『平家物語』の原文・現代語訳35:この明雲と申すは、かけまくも忝く~

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『この明雲と申すは、かけまくも忝く~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

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『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

[古文・原文]

座主流の事(続き)

この明雲と申すは、かけまくも忝く(かたじけなく)、村上の天皇の第七の皇子具平親王(ぐへいしんのう)より六代の御末、久我(こが)の大納言顕通(あきみち)の卿の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣も尊み(たっとみ)給ひて、天王寺・六勝寺の別当をもかけ給へり。されども陰陽の頭(おんみょうのかみ)安倍泰親(やすちか)が申しけるは、「さばかりの智者の、明雲と名乗り給ふこそ心得ね。上には日月の光を並べ、下に雲あり」とぞ難じける。

仁安(にんあん)元年二月廿日の日、天台座主にならせ給ふ。同三月十五日御拝堂あり。中堂の宝蔵を開かれけるに、種々の重宝どもの中に、方一尺の箱あり。白い布にて包まれたり。一生不犯(いっしょうふぼん)の座主、かの箱を開けて見給ふに、黄紙(おうし)に書ける文一巻あり。伝教大師、未来の座主の名字をかねて註し(しるし)置かれたり。我が名のある所までは見て、それより奥をば見給はず、本の如く巻き返して置かるる習ひなり。さればこの僧正も、さこそはおはしましけめ。かかる貴き人なれども、前世の宿業をば免れ給はず。あはれなりし事どもなり。

同じき二十一日、配所伊豆の国と定めらる。人々様々に申されけれども、西光法師父子が讒奏によつて、かやうには行はれけるなり。「今日やがて都の内を追ひ出さるべし」とて、追立(おったて)の官人、白河の御坊へ行き向つて追ひ奉る。僧正、泣く泣く御坊を出でつつ、粟田口(あわたぐち)の辺(ほとり)、一切経の別所へ入らせおはします。

山門には、「せんずる所我等が敵は、西光法師父子に過ぎたる者なし」とて、彼等父子が名字を書いて、根本中堂におはします十二神将の内、金比羅大将(こんぴらだいしょう)の左の御足の下に踏ませ奉り、「十二神将、七千夜叉、時刻を回らさず(めぐらさず)、西光法師父子が命を召取り給へや」と、喚き叫んで呪詛しけるこそ、聞くも恐ろしけれ。

同じき廿三日(にじゅうさんにち)、一切経の別所より、配所へ赴き給ひけり。さばかりの法務の大僧正ほどの人の、追立の欝使(うつし)が先に蹴立てられて、今日を限りに都を出でて、関の東へ赴かれけん心の中、推量られて(おしはかられて)あはれなり。大津の打出の浜にもなりぬれば、文殊楼(もんじゅろう)の軒端の白々として見えけるを、二目とも見給はず、袖を顔に推し当てて(おしあてて)、涙に咽び(むせび)給ひけり。

山門には宿老碩徳多しといへども、澄憲(ちょうけん)法印、その時は未だ僧都(そうず)にておはしけるが、余りに名残を惜しみ奉り、粟津まで送り参らせて、それより暇乞うて帰られけるに、僧正志の切なる事を感じて、年ごろ己心中に(こしんちゅう)に秘せられたりし、一心三観(いっしんさんかん)の血脈相承(けちみゃくそうじょう)を授けらる。この法は釈尊の付属、波羅奈(はらない)国の馬鳴比丘(めみょうびく)、南天竺の龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)より、次第に相伝し来れるを、今日の情に授けらる。さすが我が朝は粟散辺地(ぞくさんへんち)の境、濁世末代(じょくせまつだい)とは云ひながら、澄憲是を付属して、法衣の袂を絞りつつ、都へ帰り上られけん、心の中こそ尊けれ。

[現代語訳・意訳]

座主流の事(続き)

この明雲という僧侶は、言及するのも畏れ多いほどで、村上天皇の第七皇子に当たるお方で、具平親王から数えて六代目、久我大納言の顕通卿のご子息なのです。本当に並ぶ者がいないほどの博学で高潔な僧であり、天下第一の僧侶でいらっしゃったので、身分の上下にかかわらず尊敬されており、比叡山延暦寺に加えて更に、難波国の四天王寺、山城国の六勝寺の別当をも兼務していました。しかし、陰陽寮の長官・安倍泰親は、「あれ程の智者がなぜ明雲と名乗っているのかが分からない。名前の上に日月の光を置いて、その下には(光を隠してしまうように感じられる)雲がある」と非難するような物言いで言いました。

仁安元年二月二十日、明雲は天台座主に就任しました。三月十五日には、新任の高僧が、本尊を拝礼する儀式が行われました。その儀式で、根本中堂の宝蔵をお開きになられると、多くの貴重な宝物に交じって、一尺四方の箱が入っていました。箱は白い布に包まれています。生涯にわたり女性と接することがなかった明雲が、その箱を開けてみると、黄色い麻紙に書かれた一巻の手紙がありました。それは、開祖の伝教大師・最澄が未来の座主の名前を、前もって書き記しているとされているものでした。自分の名前が書かれている所まで見て、それから先の座主の名前は見ずに、元通りに巻き返して戻すというのが習わしでした。明雲もそのしきたりに従って、自分の名前の所まで見てから元へ戻しました。このような貴き人でも、前世の宿業は免れることができなかったのでしょう。(高僧もまた儚く弱き人間であり)悲しくも哀れなことでございます。

五月二十一日、明雲の配所は伊豆国に決定しました。人々は色々なことを言いますが、西光法師父子の讒言(虚偽の告げ口)のため、このような流罪になってしまったのです。「今日、すぐに都を追い出されなければならない」ということで、追い立て役の検非違使が、白河の御坊に向かいました。明雲は泣く泣く御坊を出て、粟田口のほとりにある一切経谷の別院へと入られました。

山門の衆徒は、「考え抜いた所、我々の敵は西光法師父子以上の敵はいない」ということで、西光親子の名前を書いて、根本中堂に鎮座する十二神将の中、金比羅大将の左の足の下に踏ませて、「十二神将・七千夜叉、時を置くことなく、西光父子の命を召し取り給え」と喚き叫びながら呪詛したことは。聞くだけでも恐ろしいことです。

五月二十三日、明雲は一切経谷の別院から配所の伊豆へと向かわれました。あれほど重要な役職である大僧正だった人が、罪人を護送する役人に追い立てられて、都を今日限りに出て行く、逢坂の関を越えて僻地である東へと向かわれるお気持ちを思うと哀れなものです。大津の打出の浜に着く頃、比叡山の根本中堂の東にある文殊楼の軒端が白々として見えていましたが、再びそれを見ようとはされず、袖を顔に押し当てて涙に咽んでおられました。

山門には老僧・高徳の僧たちが数多くいらっしゃいましたが、澄憲法印は当時まだ僧都でしたが、あまりにも明雲との別れが名残惜しくて粟津までお見送りになられて、そこで暇を告げてお帰りになられました。明雲は澄憲の切実なまでの思いを感じて、長年心の奥に秘していた天台宗の奥義である一心三観を血脈相承として授けました。この法は、釈尊に付き従う波羅奈国の学者・馬鳴比丘、南インドの仏教学者の竜樹菩薩から、段階的に伝えられてきた秘法であり、今日の澄憲法印の情けに応えるような形で伝えられたものでした。やはり我が王朝は、粟粒のような辺境、悪徳で汚れた末世とは言われながらも、澄憲はこの秘宝を受け継いで、僧衣の袂を涙で濡らしながら都へと帰っていかれました、その直向きなお心の中はなんと尊いのでしょうか。

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