『徒然草』の109段~112段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の109段~112段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第109段:高名の木登りといひし男、人を掟てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、『あやまちすな。心して降りよ』と言葉をかけ侍りしを、『かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ』と申し侍りしかば、『その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ』と言ふ。

あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

[現代語訳]

高名な木登りの名人が、植木職人に指図して高い木に登らせ、枝を切らせていた。とても危ないように見える木の上では何も言わなかったが、職人が作業を終えて木から降りる時に、家の屋根ばかりの高さになると、『過って落ちるなよ、注意して降りよ』と言葉を掛けた。雇い主は、『それくらいの高さなら、飛び降りてでも降りられるのに、どうしてそのような事を言うのか』と聞いた。

木登りの名人は、『その事でございますか。目がまわる程に高い危ない枝の上では、自分で落ちるのを恐れますから注意しなくても良いのです。過って落ちるのは、いつも安心できる高さになってからなのです』と答えた。身分の低い下賎なものだが、聖人の戒めに適った考え方である。蹴鞠でも、難しいところを蹴りだした後に、安心していると必ずミスして落としてしまうものだ。

[古文]

第110段:双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、『勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし』と言ふ。

道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。

[現代語訳]

双六の名人と言われている人に、勝つ為の手段を聞いてみると、『勝とうとして打つのはダメだ。負けないようにして打つのが良い。どの手が一番早く負けてしまうのかを心配して、その手を使わないようにし、少しでも遅く負けるような手を選ぶべきだ』と答えた。

物事の道理を弁えた教えだ。自分自身を治めて、国を維持していこうとする道も、また同じようなものである。

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[古文]

第111段:『囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ』と、或ひじりの申しし事、耳に止まりて、いみじく覚え侍り。

[現代語訳]

『囲碁・双六を好んで夜を明かして遊び暮らす人は、四重・五逆にも勝る悪事を犯していると思う』と、ある聖(民間の僧侶)が申していたことが耳にとどまっており、よく覚えている。

四重・五逆というのは仏教上の罪。四重とは『殺人・姦淫・窃盗・詐欺』のこと、五逆とは『父殺し・母殺し・解脱者(悟った者)殺し・仏法を破ること・僧侶殺し』のことである。

[古文]

第112段:明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心閑かになすべからんわざをば、人言ひかけてんや。俄かの大事をも営み、切に歎く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやう闌け(たけ)、病にもまつはれ、況んや世をも遁れたらん人、また、これに同じかるべし。

人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ、礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀る(そしる)とも苦しまじ。誉むとも聞き入じれ。

[現代語訳]

明日にも遠い国へ旅立つ人に、心を静かにしていられないような事を頼んだり、言ったりすることがあるだろうか。突然起こった大きな問題に取り組んでいる人やひたすら苦しく嘆いている人は、他人の言葉など聞き入れないし、他人の憂いや喜びを気にすることもできない。他人の憂いや喜びを気に掛けないからといって、どうして気に掛けないんだと恨むような人もいないだろう。ならば、年齢を重ねた老人や病人、まして遁世者(世捨て人)は、明日、遠い国に旅立とうとしている者と同じように生きるべきである

人間の儀式で、どれかやめにくいようなものがあるだろうか。世間の慣習を黙って無視してばかりもいられないということでこれに従っていると、願い事が多くなり、身体の調子も悪くなり、心も落ち着かなくなる。一生は、雑事の小片に邪魔されて、空しく暮れてしまう。日は暮れて、道は遠い。わが人生も、既に斜陽を迎えている。世俗の諸縁を放棄すべき時なのだ。 信義を守ることもなく、礼儀にもこだわらない。この心が分からない人は、狂ったと言ってもいいし、馬鹿だとでも、人間の情愛がないとでも思えばいい。謗られても苦しまないし、誉められても聞き入れない。

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