13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。
兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『明くれば六月一日の日なり~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。
参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)
[古文・原文]
西光が斬られの事(続き)
明くれば六月一日の日なり。いまだ暗かりけるに、入道相国安倍資成(あべすけなり)を召して、「院の御所へ参り、大膳の大夫(だいぜんのだいぶ)信成(のぶなり)を呼び出だして、きつと申さんずる事はよな。新大納言成親の卿以下近習の人々、この一門を亡ぼして天下乱らんとする謀叛の企てあり。一々に搦め取つて、尋ね沙汰仕り候ふべし。それをば君も知し召さる(しろしめさる)まじう候と申すべし」とぞ宣ひける。
資成、急ぎ院の御所へ馳せ参り、信成を招いてこの事申すに、色を失ふ。やがて御前へ参りて、この由かくと奏聞(そうもん)申しければ、法皇、「ああはや、これらが内々謀りし事の洩れ聞えけるにこそ。さるにても、こは何事ぞ」とばかり仰せられて、分明(ぶんみょう)の御返事もなかりけり。
資成、急ぎ走り帰つて、この由かくと申しければ、入道、「さればこそ。行綱は実(まこと)を申したれ。行綱この事告げ知らせずば、浄海安穏にてやはあるべき」とて、筑後守貞能、飛騨守景家(かげいえ)を召して、当家傾けうとする謀叛の輩(ともがら)、一々に搦め捕るべきよし下知せらる。よつて二百余騎、三百余騎、あそこここに押寄せ押寄せ搦め捕る。
入道相国、先づ雑色(ぞうしき)を以て、中の御門烏丸の新大納言の宿所へ、「きつと立ち寄り給へ。申し合すべき事の候」と宣ひ遣はされければ、大納言、我が身の上とは露知らず。あはれ、これは、法皇の、山攻めらるべき御結構のあるを、申し宥められんずるにこそ、御憤(おんいきどおり)深げなり、いかにも叶ふまじきものをとて、ないきよげなる布衣(ほうい)たをやかに着こなし、鮮やかなる車に乗り、侍三四人召し具して、雑色・牛飼に至るまで、常よりもなほ引き繕はれたり。
そも最後とは後にこそ思ひ知られけれ。西八条近うなりて見給へば、四五町に軍兵ども満ち満ちたり。あなおびただし、こは何事なるらんと、胸打ち騒がれけれども、門前にて車より下り、門の中へさし入つて見給へば、内にも兵(つわもの)ども隙(ひま)はざまもなうぞ並み居たる。中門の口には恐ろしげなる者ども数多(あまた)待ち受け奉り、大納言を取つて引張り、「縛むべう(いましむべう)候ふやらん」と申しければ、入道廉中(れんちゅう)より見出し給ひて、「あるべうもなし」と宣へば、侍ども十四五人、前後左右に立ちかこみ、大納言の手を取つて縁の上へ引き上げ奉り、一間なる処に押し篭め(おしこめ)奉つてげり。
大納言は夢の心地して、つやつや物も覚え給はず。供にありつる侍ども、大勢におし隔てられて、散り散りになりぬ。雑色(ぞうしき)・牛飼、色を失ひ、牛・車を捨てて皆逃げ去りぬ。
さる程に、近江の中将入道蓮浄(れんじょう)・法勝寺の執行(しぎょう)俊寛僧都(しゅんかんそうず)・山城守基兼・式部大輔正綱・平判官康頼(へいほうがんやすより)・宗判官信房(そうほうがんのぶふさ)・新平判官資行(すけゆき)も、囚はれてこそ出で来たれ。
[現代語訳・意訳]
西光が斬られの事(続き)
翌6月1日、まだ暗いうちに、入道相国(平清盛)は安倍資成を呼んで、「院の御所に行って、大膳大夫・平信成を呼び出して間違いなく伝えて欲しいのはな。新大納言成親の卿以下の近習の人々が、この平家を滅ぼして天下を乱そうとする謀反の企てがあります。その関係者を一人一人召し捕って、尋問して処罰します。法皇様におかれては知らないことにしておいて下さいということだ」と命令を伝えた。
安倍資成は急いで院の御所に参上して、平信成を招いてこの次第を伝えると、信成は驚いて顔色を失った。暫くして法皇の御前に参上して、このことを申し伝えると、法皇は「ああダメか、内々にはかりごとをしていたのに洩れてしまったのか。それにしても、これは何事なのか」と仰せられるばかりで、はっきりした御返事もなかった。
資成は急いで走って帰って、この経緯を入道(平清盛)に報告すると、「そうであったか。行綱は本当のことを申していたのだ。もし行綱がこの謀叛を知らせてくれなければ、この浄海はもはや安穏としてはいられなかっただろう」とおっしゃり、筑後守貞能・飛弾守景家を呼んで、この平家を滅ぼそうとした謀反人を、一人残らずに召し捕ってしまうように命令を出された。そこで二百余騎、三百余騎があちこちに次々と押し寄せて、召し捕っていったのである。
入道相国はまず雑色(無位の役人)を用いて、中御門烏丸にある新大納言・藤原成親卿の宿所へとやり、「必ずこちらにお立ち寄り下さい。ご相談申し上げたいことがございますから」と伝えさせると、大納言は我が身に関わることだとは全く知らなかった。哀れなことに、これはきっと法皇様の比叡山攻めの準備を、何とか宥めてやめさせようというのだろうと思い込んでしまった。法皇の御憤慨は激しくて、どうやっても宥めることなどできないのにと思いながら、綺麗な狩衣を雅やかに着こなし、見栄えのする車に乗って、3~4人の侍をお供に連れ、雑色・牛飼に至るまで、普段よりも豪勢に整えてから入道の元へ赴いた。
これが最期になってしまうとは、後になって分かることであった。西八条にある清盛邸に近付いてみると、4~5町の間に軍兵が溢れかえっている。あぁ、おびただしい数の軍勢だ、これは一体どうしたことなのかと、胸騒ぎがしたが、門前で車を降り、門の中に入ってみると、邸内にも隙間がないほどに大勢の武士たちが詰めていた。中門の出入り口には恐ろしげな武士が多数待ち受けていて、大納言を引っ捕まえて、「縄で縛り上げますか」と申し上げると、入道が簾の中からこれを見つけて、「そこまでしなくても良かろう」とおっしゃられたので、侍たち14~15人が前後左右を取り囲んで、大納言の手を掴んで縁側の上に引き上げ、一室に押し込めた。
大納言は夢の中にいるようで、全く状況が分からずにいた。大納言の供をしていた侍たちも大勢の兵士に阻まれて、散り散りになってしまった。雑色・牛飼も恐ろしくて顔色を失い、牛や車を捨ててみんな逃げ去ってしまった。
そうこうしていると、近江中将・入道蓮浄、法勝寺執行・俊寛僧都、山城守・基兼、式部大輔・正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行らも、謀反人として囚われて連れられてきた。
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