『歎異抄』の第十一条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十一条

一。一文不通(いちもんふつう)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議(せいがんふしぎ)を信じて念仏まふすか、また名号不思議(みょうごうふしぎ)を信ずるかといひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明(ぶんみょう)にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。

誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号(みょうごう)を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏のまふさるるも、如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土(じつほうど)に往生するなり。

これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎに、みずからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり二様(ふたよう)におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみてまふすところの念仏をも自行(じぎょう)になすなり。

このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢(へんじけまん)、疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)にも往生して、果遂(かすい)の願のゆへにつゐに報土(ほうど)に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

[現代語訳]

文字一つ読めない無学な同胞たちが念仏を唱えていると、お前は阿弥陀仏様の誓願の不思議な効力を信じて念仏をしているのか、あるいは南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏をしているのかと、驚かせるようなことを聞いてきて、二つの不思議さの違いについてはっきりと説明せずに、(いたずらに)人の心を惑わせる者がいます。このことは何度も繰り返して、心に留め置きながらその間違いを知っておく必要があります。

阿弥陀仏様は衆生救済(悪人正機)の誓願の不思議によって、誰でも覚えやすくて唱えやすい南無阿弥陀仏の名号を考え出されて、その名号を唱える者を必ず極楽往生させて上げようと約束なされたのです。まずは阿弥陀仏様の大いなる慈悲と誓願の不思議に助けられて生死の境目を脱出できると信じて、念仏を申すことができるのも、阿弥陀如来の計らいだと思えば、少しも自分自身の計らいが念仏に混じらないので、阿弥陀仏の本願の対象となって実際の極楽浄土へと往生することができるのです。

これは阿弥陀仏様の誓願を本当だと信じていれば、名号の不思議な力も自然と備わり、誓願と名号の不思議な力は一つであって、これらは異なるものではないのです。次に、自分自身の計らい(努力)を念仏に差し挟んで、善悪の二つについて善人であれば往生しやすくなり悪人であれば往生に支障が生じるという二つを分ける考え方がありますが、これは誓願の不思議な力を頼らずに、自分の心で往生の原因となる業を一生懸命に作ろうとする念仏であって、(他力本願ではない)自力の修行になってしまうのです。

この人は名号の不思議な力も信じていないことになります。信じていなくても怠けている人が行く辺鄙な浄土、猜疑心の強い人が行く胎内のような暗い浄土に行って、(暫くはそういった偽物の浄土に居ることになりますが)阿弥陀仏のすべての人間を極楽に往生させようという本願によって、最後には本当の極楽浄土に行くことができます。これが名号の不思議な力なのです。これはすなわち阿弥陀仏の誓願の不思議な力でもありますから、名号と誓願は本来一つのものなのです。

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