『徒然草』の25段~27段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の25段~27段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

25段.飛鳥川の淵瀬(ふちせ)常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび・悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李(とうり)もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。

京極殿(きょうごくどの)・法成寺(ほうじょうじ)など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族(おおんぞく)のみ、御門の御後見(おおんうしろみ)、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるままにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言(こうぜいだいなごん)の額、兼行(かねゆき)が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。

されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟てん(おきてん)こそ、はかなかるべけれ。

[現代語訳]

飛鳥川の淵や瀬は常に姿を変えているが、この川の流れのように移り変わり続けるのが世の常であるならば、時は移り、物事は過ぎ去って、喜びも悲しみも入り交じり過去に流れ去っていく。華やかだった場所も、やがて人の住まない荒野となるが、家が残っていたとしても住む人は違う人に変わってしまう。

毎年のように花を咲かせる桃李は何も語らないので、誰に遠い昔のことを尋ねればよいのだろうか。見たこともない古代の繁栄・高貴の遺構を示す廃墟は、とても儚いものである。摂政になった藤原道長が建立した豪華な京極殿・法成寺などの跡を見ると、昔の貴人の思いが偲ばれて、今のすっかり荒れ果てて変わってしまった様子が哀れに感じる。

多くの荘園を寄進して、自らの一族(藤原家)が末代まで天皇の後見人(摂政関白)となることを望んだ道長は、その繁栄を極めている時期にこのように変わり果ててしまった状態を予測することができただろうか。法成寺の大門・金堂などは最近まであったのだが、正和の頃に南門は焼け落ち、金堂はその後に倒れたままであり、再建する目途も立っていない。無量寿院だけが、その形を今でも残しており、一丈六尺の仏様が九体、尊い姿で並んでおられる。行成大納言の書いた額、源兼行が書いた扉の絵が、今も鮮やかに残っている様子が悲しく感じられる。

法華堂などもまだ残っているが、これもいつまで持つだろうか。こういった過去の名残・記録もないような場所には、建物の土台の跡が残っているだけで、何の建物の跡だったのかを正確に知る人はいないのである。だから、自分が見ることのできない遠い子孫の代まで繁栄の基礎を築こうとするようなことは、すべて儚いのである。

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[古文]

26段:風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。

されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分かれんことを歎く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、

昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして

さびしきけしき、さる事侍りけん。

[現代語訳]

風も吹き荒れていないのに散ってゆく花のように、移り変わってゆく人の心、過去に親しんだ月日のことを思うと、しみじみと感動して聞いた一つ一つの言葉が忘れられない。そんな大切な言葉を少しずつ忘れ去っていっていることは、亡くなった人との別れよりも悲しいものである。

だから、白い糸が必ず汚れることを悲しみ、道が必ず分かれる事を嘆いた人もいたのだろう。堀川院の選んだ百首の歌の中に、以下のようなものがある。

昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして

この和歌の意味は、昔の彼女の家の垣根がすっかり荒れ果てていた、茅草の中にすみれの花ばかりが咲いているというものである。この歌に詠まれた寂しい景色に、しみじみとした思いを寄せる。

[古文]

27段:御国譲り(みくにゆずり)の節会(せちえ)行はれて、剣・璽・内侍所渡し奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。

新院の、おりゐさせ給ひての春、詠ませ給ひけるとかや。

殿守(とのもり)のとものみやつこよそにして掃はぬ(はらわぬ)庭に花ぞ散りしく

今の世のこと繁きにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かかる折にぞ、人の心もあらはれぬべき。

[現代語訳]

持明院統の花園上皇が、大覚寺統の後醍醐天皇に、天皇位を譲位する「御国譲りの節会」の儀式が行われた。花園上皇が、三種の神器を新天皇にお譲りになられた時には、この上なく心細い気持ちになった。

花園上皇が退位なされた年の春に詠まれた歌は、以下のようなものである。

殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく

この歌の意味は、新しい天皇の御世になって、主殿寮の役人が誰も自分の屋敷の庭掃除をしてくれないので、花が庭に敷き詰めるかのように散り落ちているというものである。権力の座を失った花園上皇の周辺のもの寂しさを表現した歌である。

現在の世俗の忙しさに紛れて、花園院の周辺には参上する人もなくて寂しげな様子である。こういった落魄(失意)の時期にこそ、人間の心(忠誠心)というものは現れてくるものだ。

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