『中庸』の書き下し文と現代語訳:13

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儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

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[白文]

右第十六章

子曰、鬼神之為徳、其盛矣乎。視之而弗見、聴之而弗聞、体物而不可遺、使天下之人、齋明盛服、以承祭祀、洋洋乎、如在其上、如在其左右。詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。夫微之顕、誠之不可掩、如此夫。

[書き下し文]

右第十六章

子曰く、鬼神の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども(みれども)見えず、これを聴けども聞こえず、物を体(たい)して遺すべからず、天下の人をして齋明盛服(さいめいせいふく)してもって祭祀を承け(うけ)しめ、洋々乎(ようようこ)としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し。詩に曰く、神の格る(いたる)、度る(はかる)べからず、矧んや(いわんや)射るべけんやと。それ微(び)の顕(けん)にして誠の掩う(おおう)べからざる、かくの如きかな。

[現代語訳]

先生がおっしゃった。鬼神の徳というのは盛大なものだな。鬼神を見ようとしても形がないので見ることができず、その声を聞こうとしても聞くことができないのだが、全ての物は鬼神によって形態を与えられておりその例外はないのだ。天下の人を精進潔斎させて礼服を着させて祭祀を行わせるが、鬼神は大きな存在感があるので自分の上にいるような、あるいは左右にいるような感じがしてしまう。『詩経 大雅・抑』の篇には、鬼神が至るのはいつのことなのか推測することができない、ましてや鬼神を厭ったり無視するようなことはできないと書かれている。鬼神は微なるものが万物を生成させる顕になったものであり、鬼神の徳である誠は人間が覆い尽くせるものではない、鬼神とはこのようなものなのである。

[補足]

怪力乱心を語らないと言われている孔子が、珍しく『鬼神(神・死者・霊魂)』について語った部分であるが、ここでは無形である鬼神の『徳』、すなわち『万物の生成・万物に対する形態の付与』について説明されている。鬼神はそれ自身は形を持たないので目で見ることはできないし、声を出すこともないのでその声を聞くこともできないのだが、『目に見えない霊魂・神・死者』に対する畏敬や崇拝の念は人類におよそ共通するものである。『中庸』においても、鬼神の存在感の偉大さ・普遍性について書かれており、目に見えない鬼神が自分の上にも左右にもいつも存在しているかのように感じてしまうとしている。

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[白文]

右第十七章

子曰、舜其大孝也与。徳為聖人、尊為天子、富有四海之内、宗廟饗之、子孫保之。

[書き下し文]

右第十七章

子曰く、舜はそれ大孝(たいこう)なるか。徳は聖人なり、尊は天子なり、富は四海の内を有ち(たもち)、宗廟(そうびょう)これを饗け(うけ)、子孫これを保つ。

[現代語訳]

先生はおっしゃった。古代の聖人の舜は大孝というべきだろうか。その徳は正に聖人であり、その尊敬すべきところは正に天子である。舜の富は四海のうちの領域を保つのに十分であり、先祖の廟は天子の祭祀を受けており、子孫はこの富と宗廟を良く守っている。

[補足]

尭から皇位を禅譲された古代の聖人君子である“舜”を題材にして、儒教における“孝”の徳(親を喜ばせる子の徳と祖先崇拝の祭祀・廟)について分かりやすく解説している部分である。儒教は『親から子への世代の連続性・伝統的な文化規範』を守ることを重要視して、自分をこの世に生み出してくれた親に対する孝行・忠節・感謝を説く『祖先崇拝の宗教』としての側面も強く持っていた。

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[白文]

右第十七章

故大徳必得其位、必得其禄、必得其名、必得其寿。故天之生物、必因其材而篤終焉。故栽者培之、傾者覆之。詩曰、嘉楽君子、憲憲令徳、宜民宜人、受禄于天、保佑命之、自天申之。故大徳者必受命。

[書き下し文]

右第十七章

故に大徳は必ずその位を得、必ずその禄を得、必ずその名を得、必ずその寿を得る。故に天の物を生ずる、必ずその材によって篤くす。故に栽えたる(うえたる)者はこれを培い、傾く者はこれを覆す。詩に曰く、嘉楽(からく)の天子、憲々(けんけん)たる令徳(れいとく)、民に宜しく(よろしく)人に宜し、禄を天に受く、保佑(ほゆう)してこれに命ず、天よりこれを申し受けぬと。故に大徳は必ず命を受く。

[現代語訳]

そのため、大徳のある者は、必ずその位置を得、必ずその禄(収益の源)を得、必ずその名声を得、必ずその長き寿命を得ることになる。そのため、天が万物を生じる時には、必ずその素材・性質・本質の特徴を生かして強めるということになる。故に、植えたものはその植物の生長が促進するように培い、傾いているものがあればこれを転覆させようとする。『詩経 大雅仮楽』の篇では、祝うべき楽しむべき君主には堂々とした美徳があり、民草に良くして人民にも良くする、天子として天からの禄を受けることができ、天はその君子を守って命令する、この天子となるべき天命を受けよと。そのため、大徳のある君子は、必ず天子となるべき天命を受けることになるのである。

[補足]

儒教の徳治主義の精髄について述べた章であり、古代の聖人君子は『大徳者』であったからこそ、天子となるべき『天命』を拝受することになったのだという。大徳者は天の保護・佑助を受けているから、『地位・富・名声・寿命のすべて』を必然的に得ることができ、舜は110歳という長寿を謳歌することができたのである。儒教における天子(皇帝)が『武力の覇者』ではなく『有徳の王者』であるべき由縁をここでは説いている。

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