『徒然草』の86段~88段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の86段~88段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第86段:惟継中納言(これつぐのちゅうなごん)は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、読経うちして、寺法師の円伊僧正(えんいそうじょう)と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、『御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ、今よりは法師とこそ申さめ』と言はれけり。いみじき秀句なりけり。

[現代語訳]

惟継中納言(平惟継)は、風流な漢詩を書く才能に恵まれた人だ。生涯、仏教の教えに精進していて、読経をしていたが、三井寺の円伊僧正と同じ寺(僧房)で修行していたことがあった。 文保期に三井寺が焼き討ちされた時、惟継は焼き出された法師に会って、『あなた達は今まで三井寺の法師と申していたが、寺が焼けて無くなったので、これからはただの法師と名乗ることになる』と言った。これは素晴らしく優れた言葉である。

※三井寺(園城寺)という武力・経済力・権威を持った拠点を失って、本来あるべき一人の無欲な僧侶(法師)に戻ったことを平惟継は肯定的に捉えているが、三井寺の裕福だった僧侶たちがその言葉を真っ正直に受け容れられたかは分からない。

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[古文]

第87段:下部(しもべ)に酒飲まする事は、心すべきことなり。宇治に住み侍りけるをのこ、京に、具覚房(ぐかくぼう)とて、なまめきたる遁世の僧を、こじうとなりければ、常に申し睦びけり。或時、迎へに馬を遣したりければ、『遥かなるほどなり。口づきのおのこに、先ず一度せさせよ』とて、酒を出だしたれば、さし受けさし受け、よよと飲みぬ。

太刀うち佩きてかひがひしげなれば、頼もしく覚えて、召し具して行くほどに、木幡(こはた)のほどにて、奈良法師の、兵士あまた具して逢ひたるに、この男立ち向ひて、『日暮れにたる山中に、怪しきぞ。止まり候へ』と言ひて、太刀を引き抜きければ、人も皆、太刀抜き、矢はげなどしけるを、具覚房、手を摺りて、『現し心なく酔ひたる者に候ふ。まげて許し給はらん』と言ひければ、おのおの嘲りて過ぎぬ。この男、具覚房にあひて、『御房は口惜しき事し給ひつるものかな。己れ酔ひたる事侍らず。高名仕らんとするを、抜ける太刀空しくなし給ひつること』と怒りて、ひた斬りに斬り落としつ。

さて、『山だちあり』とののしりければ、里人おこりて出であえば、『我こそ山だちよ』と言ひて、走りかかりつつ斬り廻りけるを、あまたして手負ほせ、打ち伏せて縛りけり。馬は血つきて、宇治大路(うじのおおじ)の家に走り入りたり。あさましくて、をのこどもあまた走らかしたれば、具覚房はくちなし原にによひ伏したるを、求め出でて、舁き(かき)もて来つ。辛き命生きたれど、腰斬り損ぜられて、かたはに成りにけり。

[現代語訳]

しもべに酒を飲ませる時には、注意すべきである。京の宇治に具覚房と名乗る風雅な遁世の僧がいた。具覚房は宇治に住む親戚と仲が良くて、頻繁に交遊を結んでいた。ある時、宇治の親戚からお迎えの馬が遣わされてきて、『長い道中をやってきてくれたのだから、馬を引いてきた口取りの下男に酒でも一杯飲ませてやりなさい』と言い、酒を振る舞った。使いの男は杯(さかずき)で酒を何度も受けて、よよと大量の酒を飲んだ。

口取りの男は、太刀を腰に差しており頼りがいのありそうな感じだが、供として連れていく途中、木幡のあたりで、奈良の法師が多数の兵士を引き連れているのに遭遇した。それを見ると口取りの男は立ち向かう様子を見せて、『日も暮れかかる山の中で何者か。怪しい奴らだ。止まれ』といい太刀を抜いた。相手の兵士たちも太刀を抜いて矢をつがえ出したが、具覚房は手をすり合わせて、『この男は、酔っていて正気を失っています。どうかこの場はお許し下さい』と謝罪した。謝罪を聞いた奈良の法師は、単なる酔っ払いかと嘲り笑いながら通り過ぎていった。すると、口取りの男は『あなた様は、非常に勿体ないことをしてしまいましたな。私は酔ってなどいなかったのに。せっかく武功を立てようとしていたのに、この抜いた刀が何の役にも立たなくなってしまったではないか』と怒って、具覚坊に斬り付けてきた。

そして、男は『山賊が出た』と騒ぎ出して、何事かと里人たちが集まったところで、『俺こそが山賊だ』と言って、人々に走りかかって斬りつけた。里人たちは大勢で男を追いかけ、殴りつけて縛り上げた。(具覚房を乗せた)血だらけの馬は、宇治の親戚の家に戻ることができた。馬の様子を見た宇治の親戚はとても驚き、すぐに男どもを遣わして、具覚房を探させた。くちなし原でうめいて倒れている具覚房を見つけ、親戚の家まで担いで帰ってきた。何とか命だけは助かったが、斬られた腰の傷は深くて、具覚房は片輪(身体障害)になってしまった。

[古文]

第88段:或者、小野道風(おののとうふう)の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人『御相伝(ごそうでん)、浮ける事には侍らじなれども四条大納言撰ばれたるものを、道風書かん事、時代や違ひ侍らん。覚束なくこそ』と言ひければ、『さ候へばこそ、世にあり難き物には侍りけれ』とて、いよいよ秘蔵しけり。

[現代語訳]

ある者が、三筆の一人である小野道風が書いた『和漢朗詠集』だとして持っていた書物がある。これを見たある人が、『先祖代々受け継がれる御相伝の書物を疑うわけではないのですが、小野道風が死んだ後に生まれた四条大納言の撰書である『和漢朗詠集』を、道風が書くなどという事が可能でしょうか。時代も違い、あり得ないことです』と言った。すると、持ち主は『あり得ないものだからこそ、世にもありがたい価値あるものなのでございます』と答え、ますますその偽作と思しき『和漢朗詠集』を大事そうに秘蔵してしまった。

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