快適が生じると考えた。

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[書き下し文]

斉物論篇 第二(つづき)

一、其の成りたちし形を受くれば、亡びずに以て尽くるを待たん。物と相(あい)刃つけ(きずつけ)相靡ない(そこない)、其の行くこと尽て(すべて)馳するが如くして、而も(しかも)之を能く止むるものなし、亦悲しからずや。

身を終えるまで役役(あくせく)して其の成功したものは見ず、爾然(じぜん)として疲れ役て(つかれはて)、其の帰るところを知らず。哀しまざるべけんや。人は之を死せずと謂うも、奚(なん)の益あらん。その形は化わり(かわり)、其の心は之に然して(しかして)おとろう。大いなる哀しみと謂わざるべけんや。人の生くるや、固より(もとより)是くの若く茫えるか(まどえるか)。其れ我独り茫いて、人はまた茫わざる者もあるか。

[現代語訳]

人間は一度、人間としての形を受けて生まれれば、自然としてのあり方を失わずに、自然な生命が尽きるのを待つしかない。外界の物とお互いに傷つけあったり損ないあったりして、世俗の人が人生を生きようとする姿は奔馬が(興奮して無意味に)駆け回るようなもので、この過剰な勢いを止めることが誰もできない、(争い・疲弊・倦怠に巻き込まれる奔馬のような自然に反する生き方は)悲しいことではないか。

死ぬ時まであくせくと動き続けて成功したという人は見たことがない、ぐったりとして疲れ果て、落ち着いて返られる場所さえないのだ。哀しまないでいられようか。人はそれだけ忙しくしてもまだ死んでいないと言うかもしれないが、こんな生き方に何の利益があるのか。人間の外見は時と共に移り変わり、その心も身体の衰えに寄り添うようにして衰えていく。大いなる哀しみと言うしかないではないか。人の人生というのは、初めからこんな風に錯乱(忙しさに惑溺)しているのか。いや、私ひとりだけが世俗の諸事に追われて錯乱しているのであって、他の人の中には錯乱していない人(ゆっくり落ち着いて何もせず無為に自然のままで生きている人)もいるのだろうか。

[解説]

『荘子』の脱俗的な思想は世俗の生活や欲望の煩わしさを嫌って、忙しさに懊悩することを前提にしているが、この章では荘子は外部の物や人に振り回されずにのんびりとあるがままに時を過ごす『自然性』のありがたみを謳い、そういった自然性に従って生きられない我が身と人間一般のあり方に深く慨嘆しているのである。

世俗の仕事や人間関係、色恋、用事に忙殺されて時間に追いかけられているうちに、有限の人生の宿命から逃げられない人は次第に身体も精神も老いて衰えていくばかりだ。そうこうしていると、『自分自身の自然なあり方』を楽しむ間もなく、『世の中・家族・他人からの要請』の只中であっさりと死んでしまうのではないかという悲観主義的な厭世感が漂っている。

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