『今昔物語集』の巻第24第30話

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『今昔物語集』は平安時代末期の12世紀初頭~半ばに掛けて、収集編纂されたと考えられている日本最大の古説話集です。全31巻(現存28巻)で1,000以上のバラエティ豊かな説話のエピソードが収載されていますが、作者は未詳とされています。一説では、源隆国や覚猷(鳥羽僧正)が編集者ではないかと推測されていますが、実際の編集者が誰であるのかの実証的史料は存在しません。8巻・18巻・21巻が欠巻となっています。

『今昔物語集』は、『天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)』の三部構成となっており、それぞれが『仏法・世俗の部』に分けられています。因果応報や諸行無常の『仏教的世界観』が基底にあり、『宗教的・世俗的な教訓』を伝える構成のエピソードを多く収載しています。例外を除き、それぞれの説話は『今は昔』という書き出しの句で始められ、『と、なむ語り伝えたるとや』という結びの句で終わる形式で整えられています。

参考文献

『今昔物語集』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),池上洵一『今昔物語集 本朝部(上・中・下)』『今昔物語集 天竺・震旦部』(岩波文庫)

[古文・原文]

巻第24第30話.今は昔、藤原為時といふ人ありき。一条院の御時に、式部丞(しきぶのじょう)の労によりて受領(ずりょう)にならむと申しけるに、除目(じもく)の時、闕国(けつこく)なきによりてなされざりけり。

その後、このことを嘆きて、年を隔てて直物(なおしもの)行はれける日、為時、博士にはあらねども極めて文花(ぶんか)ある者にて、申文(もうしぶみ)を内侍(ないし)に付けて奉り上げてけり。その申文にこの句あり。

苦学寒夜。紅涙霑襟。除目後朝。蒼天在眼。(苦学の寒夜。紅涙(こうるい)襟(えり)を霑す(うるおす)。除目の後朝(こうちょう)。蒼天(そうてん)眼(まなこ)に在り。)

と。内侍これを奉り上げむとするに、天皇のその時に御寝(ぎょしん)なりて、御覧ぜずなりにけり。然る間、御堂(みどう)、関白にておはしければ、直物行はせ給はむとて内裏(だいり)に参らせ給ひたりけるに、この為時がことを奏せさせ給ひけるに、天皇、申文を御覧ぜざるによりて、その御返答なかりけり。

然れば関白殿、女房に問はしめ給ひけるに、女房申すやう、「為時が申文を御覧ぜしめむとせし時に、御前御寝(おおんまえぎょしん)なりて御覧ぜずなりにき」

然ればその申文を尋ね出だして、関白殿、天皇に御覧ぜしめ給ひけるに、この句あり。然れば関白殿、この句微妙に感ぜさせ給ひて、殿の御乳母子(おおんめのとご)にてありける藤原国盛といふ人のなるべかりける越前守(えちぜんのかみ)をやめて、にはかにこの為時をなむなされにける。

これひとへに申文の句を感ぜらるる故なりとなむ、世に為時を讃めける(ほめける)となむ語り伝へたるとや。

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[現代語訳]

今は昔、藤原為時(ふじわらのためとき,947頃~1029頃)という人がいた。一条天皇(980~1011)の時代に、式部丞を務めており、その功績によって受領(国司の代理)の地位を望んだが、除目(朝廷の官位の昇進・降格を決める人事考課)では地方の国司・受領に欠員がないという理由で却下された。

為時はがっかりしたが、翌年に、朝廷の官僚人事の修正が行われた日に、内侍(女性の役人)を通じて、受領の任官を申請する文章を天皇に差し上げたのだった。為時は文章博士(漢文・和歌の分野の専門家)ではなかったが、文化・教養・詩才に優れており、申請文章に以下のような漢詩を書き添えていた。

苦学の寒夜。紅涙襟を霑す。除目の後朝。蒼天眼に在り。

(現代語訳:寒い夜に耐えて勉学に励んでいたが、人事異動では希望する官職(受領)に就くことができず、失意と絶望で血の赤い涙が袖を濡らしている。しかし、この人事の修正が朝廷で行われれば、青く晴れ渡った空(天皇の比喩表現)の恩恵に感じ入って、その蒼天に更なる忠勤を誓うだろう。)

内侍はこの漢詩を一条天皇にお見せしようとしたが、既にお休みになっていて見せられなかった。御堂(藤原道長)は当時、関白(史実では摂政)だったから、人事の修正のために朝廷に参上して、天皇に為時の申請についてお伝えした。しかし、天皇は為時の申請文書も漢詩も御覧になっていなかったので、何の返答も頂けなかった。

そこで、藤原道長が内侍に聞くと、「為時の文書を天皇に御覧頂こうと思いましたが、既にお休みだったので、まだ御覧になっていません」と答えた。

すぐに文書を取り寄せて、天皇にお見せしたところ、その秀逸な漢詩に天皇は深く感動されたようである。

そして、この漢詩の詩句に感動した道長公は、自分の乳母子である藤原国盛に与えるはずだった越前の国の国司(受領)のポストを為時に与えたのである。これは、漢詩の詩句の感動によって人事が変更されたということであり、世間では為時の文才を賞讃していたと伝えられている。

[感想]

平安時代の朝廷では、貴族の必須教養として「詩文(和歌・漢文)」や「史学・有職故実(中国・日本のれ歴史や慣習)」が重視されており、出世するためにはそれらの才能に秀でていることが有利に働いた。平安京で和歌や漢詩が尊重された背景には、「中国の徳治主義(儒教の士大夫)・文人官僚による統治」の影響を認めることができるが、日本では死者(政治的敗者)の怨恨や憎悪を調伏する力が和歌に宿っていると考えられていた。恨みや無念を残して死んだ者(敗者)が怨霊となって蘇り、貴族社会に災厄や不幸(祟り)を引き起こすという「怨霊信仰」の影響を想定することができる。

本章で登場する藤原為時は紫式部の父とされているが、女流文人(女流作家)の元祖・紫式部の父らしく、為時は詩文の技術や漢文の教養に卓越した才能を持っていたようである。藤原道長がコネによる越前国の国司任命を取りやめて、素晴らしい漢詩を作成した藤原為時のほうを受領(国司の代官)に任命したというエピソードは、当時の文人官僚(貴族)がいかに和歌・漢文の才能を強く求められていたかを示していると思う。

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