『自己愛の適応性・共感の必要性』に着目して自己心理学を提唱したハインツ・コフート(Heinz Kohut, 1913-1981)は、1913年5月13日にオーストリアの首都ウィーンで誕生した。父親はピアノの演奏に才能を示した音楽家フェリックス・コフート(Felix Kohut)、母親は性格特性にヒステリックな不安定性や衝動性を抱えたエルゼ・ランプル(Else Lampl) であり、ハインツ・コフートは比較的裕福なユダヤ人の家族に生まれた。
父親のフェリックスはハインツが生まれて間もなく第一次世界大戦に従軍したので、ハインツと父フェリックスが実際に接触して触れ合う機会は少なかったとされる。1歳から5歳までハインツは母エルゼと2人暮らしをしていたが、母親が性格の過度の偏りを持っていたことで、ハインツは自己愛が受け容れられない孤独感・疎外感を感じることが多かったと言う。
経済力のある家庭で一種の英才教育を受けていたハインツ・コフートは、1932年に19歳でウィーン大学医学部へと進学した。1938年(25歳)にウィーン大学で医学部の学位を取得したものの、ヒトラー総統率いるナチス・ドイツのユダヤ人に対する迫害が強まったので、1939年3月にウィーンからイギリスへと亡命した。コフートはウィーン大学医学部に在学中の1937年から1938年まで、アウグスト・アイヒホルン (August Aichhorn) から精神分析を受けていただけでなく、1938年6月4日にはウィーンからパリへと向かうオリエント急行の列車に乗ったジークムント・フロイトを見送って感銘を受けている。ユダヤ人だったフロイトも、ナチス・ドイツの過激化するユダヤ人迫害を避けて、フランスのパリを経由してイギリスのロンドンへと亡命する途中だったのである。
第二次世界大戦が勃発してイギリスの戦況が悪化し始めた1940年に、コフートは友人ジークムント・レバリー(Siegmund Levarie)のつてを頼って、アメリカのシカゴに渡りアメリカの市民権を1944年に取得している。コフートはシカゴ大学の精神神経科で神経学を専攻しながら、シカゴ精神分析研究所のクルト・アイスラー(Kurt Eissler) から教育分析の指導を受けていたが、1950年に精神分析家の資格を得ている。1944年にシカゴ大学医学部の助教授となり、1953年からはシカゴ精神分析研究所で後進を育成する教育スタッフの役割を果たすようになる。
ハインツ・コフートは死ぬ時までシカゴ精神分析研究所で精神分析の研究と実践を続けたわけだが、当初のコフートは正統派精神分析の理論や技法に忠実な分析家で、アメリカ精神分析協会の重責を担う立場にあった。1964年には、アメリカ精神分析協会の会長を務めており、国際精神分析協会の副会長の座にあったこともある。更に、優秀な正統派精神分析の理論に対して授与されるニューヨーク精神分析協会のハルトマン賞も受賞している。1960年代のコフートは、正統派の自我心理学派の有力者であったハインツ・ハルトマン (Heinz Hartmann) やフロイトの末娘で国際精神分析協会で大きな影響力を持っていたアンナ・フロイト (Anna Freud)と親しい交遊を持っていた。
S.フロイトの後継者という使命感を持っていたH.コフートであったが、1968年の国際精神分析協会の会長選に当選することはできず、1970年のシカゴ精神分析研究所の所長選挙にも落選してしまった。H.コフートは自己愛の発達・障害を中核に据えた独自の『自己心理学』の構築を目指すようになり、正統派精神分析の主流の理論との乖離(ズレ)が大きくなり、1970年に『自己研究会 (Self Conference) 』を結成している。
H.コフートは1968年の論文『自己愛性人格障害の精神分析的治療』の辺りから、自己愛性人格障害に関する強い研究意欲や知的関心を抱くようになっていた。1971年には『自己の分析』という自己愛性人格障害のパーソナリティ特性や治療論についての著作を発表していて、誇大な自己顕示(承認欲求)や他者への共感性の欠如、自己の特別視に注目している。
H.コフートは自己愛性人格障害(NPD:Narcissistic Personality Disorder)のクライアントに『融和した自己(cohesive self)』と『融和した対象(cohesive object)』を見出して、NPDにも自己愛転移という自己対象(self-object)を介在した感情転移が起こると考えた。正統派精神分析(自我心理学)では、他人に関心のないNPDのクライアントは『感情転移』を起こさないので、精神分析を適用することはできないとされていたが、H.コフートは自己対象を介した『自己愛転移』を取り扱うことで精神分析療法を適用することが可能だと主張した。
自己対象(self-object)というのは、客観的には自分と異なる他者(客体)であるが、主観的には自己の延長として認識されるような親密な他者のことを言う。自己対象とは、自分と同等に大切に感じられるような親しい他者のことであり、この自己対象を経由した『自己愛転移(自己対象転移』によって精神分析を用いた心理治療の有効性が生まれてくる。
自己愛性人格障害の性格構造には、幼少期の生活体験によって形成された『太古的な誇大自己』や『理想化された太古的対象』への固着と退行が見られる。この『誇大性』や『理想化』によって、現実の自分を実際以上に価値(力)のあるものと認識するような自己認知の歪みが起こり、自己愛を適正なレベルに調整することが難しくなる。H.コフートは、自己愛性人格障害の転移分析に力を入れたが、コフートが基本的な自己対象転移として定義したのが『理想化転移(idealizing transference)』と『鏡転移(mirror transference)』であり、これらはそれぞれ『理想化された親イマーゴ』と『誇大自己』という発達ラインに対応した転移である。
H.コフートは、S.フロイトが未熟で病的な性倒錯につながるとした『成人の自己愛(二次性ナルシシズム)』にも、『健全な自己愛』と『病的な自己愛』の二つのベクトルがあると考えた。S.フロイトは自己愛から対象愛に転換する『本能変遷の精神発達』を重視しており、自分を愛して他者に関心が持てない『自己愛(二次性ナルシシズム)』を、生殖活動(性器統裁)や社会適応を阻害する病的な感情(自閉的なパーソナリティ)だと見なしていた。H.コフートの自己愛は『自分に対する愛』と『自己対象(大切な他者)に対する愛』の双方を含むので、必ずしもフロイトが想定したような自分自信だけを愛する病的な愛情などではなく、『健全な自己愛』を発達させることによって自分に自信を持って他者とコミュニケーションできるようになっていく。
H.コフートは対人関係を円滑にして社会適応を促進していく『健全な自己愛』と、他者の尊厳・価値を否定して自己中心的で不適応な言動(誇大妄想性)を強めていく『病的な自己愛』とを区別した。健全な自己愛のもたらす作用とは『自己存在(自己能力)の積極的な肯定』や『理想化と関係する自尊心(自信)の強化』であり、コフートは誰もが持つべき『自己肯定感(自尊心)の基盤』として自己愛の発達を捉えていた。精神的ストレスや他者との衝突、深刻な挫折、自尊心の傷つきなどを乗り越えて、自分に対する自信と未来の希望を失わずに生きていくためには、『自己愛の発達』が必要不可欠なのである。
H.コフートの自己愛の発達理論の前提にあるのは、人間は誰もが発達早期に受けた心理的な傷つき(欲求充足の挫折)を抱えているという『欠損モデル(defect model)』である。『欠損モデル』とは、両親からの愛情や保護(世話)が無ければ生きていけない乳幼児の時期に、『幻想的な母子一体感』や『幼児的な全能感』が打ち破られて自己愛(自尊心)の欠損が生じるというモデルである。すべての人間は乳幼児期に、両親に対する何らかの欲求不満や一人にされている時の孤独感などによって『欠損』を負うことになる。そして、自己の不完全性や無力感を認識させられる『発達早期の欠損の体験』こそが、理想化や誇大性を求める『自己愛の起源』になるのである。
H.コフートは、『中核自己(nuclear self, 私が私であるという自意識)』の自己愛の発達過程として、『誇大自己(grandiose self)』と『理想化された親イマーゴ(idealized parent imago)』という二つの発達ラインを想定した。欠損モデルに基づく中核自己(自我意識)は、『向上心』と『理想』という目指すべき二つの極(方向性)を持っているので『双極自己(bipolar self)』として理解することができる。
誇大自己(grandiose self)の発達ラインは『向上心』の極を目指して発達していくが、理想化された親イマーゴ(idealized parent imago)の発達ラインは「理想」の極を目指して発達していく。この双方の発達ラインにおいて、『正常・健全な自己愛』の発達を阻害するような外傷体験や愛情剥奪(自己の脱価値化)が起こると、他者の存在価値を認識できない『自己愛性人格障害』の発症リスクが高まることになる。
『共感的な親(反応性の良い温かい母親)』の養育によって、『誇大自己(grandiose self)』の自己愛の発達は成功しやすくなり、現実原則(社会生活)に適応しやすい成熟した中核自己(自尊心・向上心の基盤)が獲得されることになる。反対に、『非共感的な親(反応性の乏しい冷たい母親)』の悪影響を受けると、『誇大自己』の自己愛の発達に問題が起こりやすくなり、自己中心的な快楽原則に支配された未成熟な中核自己(自己顕示欲が過大な傲慢さ・横柄さ)が獲得されやすくなる。
非共感的で温かみ・優しさの乏しい親は、子どもの心的構造の欠損(心的な外傷)を大きくする恐れがあり、子どもの精神内界で自己表象の『断片化(fragmentation)』が起こって、人生の理想や人格の目標が分からなくなってしまう。『断片化(fragmentation)』が起こると、現実適応能力や自己肯定感が極端に低下して、自己防衛のための自己愛が過剰になり他者に共感することが出来なくなるので、誇大自己に支配された自己愛性人格障害を発症しやすくなるのである。
『理想化された親イマーゴ(idealized parent imago)』の発達ラインでは、親の表象(イマーゴ)や自己対象を理想化して同一化しようとするが、この過程で『最適な欲求不満(optimal frustration)』を経験すると、正常な精神機能の発達に欠かせない『変容性内在化(transmuting internalization)』が起こる。変容性内在化というのは、現実の生活体験によって理想化されていた親(自己対象)も不完全な存在であることに気づき、親が果たしてくれていた役割・機能を段階的に自分が内在化(獲得)していくということである。
発達早期の親が非共感的な反応を示して、子どもを拒絶したり虐待したりすると、子どもは『最適な欲求不満(optimal frustration)』を経験できずに、自己対象である親の理想化に失敗することになる。これは、自己を心理内面で安定的に支えてくれる『対象恒常性の確立(自己対象のイメージの確立)』ができないということにつながり、ストレス耐性や孤独耐性が極端に低くなって、現実的な社会生活・対人関係に適応するのが困難になってしまうことがある。
『理想化された親イマーゴ(idealized parent imago)』の発達過程で何らかの外傷体験(トラウマ)を受けたクライアントは、『心的構造の欠損』を補償するために分析家(治療者)を万能の自己対象(親の代替)と見なす『理想化転移(idealizing transference)』が起こりやすくなる。精神分析のセッションを通して分析家が万能な存在ではないことに気づけば、『変容性内在化』が進展して分析家と自己に対する適切な評価と対応ができるようになってくる。理想化転移というのは『理想化された親イマーゴ』が精神分析(心理療法)の場面で活性化されたものであり、鏡転移というのは『誇大自己』が精神分析(心理療法)の場面で活性化されたものである。
鏡転移(mirror transference)とは『欠損した自己愛』に完全性と強力性を取り戻そうとする誇大自己が活性化された転移であり、コフートは『融合転移(merger transference)・双子転移(twinship transference)・狭義の鏡転移』という3つの鏡転移の存在を仮定している。『融合転移(merger transference)』というのは、クライアントが自己と他者を混同して同一化する最も太古的な転移の形態であり、クライアントは分析家(治療者)の心理・行動を完全にコントロールできると錯覚することになる。
『双子転移(twinship transference)』というのは融合転移がやや緩和された転移であり、クライアントは分析家(治療者)を自分と非常に良く似た双子(同類)のような存在と感じて、自分の感情を同朋意識の元に投影することになる。双子転移でも融合転移に近い形で、相手が自分と同じような感情・考えを持っていて同じような行動を取ることが期待されている。
『狭義の鏡転移』は最も治療可能性がある転移であり、クライアントは自己と他者(分析家)の境界線がある程度しっかりとしていて、誇大自己の欲求や優越感を満たすような反応を分析家(治療者)に期待することになる。この際に、適度なレベルでクライアントの自尊心や誇大自己の欲求を満たしてあげることで、過剰になっている自己愛・自尊心を調整できる可能性が高まってくるのである。S.フロイトは人間の正常な精神発達過程として『自体愛→自己愛→対象愛(他者への愛)』を考えたが、H.コフートは健全な自己愛(自尊心)の発達の重要性に配慮して『自体愛→自己愛→成熟した自己愛(自己対象との関係性)』という発達ラインを新たに提起した。
H.コフートの自己心理学の理論と実践は、『自己の分析(1971年)』『自己の修復(1977年)』『自己の治癒(1984年)』という三部作にまとめられている。自己心理学の独自のスタンスを定立したのが『自己の修復』であり、自我心理学の自我構造論(エス-自我-超自我)に依拠した心理モデルを捨象して、新たな自己モデル(広義の自己)を呈示したのが『自己の治癒』である。H.コフートは自己心理学で主に問題とするのは、自我構造(心的装置)の一部として概念化されている『狭義の自己(従来の自我に類似した心的装置)』ではなく、心理世界の中心にあって主観的経験を構成する相対的現象の『広義の自己』であるとしている。
生後2歳頃までに、発達早期の母子関係における相互作用(コミュニケーション)を通して『中核自己(nuclear self)』が形成されるが、中核自己の構成要素には『誇大自己(向上心)・理想化された親イマーゴ(理想)・技能や才能』があるとされている。
人間は『向上心』によって行動が動機づけられ、『理想』によって目指すべき目標が設定されるという『双極性自己(bipolar self)』としての特徴を持つが、健全な精神発達が実現するためには『安定した適度な理想・規範となる自己対象(親)の存在』が必要になってくる。自己の野心や理想を投影する自己対象との相互関係によって、『現実的な向上心・現実的な理想』を獲得していくことが、誇大(過剰)ではない健全な自己愛の発達には欠かせないのである。
自己の構成要素を『向上心・理想・技能』と考えると、鏡転移は『傷ついた向上心の極』と関係しており、理想化転移は『傷ついた理想の極』と関係しているが、双子転移は『傷ついた技能・能力』と関係している。自己愛の欠損や断片化の不安を実感している人間は、鏡転移によって『自己対象の承認・肯定』を求め、理想化転移によって『自己の理想状態を受容してくれる自己対象』を求め、双子転移によって『自分とそっくりの自己対象による安心感・信頼感』を求めているのである。
自己愛の発達理論や自己愛性人格障害の治療技法の開発に生涯を捧げたH.コフートは、分析家(治療者)の『共感的-内省的スタンス』を非常に重視して強調したが、こういった共感的な理解や対応を深化させることによって、変容性内在化(精神的自立)が進行し自己評価の適切な調整ができると考えていた。三部作の発表によって自己心理学派を確立したハインツ・コフートは、1981年10月8日に治療不能な末期がんのため、68歳で死去している。
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