『方丈記』の内容9:そもそも、一期の月影傾きて

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鴨長明(かものちょうめい,1155-1216)が動乱の時代の1212年(建暦2年)に書いたとされる『方丈記(ほうじょうき)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。鴨長明は、下鴨神社の神官を統率する鴨長継(かものながつぐ)の次男として生まれましたが、河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)を目指す一族の権力争いに敗れて、自己の将来に対する落胆と挫折を経験しました。そういった鴨長明の立身出世や神職の獲得に対する挫折感も、『方丈記』の諸行無常の作風に影響を与えるといわれますが、長明は無常な世の中にただ絶望するのではなく、その現実を受け容れながらも自分らしく淡々と生きることの大切さを説いています。

『方丈記』が書かれた1212年前後の時代は、平安王朝から鎌倉幕府へと政権が移譲した『戦乱・混迷の時代』であり、京都の公家(貴族)と鎌倉の武家との間で不穏な対立・策謀の空気が張り詰めていた落ち着かない時代でもありました。それまで“絶対的”と信じられていた京都・朝廷(天皇・上皇)の権力が衰微して、血腥い源平合戦の中から次世代を担う新しい“武家社会の権力”が生まれてきます。『諸行無常の理』が、実際の歴史と戦(いくさ)を通して実感された時代だったのです。『政治・戦の混乱』と合わせて相次いだのが『天変地異(自然災害)』であり、人為では抵抗しようのない自然の猛威に対しても、鴨長明は冷静で適応的な観察眼と批評精神を働かせています。

晩年に、日野山で方丈(一丈四方)の庵を結んでこの随筆を書いたことから『方丈記』と名づけられましたが、漢字と仮名の混ざった『和漢混淆文』で書かれた最初の文学作品とされています。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』は、日本三大随筆と呼ばれています。『方丈記』全文のうちの“9”の部分が、このページによって解説されています。

参考文献

市古貞次『方丈記』(岩波文庫),『方丈記(全)』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),安良岡康作『方丈記』(講談社学術文庫)

[古文]

そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。忽ち(たちまち)に三途の闇に向かはむとす。何の業(わざ)をかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、ことに触れて、執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、とがとす。閑寂(かんじゃく)に着するも、障りなるべし。いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。

[現代語訳]

さて、私の人生も晩年を迎えており、西に沈もうとする月が山際に近づいているように、余命はもう僅かとなっている。すぐにも、臨終の時が訪れて、三途の闇に向かおうとしている。今更、自分の悪業を愚痴ったり嘆いたりしても仕方が無い。仏が説かれた教えの本質は、何事にも執着心を持ってはならないということである。

そうすると、今、この草庵での生活を愛していることも、罪となってしまう。静かで寂しい暮らしに執着するのも、仏道の悟りの妨げになるのである。どうして役に立たない楽しみをつらつらと述べて、残り少ない時間を浪費しようとしているのだろうか。もうそんな無駄な時間を過ごすべきではない。

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[古文]

静かなる曉、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひて曰く、世を遁れて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はむがためなり。然るを、汝、姿は聖人(ひじり)にて、心は濁りに染めり。栖(すみか)は、すなはち、浄名居士(じょうみょうこじ)の跡をけがせりといへども、保つ所は、わづかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行ひにだに及ばず。

もしこれ、貧賤(ひんせん)の報のみづから悩ますか。はたまた、妄心(もうしん)のいたりて、狂せるか。その時、心さらに答ふることなし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請(ふしょう)の阿弥陀仏、両三遍(りょうさんべん)を申してやみぬ。

時に建暦の二年(ふたとせ)、弥生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれを記す。

『月かげは 入る山の端も つらかりき たえぬひかりを みるよしもがな』

[現代語訳]

静かな夜明けに、執着心を捨てよという仏教の教えについて考え、自分自身に問いかけてみた。俗世を捨てて、山林の草庵で独り暮らしを始めたのは、自分の精神を安定させて、仏道修行を実践するためだった。しかし、お前は外見こそ清浄な聖人を装ってはいるが、その心は欲望の濁りに染まったままだ。住まいは、悟りを開いたとされる浄名居士の住んでいた庵を真似して、その名を汚している。しかし、戒律を守るということについては、余り優秀ではないとされる僧侶の周梨槃特にさえ及ばないではないか。

もしかしてこれは、貧しく賤しい身に生まれたために、その因果の報いを受けて苦しんでいるからなのか。それとも、妄想が講じて、狂気に侵されたのだろうか。これらの問いに、自分の心は全く答えなかった。ただ自分に代わって、汚れた舌に回答を任せると、南無阿弥陀仏という念仏が思いがけず出た。無心で唱える南無阿弥陀仏を三度ほど唱えて、すべてが終わった。

建暦二年の3月の下旬に、鴨長明(蓮胤)が音羽山の草庵にしてこの文章を記した。

月影が山の端に消えようとしているのは、我が寿命が終わるほどにつらい感じがする。終わらない光を見たいと思うのは、人間の尽きることのない『煩悩・執着』というべきものだろう。

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