兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。
『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の53段~55段が、このページによって解説されています。
参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)
[古文]
53段:これも仁和寺(にんなじ)の法師、童(わらわ)の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎(あしがなえ)を取りて、頭に被き(かずき)たれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座(まんざ)興に入る事限りなし。
しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、頸(くび)の廻り欠けて、血垂り(たり)、ただ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪え難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。物を言ふも、くぐもり声に響きて聞えず。「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言えば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。
かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ、力を立てて引きに引き給へ」とて、藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。
[現代語訳]
仁和寺の稚児が法師になるというので、それぞれが芸や歌で遊び楽しむお祝いの酒宴が開かれた。ある法師が酔っ払って興に乗り、側にあった足鼎を手に取ると、鼻が引っかかるような感じがしたがそのまま鼻をおしつぶして頭にかぶり踊り出した。みんなは盛り上がって大喜びしている。
その法師はしばらく踊ってから、足鼎を抜こうとしたのだが、まったく抜けない。酒宴の興趣も冷めてしまい、どうしようかと慌てふためいてしまう。何とかしようと引っ張ってみたが、首の周りの皮膚が破れて血が流れ、腫れに腫れ上がり、息が苦しくなってしまった。次は、足鼎を割ろうとしたが簡単には割れない。音が響いて苦しそうなので、割ることを諦めたが、どうしようもない。三つ足の角の上に帷子をかけて、手をひき、杖をつかせて医師の所へ向かうと、道ゆく人たちが怪しげな様子で見ている。医師の元に行って、医師と三本角が向かい合っている様子もおかしなものだったろう。
法師は医師に何か言っているが、声がくぐもってしまって聞こえない。『こんな症例は本にも書いていないし、聞いた事もない』と医師は言い、諦めてしまったので、すごすごと仁和寺に帰った。法師の母親や親しい者が集まって枕元で泣き悲しんでいたが、その悲しみの声が聞こえているのかどうかもわからない。
このような時に、ある人が言った。『たとえ耳鼻がそげ落ちようとも、命さえあれば生きていけるだろう。こうなったら、ひたすら力のばかりに引きに引いて何とか抜いてしまおう』と。そこで、足鼎と首の間にわらを詰め込んで、首もちぎれんばかりに引いたら、耳鼻が欠け落ちて穴が開いたがどうにか抜けた。命は何とか助かり、法師はしばらく病気になって寝込んでしまった。
[古文]
54段:御室(おむろ)にいみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子(わりご)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情(はこふぜい)の物にしたため入れて、双の岡(ならびのおか)の便よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそそのかし出でにけり。
うれしと思ひて、ここ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困じ(こうじ)にたれ」、「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩り、印ことごとしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくいいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。
[現代語訳]
法王の居住する「仁和寺の御室」に、すごく美しい稚児が仕えていて、仁和寺の法師たちの中に、なんとかこの稚児を誘い出して遊びに行けないだろうかと企んでいる者たちがいた。芸能ができる法師を仲間に加えて、しゃれたデザインの(食物を入れる)重箱のようなものを念入りに作って、箱のような形をしたものにその重箱を全部まとめて入れた。それを双の丘の便利の良い場所に埋めて、その上に紅葉を散らして、誰も気づかないような状態にした。御所に参った法師たちは、稚児をそそのかして連れ出した。
嬉しく感じてそこかしこを遊び回ったが、(ちょうど良い時間に)先ほど箱を埋めておいた苔が一面に生えている場所に並んで座った。「とても疲れてしまった」、「誰かもみじの葉っぱを燃やして、酒でも温めてくれないか」、「効験のある僧侶たち、試しに祈ってみよ」など互いに言い合って、箱を埋めておいた木の下を向いて、数珠をすりあわせ、手で印を結んで、無駄におおげさに振る舞ってみせた。そして、木の葉をかき分けてみたのだが、全く埋めておいた箱が見当たらない。掘るところを間違えたかと、掘らぬ場所もないぐらいに山を掘り返してみたけれど、箱は見つからない。埋めるところを誰かに見られて、御所に稚児を誘いに行っている間に盗まれたのである。法師たちは稚児へ語りかける言葉もなくしてしまい、互いに言い争って、腹を立てて帰ってしまった。
あまりに興趣ある状況を作為的に作り上げようとすることは、かえってつまらなくなるだけのことである。
[古文]
55段:家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり。
深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸(やりど)は、蔀(しとみ)の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈(ともしび)暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。
[現代語訳]
家の作り・構造は、夏向けを基本とするのが良い。冬はどんな場所にも住むことができる。しかし、夏の暑い時期は、暑さを凌げない悪い住居に住むのは耐えがたいことである。
(庭に作る小川や池にしても)深い流れは、淀んでいて涼しげがない。浅くサラサラと流れる様子が涼しげなのである。室内の小さなものを見る時には、扉を押し上げて開く窓(蔀)より、両開きの窓(遣戸)の方が明るくて良い。天井が高いと、冬は寒くて、夜はともしびの光が届きにくくて暗くなる。家の普請・作りは、(当面は)役に立たない場所を作ったりするほうが、見た目にも面白いし、何かのときに色々と役に立って良いと、人々が話し合っていたよ。
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