『論語 子罕篇』の書き下し文と現代語訳:1

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の子罕篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の子罕篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]1.子罕言利、与命与仁。

[書き下し文]子、罕(まれ)に利と命と仁を言う。あるいは、子、罕に利を言う。命と与(とも)にし仁と与にす。

[口語訳]先生(孔子)はほとんど、利益と運命と仁について語られなかった。あるいは、先生はほとんど利益について語られなかった。運命と仁徳に関することだけを語っていた。

[解説]孔子は利害得失に従って功利的に行動を決定することを『小人の行い』として嫌い、仁徳(他者への思いやり)と天命(天に下された使命)によって自己の行動を決しようとした。その為、弟子に対しても、どうすれば儲かりどうすれば損をするかというような直接的な利益の問題について余り語らなかったのである。孔子の主要な人生課題は『仁徳』と『天命』に据えられていたのであろう。

[白文]2.達巷党人曰、大哉孔子、博学而無所成名、子聞之、謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執御乎。

[書き下し文]達巷党(たつこうとう)の人曰く、大(だい)なるかな孔子、博く学びて名を成す所なしと。子、これを聞き、門弟子に謂いて曰く、吾何をか執らん(とらん)、御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか、吾は御を執らん。

[口語訳]達巷(たつこう)集落の人が言った。『偉大なお人だな、孔先生は。幅広く学問をされているのに、特定の専門分野に偏ることがないのだから(特化した学問・訓練で立身出世をしないのだから)。』これを先生が聞いて、門弟たちにおっしゃった。『さて、私は何を専門にするかな?御者になろうか、それとも、射手になろうか。私は御者になろう。』

[解説]孔子が弟子に向けてユーモラスに、『博学な万能人としての自己』を語っている章である。孔子は、特定分野に抜きん出た専門家(スペシャリスト)として出世を図るのではなく、ゼネラリストとして社会全体を悠々と鳥瞰する学問の道を好んでいたという。良くも悪くも、専門や偏りのないバランスの良さ、中庸の徳が孔子という人物の魅力を形作っていたのであろう。

[白文]3.子曰、麻冕礼也、今也純倹、吾従衆、拝下礼也、今拝乎上泰也、雖違衆、吾従下。

[書き下し文]子曰く、麻冕(まべん)は礼なり。今、純(いと)なるは倹(けん)なり、吾は衆に従わん。下に拝するは礼なり。今上(うえ)に拝するは泰れる(おごれる)なり。衆に違うと雖も、吾は下に従わん。

[口語訳]先生が言われた。『麻の冠は礼の道に依拠している。今の風潮で、絹の冠をしているのは倹約のために過ぎない。しかし、冠の礼については、私は大衆の方法(絹の冠)に従う。君主に招かれれば、宮殿の下で拝礼するのが礼である。今の風潮で、宮殿の上で拝礼するのは奢り高ぶっているのである。この拝礼の方法については、私は大衆の方法と異なっていても、宮殿の下で拝礼をしたいと思う。』。

[解説]孔子が『古来からの周礼』と『今風の礼』を比較して、その許容限度を示したものである。孔子は、大衆が『倹約のために仕方なくする絹の冠』については認めても、『傲慢のためにする宮殿の上での拝礼』は認めなかったのである。

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[白文]4.子絶四、毋意、毋必、毋固、毋我。

[書き下し文]子、四つを絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし。

[口語訳]先生は四つの事柄を完全に絶ち切っていた。私意を働かさず、強請をせず、固執もせず、我を張らなかったのである。

[解説]儒教の始祖である孔子は、仏教の始祖である釈迦(ゴータマ・シッダールタ)にも似て、『諸法無我』のような境地にも達していたようである。個人的な欲求や強制というものを孔子は遠ざけており、何か特定の事柄に対して絶対に譲らないというような固執を見せることも殆どなかった(『礼』や『仁』など重要な徳目を除いてはこだわりがなかった)。

[白文]5.子畏於匡、曰、文王既没、文不在茲乎、天之将喪斯文也、後死者不得与於斯文也、天之未喪斯文也、匡人其如予何。

[書き下し文]子、匡(きょう)に畏わる(おそわる)。曰く、文王既に没す、文は茲(ここ)にあらざらんや。天の将に斯の(この)文を喪ぼさんとするや、後れ(おくれ)死す者、斯の文に与る(あずかる)ことを得ざらん。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)それ予(われ)を如何(いかん)せん。

[口語訳]先生が匡の町で襲われた時に言われた。『周の文王は既に亡くなられた。文王の時代の礼節や仁徳はここ(私の胸)にあるではないか。天が、私の内面にある礼節や仁徳を滅ぼそうとするならば、私の後に死す若い人たちは、この周王の文化や礼節の恩恵に預かることが出来なくなってしまう。天がまだ私の内面にある文化・礼節を滅ぼさないのであれば、匡人ごときが私に何をすることができるのだろうか?(いや、何もすることはできない)。』

[解説]匡の町の郊外で孔子一行が襲撃を受けた時に、孔子が弟子達を安心させるために語った言葉とされる。周の文王とは周の開祖である武王の父であり、周の礼制や文化、政治の基盤を整えた人物である。孔子はその文王の文化や礼制を自分の内面へと継承していると自負しており、天命が自分を見放さない限りは、匡人の襲撃ごときで生命を落とすことはないと確信していた。普段は、そういった自信家ぶりを周囲に見せない謙虚な孔子であるか、襲撃を受けた儒教集団の窮地を察して、パニックになった門弟たちの精神を安定させ勇気を奮い起こす言葉を語ったのであろう。

[白文]6.大宰問於子貢曰、夫子聖者与、何其多能也、子貢曰、固天縦之将聖、又多能也、子聞之曰、大宰知我者乎、吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也。

[書き下し文]大宰(たいさい)、子貢に問いて曰く、夫子(ふうし)は聖者か、何ぞそれ多能なる。子貢曰く、固(もと)より天の縦せる(ゆるせる)将聖(しょうせい)にしてまた多能なり。子これを聞きて曰く、大宰は我を知れる者か。吾少く(わかく)して賤しかりき。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子多ならんや、多ならざるなり。

[口語訳]呉の大臣(総理)が子貢にお尋ねになった。『先生は聖人であられるのか?それにしては、どうしてあんなに多才・多芸なのか?』子貢がお答えした。『初めから先生は天が認めた聖人ですが、聖人であるだけでなく多才・多芸なのです。』。それを聞いて先生が言われた。『呉の大臣は私のことをよく知っているようだ。私は若い時には卑賤な身分だったので、色々な小さなつまらないことが得意になったのだ。君子は多芸であるべきなのだろうか、いや、多芸であるべきではないだろう。』

[解説]春秋時代における聖人や君子(貴人)は、細々とした雑務をしないこともあり、日常的な小さな能力や技術に優れていないことが多かった。呉の大臣は、『孔子は些事を超越した聖人と言われているが、なぜ、色々な雑事に優れた多芸な人なのだろうか?』と少し意地悪な質問をしており、それに対して弟子の子貢は『孔子は天命を帯びた大聖人であり、かつ、日常的な仕事が何でもできる多芸な人物なのだ』と曖昧な返答を返している。それに対して孔子は、自分自身の過去の苦労や貧窮を何ら恥じることなく、『自分は若い頃に貧しくて身分が低かったので、必然的に多芸になったのだ』と答えを返しており、伝統的な貴人や聖人の図式に自分を当てはめることなどにこだわっていないのである。自分を実際以上の人物と見せるような見栄や虚勢を張らないということも、君子としての徳の一つであろう。

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[白文]7.牢曰、子云吾不試、故芸。

[書き下し文]牢(ろう)曰く、子云う(のたもう)、吾試いられず(もちいられず)、故に芸ありと。

[口語訳]琴牢(きんろう)が言った。『孔先生は、私は世間(官職)に用いられなかったために多芸になったのだとおっしゃっていた。』

[解説]前の章と関連した部分で、孔子は若かりし頃に就職(官吏登用)に恵まれず経済的にも貧しかったが、それを恥じることもなかったしそれによって腐ってしまうこともなかったのである。過ぎ去ってしまった過去の不幸や屈辱に捕われすぎないということも、『前向きで建設的な人生』を送るために必要なことである。

[白文]8.子曰、吾有知乎哉、無知也、有鄙夫、来問於我、空空如也、我叩其両端而竭焉。

[書き下し文]子曰く、吾知ることあらんや、知るなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来りて(きたりて)我に問う、空空如(こうこうじょ)たり。我その両端を叩いて竭くす(つくす)。

[口語訳]先生が言われた。『私は何か知っていることがあるだろうか、いや、何もない。田舎の人物がやってきて私に質問し、私がそれに正直にありのままを答えたとする。私は、質問の初めから終わりまで丁寧に問いただして答えているだけだ。』

[解説]孔子は自分自身を博学で有能な人物だという自尊心のようなものを明確には持ち合わせておらず、『人から聞かれた質問』の意味や意図を丁寧に問いただして適切な答えを返すということを得意としていた。『質問者の意図や疑問』に合わせて回答を与えていたので、周囲にいる人たちは孔子を博学で情熱的な賢者と見なすようになっていったのである。

[白文]9.子曰、鳳鳥不至、河不出図、吾已矣夫。

[書き下し文]子曰く、鳳鳥(ほうちょう)至らず、河(か)、図(と)を出ださず。吾已んぬるかな(やんぬるかな)。

[口語訳]先生はおっしゃった。『吉祥をもたらす鳳凰の鳥をやってこない。黄河から叡智をもたらす図書を背負った神亀(しんぎ)は出てこない。私はもうどうしようもない。』

[解説]古代中国では、良い出来事が起こる予兆(吉祥)として鳳凰や神亀の到来が考えられており、鳳凰や神亀が出現すれば戦国乱世を平定する聖王が誕生するという信仰がもたれていた。孔子は、晩年になっても春秋時代の戦乱と災厄を鎮静できない自らの無能と不運に絶望してしまい、このような心中を吐露したのであろう。高邁な理想を抱き、卓越した才能を持ち、賢明で勇敢な門弟を多く手に入れた孔子であったが、孔子は遂に王者にも聖者にも成りきれず、社会の混乱や民衆の苦悩を解決することが出来なかったのである。孔子の理想の高さと現実の厳しさ、天命の限界などを感じさせる章であり、晩年の孔子の如何ともしがたい無念さが滲み出ている。

[白文]10.子見斉衰者冕衣裳者与瞽者、見之雖少必作、過之必趨。

[書き下し文]子、斉衰(しさい)の者と冕衣裳(べんいしょう)の者と瞽者(こしゃ)とを見れば、これを見て少し(わかし)と雖も必ず作つ(たつ)。これを過ぐれば必ず趨る(はしる)。

[口語訳]先生は、粗い麻布の喪服を着た人と高官のきちんとした礼服を着た人と、盲目の薬師に会った時には、相手の年齢が若くても必ず席から立ち上がり、相手を追い越す時には(礼の表現として)小走りになられた。

[解説]孔子が、礼節を尽くした相手として、粗い麻布の喪服をつけて「3ヶ月以上」の喪に服している人、高位の貴族で整然とした衣冠礼服を身に付けている人、学識のある盲目の薬師を挙げている。

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