『徒然草』の59段~61段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の59段~61段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

59段:大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末(ゆくすえ)難なくしたためまうけて」、「年来(としごろ)もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる。

近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ(のがれ)去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むめるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。

[現代語訳]

大事(出家など重要なこと)を思い立った人で、何かに囚われて離れがたかったり、心のどこかにひっかかることがあって本意を遂げられないでいるなら、その全てを捨てたほうが良い。

『もうしばらくしたら。この事が終わったら』、『同じように時間がかかるならば、あの事もきちんとし終わってから』、『しかし、これは人に笑われるだろう。笑われないように確実に準備してからでないと』、『いや待て。長年の経験の蓄積があるのだから、その結果を見届けてからにしよう、波風が立って騒がしくならないように』などと考えていると、やり終えていない事ばかりが山積みになり、それらをやり終えることはできず、大事にかかる本意(本当に重要でやるべき出家など)を遂げる日はいつまでもやってこない。

いつか出家して仏門に励もうとしている大抵の人は、みんなこのような物事に追われた状態で死(臨終)を迎えてしまう。隣の家が燃えているのに、『暫く待ってから逃げよう』なんて言うだろうか。生命が助かりたいならば恥も忘れて、財産も捨てて家事から逃げるはずだ。寿命は人の都合など待ってくれない。無常の変化が押し寄せるさまは、大火のように大水のように凄い速さであるから、その無常から逃げることなんて出来ないんだよ。死ぬ時には、捨てがたいはずの親や我が子、恩義や情愛すら、みんな捨てざるを得ないのだから。

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[古文]

60段:真乗院に、盛親僧都(じょうしんそうづ)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつつ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。ただひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋(さんまんびき)を芋頭の銭(あし)と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。

この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。

この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠(がくしょう)・辯舌(べんぜつ)、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して餐膳(きょうぜん)などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎(とき)・非時(ひじ)も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。

[現代語訳]

仁和寺の真乗院に盛親僧都という、極めて頭の良い僧がいた。芋頭という食べ物を好んでおり、毎日のように食べていた。講義の席でも、大きな鉢に芋頭をうずたかく盛り上げて、膝元において食べながら、もぐもぐと口を動かしお経を読んでいた。病気をすると一~二週間は治療だと言って部屋に閉じこもり、気が済むまで良い芋を選んで、いつもよりたくさん食べてどんな病気でも治してしまった。人に芋を食べさせることはなく、いつも一人で食べていた。

極めて貧しかったが、師匠が亡くなった後に、僧坊(住居)と二百貫の財産を相続した。家を百貫で売り払って、三百貫の財産をつくると、全てを芋代にすると決めてしまった。京都にいる人にお金を預けると、十貫づつお金を下ろして、いつも芋頭が途絶えないように計画して食べていた。しかし、他に財産を使う用途もないので、すべてを芋代にしたのである。『お金もないのに、三百貫もの大金を全て芋代に使うとは、珍しい道心者(仏道修行をする者)だ』と人々は言った。

この僧都が、ある坊さんを見て『しろるうり』と名づけた。『しろるうりとは何ですか』と人に聞かれると、『そんなことは知らない。もし、そのようなものがあるなら、きっとこの坊主にそっくりなんだろう』と答えた。

この僧都は、外見・容姿が良くて、力が強く、大飯ぐらいである。書道、学問、弁論、全ての分野にも優れていて、寺でも重く用いられていた。しかし、どこか世間をバカにしている曲者でもあった。すべて好き勝手に自由にやって、人の言うことなど聞くことがない。寺の外の法事のときにも、自分の目の前にお膳があると、他の人のお膳が準備されていなくても、さっさと自分一人だけで食べてしまう。帰りたくなれば、一人で立ち上がってそのまま帰ったという。寺での食事も、周囲に配慮することもなく、自分の食べたい時には、夜中でも明け方でも食事をする(食欲を我慢することがない)。眠たい時には、昼間でも部屋に籠って寝てしまう。どんな大切な用事があっても自分が起きたくないなら起きない。目が冴えてくると、真夜中でも歌など詠みながら散歩をする。普通ではない有様であるが、人に嫌われることもなく、すべての我がままは許してもらっていた。きっとこの僧侶の徳が高いからなのだろう。

[古文]

61段:御産(ごさん)の時、甑(こしき)落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣(おんえな)とどこほる時のまじなひなり。とどこおらせ給はねば、この事なし。

下ざまより事起りて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。

[現代語訳]

お産の時に、屋根の上から甑(こしき=土器で作られた米などを蒸す道具)を落とす風習は別に決まった事ではない。お産が滞ってなかなか赤ちゃんが産まれない時のまじないであるが、お産が難産に陥っていなければやる必要もない。

身分の低い庶民が始めた迷信なので、たいした根拠というものもない。大原の甑を取り寄せるのが、縁起が良いとされる。古い宝蔵に収納されていた絵巻には、貧しい者が子を産む時に、屋根から甑を落としている情景が描かれていた。

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