兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。
『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の42段~45段が、このページによって解説されています。
参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)
[古文]
42段.唐橋中将(からはしのちゅうじょう)といふ人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)とて、教相(きょうそう)の人の師する僧ありけり。気(け)の上る(あがる)病ありて、年のやうやう闌くる(たくる)程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面(おもて)のやうに見えけるが、ただ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。
かかる病もある事にこそありけれ。
[現代語訳]
唐橋中将(源雅清)という人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)という人がいた。行雅僧都は、仏教の教理・思想を学ぶ人々の先生をしている偉い僧侶だったが、気の上る病(高血圧でのぼせあがる病気)を持っていた。年齢を段々と重ねていくうちに、鼻の中がふさがって呼吸もしにくくなったので、さまざまな治療をしてみたが効果が上がらず病状は悪化していった。目・眉・額などが腫れ上がってしまい、目蓋の上に覆いかぶさって物が見えなくなる。その顔は二の舞の面のように見えたが、ただ恐ろしい形相であり、鬼の顔のようになって、目は額の方について、鼻は額のほうについてしまった。その後は、お寺の中の人にも会わなくなって暫く引きこもっていたが、長い年月が流れるうちに、更に病状が重くなり亡くなってしまった。
こんな原因不明の恐ろしい病も、ある事があるのだ。
[古文]
43段.春の暮つ(くれつ)かた、のどやかに艶(えん)なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて(ふりて)、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。
いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。
[現代語訳]
晩春ののどかで風情のある美しい空、身分が低くないことを伺わせる立派な造りの家の奥深く、古びた趣きのある木立に、庭に散り萎れた花びらがあれば、これは見過ごしがたい情趣を感じる。その家の中に入っていって見ると、南面の格子の戸をすべて下ろしていて寂しげな様子なのに、東に向いた妻戸(両開きになる板戸)は程よく開いている。御簾(すだれ)の破れから見てみると、容姿端麗で清らかな20歳頃の男性が、くつろいだ様子で過ごしていて、心が引き寄せられてしまう。その男性はのどかな風情で、机の上に文書を広げて読んでいるようだ。
どのような人物なのであろうか、尋ねて聞いてみたいものだ。
[古文]
44段:あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣(かりぎぬ)に濃き指貫(さしぬき)、いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつつ行けば、笛を吹き止みて、山のきはに惣門(そうもん)のある内に入りぬ。榻(しじ)に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止まる心地して、下人(しもうど)に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。
御堂(みどう)の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意(おいかぜようい)など、人目もなき山里ともいはず、心遣ひしたり。
心のままに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣水(やりみず)の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。
[現代語訳]
粗末な竹の網戸の中から、たいそう若い男が出てきた。おぼろげな月明かりの中では、色合いまではっきり分からないが、艶のある狩衣(貴族の日常着る服)を着て、濃い紫色の袴をつけているようだ。とても風情を感じさせる様子の男は、童子ひとりをささやかなお供に連れており、田んぼの長い細道を、笛を吹きながら歩いている。刈り入れも近い稲穂の露に濡れながら歩く男が吹いている笛の音は、とても情趣があって上手いのだが、誰もその趣き深い笛の音を聞く人もいないような田んぼ道だった。
この若い男の行き先が知りたくなって、距離を置きながらついて行くと、山際にあるお屋敷の大門の中に入っていった。牛を括りつける台がある牛車が見えたが、都にある牛車よりも目立つ感じがして、屋敷の下人に何が行われるのかを聞いてみた。『これこれという宮様がご滞在中であり、ここで仏事が執り行われるようです』と下人が答えた。
御堂のほうに法師が集まってきている。夜風に流されて薫き物の良い香りが漂ってきて、何とも言えない心地よい気分になってくる。寝殿では、女房が慌しく香を焚いて追い風を起こしながら、廊下を移動している。人目につかない山里であるにも関わらず、丁寧な心遣いが行き届いている様子である。
思いのままに生い茂った秋の草木は露に濡れており、虫の声は死者を悼むような鳴き声である。庭では遣水の音がのどかに響いている。ここの雲は、都よりも速く流れているようだ。雲の流れが速いので月が見えたり隠れたりしており、今の天気は晴れとも曇りとも定めがたい趣きのある感じである。
[古文]
45段:公世(きんよ)の二位のせうとに、良覚僧正(りょうがくそうじょう)と聞えし(きこえし)は、極めて腹あしき人なりけり。
坊の傍(かたわら)に、大きなる榎の木(えのき)のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。
[現代語訳]
藤原公世(ふじわらのきんよ)の兄弟に、良覚僧正といわれる人がいたが、とても怒りっぽい人だった。
僧坊(僧の住居)の傍らに、大きな榎の木があったので、人が良覚のことを『榎木僧正』と呼んだ。すると、この渾名は不適切だといって、この榎の木を切ってしまわれた。しかし榎の木の切り株が残ったので、人が『きりくいの僧正』と呼ぶと、良覚はますます腹を立てて、切り株を掘り出して捨ててしまった。その掘り出した後が大きな堀になったので、良覚は『堀池僧正』と呼ばれるようになってしまった。
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