孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の憲問(けんもん)篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の憲問篇は、以下の5つのページによって解説されています。
[白文]41.子撃磬於衛、有荷簣(正しい漢字は「くさかんむり」)而過孔氏之門者、曰、有心哉撃磬乎、既而曰、鄙哉、脛脛(正しい漢字は「いしへん」)乎、莫己知也斯己而已矣、深則厲、浅則掲、子曰、果哉、末之難矣、
[書き下し文]子、磬(けい)を衛に撃つ。簣(き)を荷いて(にないて)孔氏の門を過ぐる者有り。曰く、心あるかな磬を撃つこと。既にして曰く、鄙しい(いやしい)かな、脛脛乎(こうこうこ)たり。己を知ること莫ければ、これ已まん(やまん)のみ。深きときは則ち厲(れい)し、浅きときは則ち掲せよ。子曰く、果なるかな、これを難しとする末し(なし)。
[口語訳]先生が衛で磬(けい)という石の打楽器を鳴らされた。土砂を運ぶモッコを担いで孔子の門前を通りかかった者が言った。『心の動きを感じさせるな、この磬の鳴らし方は。』。暫くして更に言った。『これはつまらないね。音が固くなり過ぎている。自分を理解するものがなければ、それで終わりになってしまう。深きときは則ち厲し(衣服を脱いで水に深く浸かり)、浅きときは則ち掲せよ(裾を上げよ)と詩でも謳っている。』。これを聞いた先生が言われた。『果断な意見であるな。しかし、その鳴らし方自体は難しいものではないよ。』。
[解説]孔子が衛で磬を鳴らしている時に、ある人が『深きときは則ち厲し、浅きときは則ち掲せよ』という『詩経』の言葉をもとにして、孔子の磬の鳴らし方を批評した。この『詩経』の言葉には、『時流や状況に合わせて適当に振る舞えば良い』という意味合いがあるが、孔子はそういった生き方のほうが楽であることを知りながら、敢えて理想主義的な君子の道を歩み続けていたのである。
[白文]42.子張曰、書云、高宗諒陰三年不言、何謂也、子曰、何必高宗、古之人皆然、君薨、百官総己以聴於冢宰三年、
[書き下し文]子張曰く、書に云う、高宗、諒陰(りょうあん)三年言わずとは、何の謂(いい)ぞや。子曰く、何ぞ必ずしも高宗のみならん。古(いにしえ)の人は皆然り。君薨(こう)ずれば、百官、己を総べて(すべて)以て冢宰(ちょうさい)に聴くこと三年なり。
[口語訳]子張が質問した。『殷の高宗は、三年間の喪に服している間、一言も話さなかったという「書経」の記述はどういうことでしょうか。』。先生がお答えになられた。『何も高宗だけに限らない。古代の人はみんなそのようであった。君主が崩御すると、官吏全員が自分の仕事をやり終えて、宰相の服喪の指示を三年間も聞いたのである。』。
[解説]子張が、主君が亡くなった場合の服喪の方法を孔子に質問した部分である。古代の君主(天子)は、父親の君主が崩御すると粗末な草葺の家屋で、三年間もの喪に服するという礼制があり、これを『諒陰三年(りょうあんさんねん)』と呼んでいた。孔子は礼楽を非常に重視した人物であり、高貴な人物が死去した場合には長期間の喪に服するのが当然の礼節と考えていたのである。
[白文]43.子曰、上好礼、則民易使也、
[書き下し文]子曰く、上(かみ)礼を好めば、則ち民(たみ)使い易し。
[口語訳]先生が言われた。『人の上に立つ者が礼を好んでいれば、人民をその威厳によって使役するのは簡単なことである。』
[解説]儒教の徳治主義のエッセンスを簡単な言葉で表現したものであり、孔子は為政者たるものは礼楽を極めて、自然に人民に慕われなければならないと考えていた。
[白文]44.子路問君子、子曰、脩己以敬、曰如斯而已乎、曰脩己以安人、曰如斯而已乎、曰脩己以安百姓、脩己以安百姓、尭舜其猶病諸、
[書き下し文]子路、君子を問う。子曰く、己を修めて以て敬す。曰く、斯く(かく)の如きのみか。曰く、己を修めて以て人を安んず。曰く、斯くの如きのみか。曰く、己を修めて以て百姓を安んず、己を修めて以て百姓を安んずるは、尭・舜もそれ猶諸(これ)を病めり。
[口語訳]子路が君子の心得を質問した。先生は答えられた。『自分の言動を正して、謙虚にすることである。』。子路は更にお聞きした。『それだけのことですか。』。先生は言われた。『自分の言動を正しく修めて、他の君子の人たちを安心させることである。』。子路は言った。『それだけのことですか。』。先生は言われた。『自分自身の徳性を高めて、百姓(一般人民)を安心させる。自分の言動を正しくして百姓を安心させることは、伝説の聖王である尭・舜でも難しいことだったのだよ。』
[解説]君子の心得について質問した子路に対し、孔子は『修身の大切さ』を説き、自分自身の言動の徳性を研鑽しながら『人民の安寧・幸福』を実現することの難しさを語っている。古代中国の伝説の聖王の政治にもつながる儒教の普遍的な目標は、『修身・斉家・治国・平天下』という段階的な自己実現・社会統治の理念に凝縮されている。孔子は、何にも増して己自身の道徳と能力を高めることを重視したのであり、『修身』と『平天下による人民救済』とが合一する地点に理想の政治を見出していたのである。
[白文]45.原壌夷俟、子曰、幼而不孫弟、長而無述焉、老而不死、是為賊、以杖叩其脛、
[書き下し文]原壌(げんじょう)、夷(い)して俟つ(まつ)。子曰く、幼にして孫弟(そんてい)ならず、長じて述べらるるなく、老いて死せざる、是を賊と為すと。杖を以てその脛(はぎ)を叩く。
[口語訳]原壌が片足を立てひざにして座って待っていた。先生が言われた。『お前は、幼児の時は素直ではなく、大人になってからは他人に賞賛されたことがなく、年老いても死ぬことがない。こういう人間を国賊(役立たず)というのである。』。孔子は杖で原壌の脛を叩かれた。
[解説]孔子が旧友の原壌の人生に対して容赦のない厳しい糾弾を加えている章であるが、孔子は長い人生の中で何の成長や働きも見られない人物を好まなかったようである。
[白文]46.闕党童子将命矣、或問之曰、益者与、子曰、吾見其居於位也、見其与先生並行也、非求益者也、欲速成者也、
[書き下し文]闕党(けっとう)の童子、命を将う(おこなう)。或るひとこれを問いて曰く、益する者か。子曰く、吾その位に居るを見たるなり。その先生と並び行けるを見たるなり。益を求むる者に非ざるなり。速やかに成らんことを欲する者なり。
[口語訳]闕の村の少年が、お客の取次ぎをしていた。ある人が聞いた。『あの少年の学問は伸びるでしょうか。』。先生が答えられた。『私はあの少年が(大人と同じように)真ん中の席についているのを見ました。また、あの少年が先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。あの少年は、学問・人格の成長を求める者ではなく、早く一人前の大人に成りたいという者です。』
[解説]村でお客の取次ぎをしていた利発で有能そうな少年。ある村人がその少年の学問と人格の将来性について孔子に質問したのだが、人間観察の力に優れていた孔子はその少年が『学問・人格の成長を求める人間』ではなくて、『早く大人の仲間入りをしたいだけの早熟な人間』であることを喝破していた。この章は、少年の現実的な将来性を占った話というよりも、目上(年上)の人間を尊敬するように説く『長幼の序』について孔子が語った話と解釈することができる。
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