ウィルフレッド・ルプレヒト・ビオン(W.R.Bion, 1897-1979)

スポンサーリンク

ウィルフレッド・ルプレヒト・ビオン(W.R.Bion, 1897-1979)は、イギリス人建設部門の官僚であった父と家庭的で寛容な価値観を持った母との間に、当時イギリスの植民地であったインドで誕生しました。父親は、大英帝国統治下にあるインド国民議会において事務局長を務めた経歴を持つことから、W.R.ビオンはイギリスの植民地インドの上流階級の子息として育てられたと考えられます。ビオンは乳幼児期の時代をインド人の乳母の手によって養育されましたが、そのインド人の乳母は『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』というヒンズー教の神話説話や古典文学に関する教養を持っていて、ビオンにインド(東洋)の宗教や文化にまつわる話を聞かせることもあったといいます。

一般的に精神分析家というと、内面世界の探求と心理療法の実践に静かに没頭するイメージがあり、現実世界での積極性や行動力に余り秀でていないように思われがちです。しかし、ビオンはそういった紋切り型の精神分析家観に収まらない個性的な人物であり、彼の人生経験で特筆すべきことは、インドの支配階級であった官僚の父親の影響もあって、イギリス(大英帝国)に対する強烈な愛国心に基づく従軍経験があったということです。

ビオンは、帝国主義華やかなりし20世紀初頭の時代に、大英帝国の上流階級の一般的な教育方法にならって、8歳の時に親元を離れてイギリスの全寮制の寄宿学校に入学することになります。しかし、ビオンは親元を離れて進学した全寮制の学校で、将来、国家の中心的役割を果たす為のエリート教育に邁進することはありませんでした。ビオンは、従軍許可年齢に満たない年齢を誤魔化して、故国イギリスの為に第一次世界戦争に参戦する決意を固め、近衛戦車連隊に入隊を志願しました。

ビオンが入隊を許可された近衛戦車連隊は、カンブレー大司教区が置かれていたフランスのカンブレーでドイツ軍と戦闘状態になり、イギリス軍は奇襲攻撃を用いてドイツ軍を苦しませた。最終的にカンブレーをドイツ軍に奪回されるも、ビオンはこの大規模な戦車同士の戦闘で大きな勲功を上げて「殊勲十字章」という大英帝国の勲章を受章しました。ビオンは、第二次世界大戦にも陸軍軍医として戦場に赴き、シェルショックや外傷性神経症といった戦争神経症の兵士に、軍隊規律に反する民主主義的で個人主義的な集団精神療法を試みようとして軍医を解任されました。

生涯にわたって大英帝国という国家に対する忠誠と貢献を忘れなかったビオンは、思春期に獲得したこの勲章を大変名誉に思っていて、自らのことを殊勲十字章獲得退役陸軍少佐ウィルフレッド・ルプレヒト・ビオンと呼ばれることに強い自尊心と名誉の意識を持っていたと伝えられています。この数年間に及ぶ軍隊での共同生活の体験が、ビオンの精神分析的な集団力動(グループ・ダイナミクス)や集団精神療法の基盤となっています。ビオンは第一次世界大戦が終結してから、オックスフォード大学に戻って哲学の学位をまず取得します。オックスフォードでPh.D.の学位取得後に、更に医師の道を志してロンドン大学医学部へと進学し、卒業後に精神科医としてのキャリアを歩み始めます。

生物学的な理論に基づくクロルプロマジンを用いた薬物療法が確立する以前の精神医学分野では精神分析療法が中心だったが、ビオンは初めジョン・リックマンの教育分析を受けながら精神分析家としての技法と態度を身につけていきました。その後、内的対象関係と早期母子関係のファンタジー(幻想)を中心とした精神分析理論を構築したメラニー・クラインと出会い、彼女の理論と人格の影響を強く受けるようになっていきます。

ビオンはその臨床活動と研究生活の大半をイギリスのロンドンで行いますが、晩年はアメリカのカリフォルニア州へと移住して、人生の最期の時を自らが愛した故国のイギリスではなく精神分析が正に隆盛しようとしていた異国のアメリカで迎えることになります。

スポンサーリンク

ビオンの想定した集団の無意識と集団精神療法

メラニー・クラインの発達早期の無意識的幻想や対象関係論の立場に共鳴を受けたビオンは、クライン学派の精神分析研究所であるタヴィストック・クリニックで独自の無意識論、集団に適用可能な精神療法についての研究を進めました。ビオンは、ルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィ一般システム理論でいう『全体は要素の単純総和以上のものである』というテーゼを先取りして、人間集団をバラバラの個人(要素)が集まった単純な集合体以上のものであると考えました。

フロイトの精神分析運動の後継者と目され後に訣別したカール・グスタフ・ユング(C.G.Jung)は、人間の無意識にはフロイトのいう『個人的無意識』を越えた人類や民族に普遍的に共通する神話的モチーフ(宗教的モチーフ)のような『集合的無意識(普遍的無意識)』があると主張しました。ビオンはユングよりも更にユニークで画期的な無意識観を表明して、『集団自体が独自の意識及び無意識の領域を持つ』と考えたのです。ユングが人類全体に共通して生起すると想定した集合的無意識(collective unconsciousness)といえども、その所有者は個人でありその無意識内容は個人の精神内界に夢や想像を通して現れてくるのですが、ビオンは無意識の所有者として人間集団そのものを考えたところに特徴があります。

ビオンは、『個人内力動(個人の心的過程)』と『集団の無意識』は絶えず相互に作用して影響を与え合っていると考え、集団に帰属する個人の精神病理や心理状態はその集団の意識や無意識と切り離して考えることが出来ないと述べています。ビオンの集団精神療法の定義に従うと、集団の意識領域は『作業集団』と呼ばれ、集団の無意識領域は『基底的想定集団(基礎仮定集団)』と呼ばれています。

集団の無意識などを想定しない正統派の精神分析では、集団成員の個別的な行動は、強い意志を持って主導的なリーダーシップを発揮できる指導者の命令や指示によって起こると考えられていました。そして、集団に所属する成員は、『取り込み(introjection)』の防衛機制を用いて、自分に影響力を振るう指導者の理想的な人格や価値観を自分のものとして取り込んでいるとされます。『取り込み』で理想的な対象(指導者・リーダー)と自分を『同一化』するために、指導者(リーダー)に対する不満や反発が起こり難くなると推測されていました。

しかし、ビオンはそういった自我心理学的な集団力学やリーダーシップの説明に対して異を唱え、集団の構成員は指導者(リーダー)であっても従属者(メンバー)であっても、集団自身が持っている『基底的想定集団(基礎仮定集団)』の影響力のもとに置かれていると主張しました。

つまり、集団の構成員(メンバー)は指導者(リーダー)の持つ目的意識や理想状態を実現する為に、一方的に指導者の指示や命令に従属しているのではなく、リーダーもメンバーも集団自体が持つ『作業集団(意識状態)と基底的想定集団の力動的葛藤』に巻き込まれた結果、それぞれの判断や行動が起きているというのです。ビオンの集団観の基本理念は、集団そのものが持つ意識状態(作業集団)と無意識状態(基底的想定集団)の力動的葛藤に、集団構成員が強く巻き込まれて構成員の行動が規定されるという『集団の無意識の決定論』にあるといえます。

ビオンは基底的想定集団の基本原理は『一次過程(快感原則)』であるとして、基底的想定集団が優勢になり過ぎると、メラニー・クラインが分類した原始的防衛機制(分裂・投影同一視・取り入れ・理想化・脱価値化)が盛んに使われるようになり、非合理的で非現実的な精神病圏の精神現象が各メンバーに発現しやすくなると考えました。

基底的想定集団によって規定される集団の特徴には、『依存・闘争‐逃走・ペアリング』の3種類があります。『依存』を特徴とする集団とは、集団構成員の個々人が、絶対的な権力と優位性を持つカリスマティックな指導者に完全に依存して保護されたいと願っているような集団であり、こういった集団ではカリスマ性や野心や能力が強い個人が集団の指導者になろうとして活発な権力闘争を始めることになります。

集団の権力を巡るヘゲモニー争奪戦が激しさを増すと、集団内部は必然的に主流派(マジョリティ)と傍流派(マイノリティ)に分裂して、マジョリティは自らの指導や理想に従わないマイノリティを弾圧し排除していき、マイノリティは集団から逃走して離脱していきます。こういった段階にある集団の特徴を『闘争‐逃走』というキーワードで表現しています。

『闘争‐逃走』の特徴を持った人間集団はやがて権力闘争や排除的(抑圧的)な運動に疲労困憊してきて、信頼できる仲間や友人同士で密接な絆を結ぶ『ペアリング』の特徴を見せ始め、指導者の強力な指導体制で統括される『闘争‐逃走』集団はそういった弾圧・排除を行わない新たな指導者の登場を希求するようになっていきます。

こういった集団の無意識(基底的想定集団)の影響と幻想による原始的防衛機制の影響によって、集団力学(グループ・ダイナミクス)のメカニズムを説明しようとするビオンの理論構築は『集団精神療法の基礎』という論文に結実することになりますが、この論文執筆以後ビオンは集団精神療法の研究者としての第一線を退きメタ心理学研究に邁進することになります。

生気論(vitalism)を復古したビオンのメタ心理学

ビオンはメタ心理学の分野において、ルネ・デカルトやインマヌエル・カントの哲学を踏まえた難解な哲学的思索を展開し、個人の意識が外界にある事物や現象をどのように認識できるのかという認識論的次元の研究を深めました。精神内界において生じる『事象の意味=α要素』は言語化された感覚から生まれ、『事象の非意味=β要素』はカントが人間には認識不可能と考えた『直接的な物そのもの』として精神に侵入してきます。

機械論的自然観を前提としたルネ・デカルトや人間機械論を唱えたトマス・ホッブズのように、生命活動を身体の各器官・各組織が相互に作用し合うシステマティックな機械(物理現象・物質的複合体)と考える哲学的立場を『機械論』といい、それに対立する生命現象に非物質的な生物特有のエネルギー(生気)が働いているとする立場を『生気論(vitalism)』といいます。ビオンは『α機能論』において、α‐要素とβ要素の中間領域に生気を吹き込む機能としてα機能を想定しました。その為、二項対立的な機械論と生気論の立場のどちらに分類されるかというと、明らかに生気論(vitalism)の立場に立っていることになります。

言語化されたα要素(意味)でない意味を持たないβ要素は、精神機能(言語化機能=シニフィアンをシニフィエとして理解する機能)を介在しない『物そのもの=無意識的幻想』であり、人間に根源的な死や狂気の恐怖を感じさせます。その為、余りに長期にわたってβ要素の強い影響を受け続けると、その個人は精神病圏の言動を示すようになる危険があるとビオンは述べます。

こういったβ要素の精神内界への侵入による精神病的な恐怖を防衛する為に、私たちは内界と外界の間に接触防壁(contact barrier)と呼ばれる言語的認識や意味の理解の防壁を作り出すことになります。フロイトが無意識解明の王道と呼んだ『夢』も、ビオンにとっては、自我の精神的健康に脅威・危険をもたらす無意識的内容の侵入を選択的に食い止める『接触防壁(contact barrier)の1つ』でした。

ここまで述べてきたようなビオンのメタ心理学は、クラインの死の本能論を踏まえた発達論同様に観察事象を踏まえた自然科学的根拠が殆どありませんが、ビオン本人はフロイトの生物学的・物理学的な精神分析に対して、自己のメタ心理学を論理学的・化学的なものであると自認していたようです。

フロイトが自己の精神分析理論の概念や用語に、「神経学的興奮としてのリビドー」や「心的器官(精神装置)への備給」など神経生物学的な概念を持ち込んだように、ビオンも論理学・化学の専門用語や記号からのアナロジー(類似)として、α・βの要素及びφ・ψのニューロンといった独自の説明概念を考案していて、複雑な思考過程を経たメタ心理学の哲学的理論を構築しています。

ビオンはクラインの影響を受けており、内的対象関係から幻想的に生み出される内的現実性を、客観的な事物によって作られる外的現実性と同列に並べて、その現実から生み出される情動・感情の意味や内容を重視します。ビオンが精神病理学のメカニズムとして構想したのは、精神病的な混乱と発狂するような不安を人間にもたらす『意味を持たないβ要素(物そのもの・直接的知覚内容)』の精神内界への侵入です。しかし、哲学的な非意味のβ要素が、母親からの言語的説明や情緒的交流によってα要素へと変質して精神的な安定を得ることができるというビオンの理論的説明には『論理の飛躍・説明の非連続性』があり、現在でも十分にビオンの意図する論理や根拠が明らかになっているわけではないと考えられています。

しかし、とりあえず言えるのは、子どもの精神内界へのβ要素(精神病の原因・狂気への誘因)の侵入を食い止めるα機能とは、主に『母親の存在と母親の子どもへのアプローチ』であるということです。ビオンの精神分析では、子どもが自分の内面に受け容れきれない圧倒的な死の恐怖・発狂の不安としてのβ要素はいったん外部へ投射されると考えられています。

そして、その外部へ投射されたβ要素を、母親が言語的・共感的に受け容れて解釈して上げることが『α機能』としての効果を子どもにもたらし、β要素をα要素へと変質させるというのです。この時、β要素に内在している子どもの激しい情動や不安を『内容(contained)』といい、その『内容(contained)』を受け止めて危険性や不安性を取り除くα機能をもたらす母親・分析家を『容器(container)』と表現します。

スポンサーリンク
Copyright(C) 2004- Es Discovery All Rights Reserved