『平家物語』の原文・現代語訳6:かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病にをかされ~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病にをかされ~』の部分の原文・意訳を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

禿童(かぶろ)

かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病にをかされ、存命のためにとて、即ち出家入道す。法名をば浄海(じょうかい)とこそつき給へ。その故にや宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。出家の後も、栄耀は猶尽きずとぞ見えし。おのづから人の随ひ付き奉る事は、吹く風の草木をなびかす如く、世の仰げる事も、降る雨の国土を潤すに同じ。六波羅殿の御一家の君達とだに云へば、華族も英雄も、誰肩をならべ、面を向ふ者なし。

又入道相国の小舅(こじゅうと)、平大納言時忠の卿の宣ひけるは、『この一門にあらざらん者は、みな人非人(にんぴにん)たるべし』とぞ宣ひける。さればいかなる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子のため様より始めて、衣紋のかき様に至るまで、何事も六波羅様(ろくはらよう)とだに云ひてしかば、一天四海の人皆これを学ぶ。

如何なる賢王賢王の御政(おんまつりごと)、摂政関白の御成敗にも、世に余されたるほどの徒者(いたずらもの)などの、かたはらに寄り合つて、何となう誹り傾け申す事は、常の習ひなれども、この禅門世盛(よざかり)の程は、いささかゆるがせに申す者なし。その故は、入道相国の謀(はかりごと)に、十四五六の童(わらわべ)を三百人すぐつて、髪を禿(かぶろ)に切りまはし、赤き直垂(ひたたれ)をきせて、召し使はれるが、京中に充ち満ちて、往反(おうばん)しけり。

おのづから平家の御事悪様に申す者あれば、一人聞き出さぬ程こそありけれ、余勲に触れ廻し、かの家に乱入し、資財雑具(しざいぞうぐ)を追捕し、その奴を搦めて、六波羅殿へゐて参る。されば、目に見、心に知るといへども、詞に顕して申す者なし。六波羅殿の禿とだに云へば、道を過ぐる馬車も、皆よきてぞ通しける。禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師(けいし)の長吏(ちょうり)、これが為に目を側むと見えたり。

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[注釈・意訳]

こうして清盛は、仁安三年十一月十一日に五十一歳で病気に冒されてしまったが、寿命を引き延ばすために出家されて入道となった。浄海という法名(出家名)もつけられた。そのお陰なのか、持病はすぐに癒えて、天命を全うすることができた。清盛が出家してから後も、まだ栄耀栄華の繁栄は終わらないように見えた。自然に人々が付き従ってくる様は、吹く風が草木をなびかせるようであり、世間が平家を畏れて仰いでいることも、降る雨が国土を潤しているのと同じように自然である。六波羅殿(清盛)の御一家の関係者であるとでも言えば、華族でも英雄でも、誰も肩を並べることなどできず、面と向かって対立することもできない。

また清盛入道の小舅である大納言の平時忠(清盛の妻・時子の兄)などは、『平家一門でなければ、みんな人ではない(人としての位階や価値を持たない)』と嘯いてのたまっている。そのような情況であれば、どんな人もこの平家一門と関係を持ちたがるのである。烏帽子のかぶり方から衣紋の掛け方まで、どんなことでもこれが六波羅様なのだとさえ言えば、世の人々はみんなそのやり方を学んで真似した。

どんな賢王の政治でも、優れた摂政関白のご裁断(判決)でも、世に居場所がないようなあぶれ者(時代に報われない貧しい者)などが集まって何となく誹謗中傷するようなことがあるのは世の習いだが、この清盛公の全盛期にはわずかでも文句・誹謗をする者はいない。その理由は、清盛入道の謀で、14~16歳の子どもを三百人集めて、髪を短く切り揃え、赤い直垂を着せて、召し使われていたが、京の都にそんな子どもが満ち溢れて往来していたのである。

たまたま平家のことを悪く言う者があれば、京中にいる子どもが一人もそれを聞かなければ大丈夫だが、もし平家の悪口を子どもが聞くと仲間に触れ回って、その家に乱入し資財家財を没収して逮捕し、六波羅殿の元へと引っ張っていった。そのため、目で見て心で感じることがあっても、言葉に出して言う者はいないのだ。六波羅殿の禿とさえ言えば、馬も車もみんな道を避けて通った。六波羅殿の一族は御所の禁門を出入りする時でさえも、その姓名を尋ねられることはない。京の高官は、この権威のために目を背けているように見えた。

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