孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の子罕篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の子罕篇は、以下の3つのページによって解説されています。
[白文]11.顔淵喟然歎曰、仰之弥高、鑽之弥堅、瞻之在前、忽焉在後、夫子循循然善誘人、博我以文、約我以礼、欲罷不能、既竭吾才、如有所立卓爾、雖欲従之、末由也已。
[書き下し文]顔淵、喟然(きぜん)として歎じて(たんじて)曰く、これを仰げば弥(いよいよ)高く、これを鑽れば(きれば)弥堅く、これを瞻る(みる)に前に在れば、忽焉(こつえん)として後(のち)に在り。夫子、循循然(じゅんじゅんぜん)として善く人を誘う。我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷まん(やまん)と欲すれども能わず(あたわず)。既に吾が才を竭くす(つくす)。立つところありて卓爾(たくじ)たるが如し。これに従わんと欲すと雖も由る(よる)末き(なき)のみ。
[口語訳]顔淵がため息をついて言った。『孔先生の徳性は、仰げば仰ぐほどに高く、切り込もうとすればするほどに堅いように思われる。前にいるかと思えば、いつの間にか後ろに立っておられる。先生は順序よく人を導いてくださる。私に書籍を読ませて見聞を広めさせ、礼を実践しながら知識を集約してくださったのだ。私は何度も学問をやめてしまおうと思ったが、結局、やめることができなかった。自分の才能は枯渇しきったようにも感じるが、先生は遥かな高みで毅然としてそびえ立っておられる。先生に従ってついていきたいと思うのだが、どうすれば良いのか分からないのだ。』
[解説]学問第一と孔子から賞賛されていた顔淵が、孔子の教育方法の素晴らしさと孔子の仁徳や人間性の偉大さについて述べた章であり、顔淵は孔子亡き後にどのようにして師の道を駆け上がっていけば良いのか懊悩している。
[白文]12.子疾病、子路使門人為臣、病間曰、久矣哉由之行詐也、無臣而為有臣、吾誰欺、欺天乎、且予与其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎、且予縦不得大葬、予死於道路乎。
[書き下し文]子、疾(やまい)、病(へい)なり。子路、門人をして臣たらしむ。病、間(かん)あるとき曰く、久しいかな、由の詐り(いつわり)を行うや。臣なきに臣ありと為す。吾誰をか欺かん、天を欺かんか。且つ予(われ)その臣の手に死せんよりは、無寧(むしろ)二三子(にさんし)の手に死せんか。且つ予縦い(たとい)大葬を得ざるも、予道路に死なんや。
[口語訳]先生のご病気が重くなっていた。子路が門人を孔子の家臣に見せかけて手伝いをさせた。ご病気の症状が少し和らいだ時、先生が言われた。『お前が偽善を行おうとする癖は、随分と長いものになるな。家臣がいないのに家臣がいるように形だけ見せかけている。それによって私は誰をだまそうとするのだろうか?天をだますことができるだろうか?それに、偽者の家臣に見られて死ぬよりは、むしろお前ら数人の弟子に看取られて死ぬほうが良い。私は譬え立派な葬式をしてもらえなくても、道路で野垂れ死にするようなことはないだろう。』
[解説]孔子の病状が重篤になったことを聞いて、子路は孔子に大夫(たいふ)並の礼遇をして上げたいと思い、自分の門弟を孔子の家臣へと仕立て上げようとした。それを見破った孔子は、既に士大夫(高級官吏)ではなくなっている自分に、形式だけの偽者の葬儀や家臣は必要ないとして、自分や天を欺瞞しようとする子路を愛情を持って叱ったのである。孔子は豪勢な権威のある葬式などを望んでいるのではなく、自分を本当に敬愛してくれる人たち、自分の死を悲しんでくれる人たちに看取られて死の瞬間を迎えたかったのであろう。
[白文]13.子貢曰、有美玉於斯、薀※賣※而蔵諸、求善賈而沽諸、子曰、沽之哉、沽之哉、我待賈者也。
[書き下し文]子貢曰く、斯(ここ)に美玉あり、賣(ひつぎ)に薀めて(おさめて)諸(これ)を蔵(ぞう)せんか。善賈(ぜんこ)を求めて諸を沽らんか(うらんか)。子曰く、沽らんかな、沽らんかな、我は賈(こ)を待つ者なり。
[口語訳]子貢が質問をした。『ここに綺麗な宝石があるとします。箱に入れてしまいこんでおくべきでしょうか?それとも、良い商人を見つけて売ったほうがいいでしょうか?』。先生がお答えになられた。『売ったほうがよい、売ったほうがよい。しかし、私は店で買い手を待ってから売るだろう。』
[解説]『宝石の売買』と『仕官のやり方』をメタファーのように重ね合わせて説いている部分である。才能と意欲のある人材(宝石)を、子貢は自分自身で進んで君主(商人)に売り渡そうとするが、孔子は、将来有為な人材(宝石)を、安売りせずに君主(商人)からの招聘(到来)を待って売れば良いではないかと答えているのである。孔子は、自分自身を積極的に君主や官吏に売り込む『猟官運動』にはどちらかというと批判的であったとも言われる。
[白文]14.子欲居九夷、或曰、陋如之何、子曰、君子居之、何陋之有。
[書き下し文]子、九夷(きゅうい)に居らんことを欲す。或るひと曰く、陋しき(いやしき)ことこれを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋しきことやあらん。
[口語訳]先生が東方の未開蛮族の国である「九夷」に移住なさろうとされた。ある人が言われた。『文明のない賤しいところであるがどうであろうか?』。先生はおっしゃった。『君子がそこに居住すれば文明や学問の教化が自然に進みますから、どうして文明のないことが問題になるでしょうか?いや、ならないでしょう。』
[解説]中国大陸における徳治主義の実現に絶望した晩年の孔子は、東方海上にあるという九夷の国を目指して移住しようとしたが、最終的に断念した。九夷の国は未開の蛮族が住むと考えられていた9つの国のことで、『後漢書』などにその記載が認められる。
[白文]15.子曰、吾自衛反於魯、然後楽正、雅頌各得其所。
[書き下し文]子曰く、吾衛より魯に反り(かえり)、然る後に楽(がく)正しく、雅頌(がしょう)各(おのおの)その所を得たり。
[口語訳]先生がおっしゃった。『私が衛から魯に帰国して、その後に音楽が正しく演奏されるようになり、雅・頌それぞれが正しいあるべき場所に落ち着いた。』
[解説]孔子は流浪した中原の国である衛や鄭で、『詩経』に基づく正しい古典音楽の配列と調子を学んだ。その為、紀元前484年に孔子が魯に帰国してから、魯において正しい音楽の演奏が復活することになったのである。
[白文]16.子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不為酒困、何有於我哉。
[書き下し文]子曰く、出でては則ち(すなわち)公卿(こうけい)に事え(つかえ)、入りては則ち父兄に事う。喪の事は敢えて勉めずんばあらず、酒の困れ(みだれ)を為さず、我に於いて何かあらんや。
[口語訳]先生が言われた。『外に出れば公や卿のような身分の高い人たちにお仕えし、家に入れば父や兄など目上の人に奉仕する。葬式の服喪には懸命に努めるし、酒を飲みすぎて悪酔いすることはない。それらのことは私にとって何でもないことだ。』
[解説]孔子が君主や父兄に仕える『忠孝』の道の基本を説き、葬儀や飲食のマナーなど『礼節』の道の原則を語った部分であり、これらのことは君子であれば当然のこととして実践できなければならなかった。
[白文]17.子在川上曰、逝者如斯夫、不舎昼夜。
[書き下し文]子、川の上(ほとり)に在して(いまして)曰く、逝くものは斯く(かく)の如きか、昼夜を舎かず(おかず)。
[口語訳]川岸に立っておられた先生が言われた。『過ぎ去っていくものはこのようなものであるか、昼も夜も少しも止まるところがない。』
[解説]孔子が川のほとりに立って語ったとされる言葉だが、このしみじみとした述懐には二つの解釈が成り立つといわれている。一つは古註にあるように、流れゆく時の流れ、人を老いさせてゆく不断の時の流れを、『川のとめどない流れ』に重ね合わせて孔子が慨嘆しているという解釈である。もうひとつは、宋代の註釈で滾々(こんこん)として止まることのない川の流れ、昼も夜も休まずに流れる川の流れに、『人間の不断の努力や前進』を重ね合わせているという建設的な解釈である。
[白文]18.子曰、吾未見好徳如好色者也。
[書き下し文]子曰く、吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。
[口語訳]先生が言われた。『私はまだ、美人を情熱的に愛するように有徳者を強烈に愛するというような人を見たことがない。』
[解説]孔子は、本能的な欲望の対象である『美人(色恋沙汰)』を熱狂的に愛する人は多いが、理性的な思考の対象である『有徳者(仁徳と礼節)』を心から深く愛する人がまだまだ少ないということを十分に知っていた。そのことを嘆きながらも、美人と徳との双方を程よいバランスで愛する中庸の道を模索していたのである。
[白文]19.子曰、譬如為山、未成一簣、止吾止也、譬如平地、雖覆一簣、進吾往也。
[書き下し文]子曰く、譬えば山を為る(つくる)が如し、未だ一簣(いっき)を成さざるも、止むるは吾は止むなり。譬えば地を平らにするが如し、一簣を覆す(ふくす)と雖も、進むは吾往くなり。
[口語訳]先生が言われた。『ちょうど山を作るようなものである。最後に土をもうひとすくいというところで成し遂げられないのは自分の責任である。ちょうど土地を平らにならすようなものである。最初に土を少しならすだけでもそれは自分の働きなのである。』
[解説]一つの壮大な事業や計画をやり遂げる『人間の意志の素晴らしさ』について孔子が説いた部分であり、山をつくるときに最後のもう一歩をやり遂げないのは自分の落ち度で、土地を平らにならす時に最初の一鍬を入れるだけでもその人の功績だと言っている。つまり、大きな物事をやり遂げる場合に大切なのは、『最後の完成』と『最初のとりかかり』であるということである。
[白文]20.子曰、語之而不惰者、其回也与。
[書き下し文]子曰く、これに語りて惰らざる(おこたらざる)者は、それ回か。
[口語訳]先生が言われた。『私が君子の道を語っている時に、最後まで怠けずに聴いているのは、顔淵だけであるな。』
[解説]孔子は、門弟の顔淵を最も深く学問を愛する君子として高く評価しており、その早逝を深く悲しんで暫く立ち直れないほどであったという。
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