清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
46段
職(しき)の御曹司(おんぞうし)の西面(にしおもて)の立蔀(たてじとみ)のもとにて、頭の弁(とうのべん)、物をいと久しう言ひ立ち給へれば、さし出でて、(清少納言)「それは誰ぞ」と言へば、(行成)「弁さぶらふなり」と、のたまふ。(清少納言)「何か、さもかたらひ給ふ。大弁見えば、うち捨て奉りてむものを」と言へば、いみじう笑ひて、(行成)「誰か、かかる事をさへ言ひ知らせけむ。それ、『さなせそ』とかたらふなり」と、のたまふ。
いみじう見え聞こえて、をかしき筋など立てたる事はなう、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたるに、なほ奥深き御心ざまを見知りたれば、(清少納言)「おしなべたらず」など、御前にも啓し、また、さしろしめしたるを、常に、(行成)「『女はおのれをよろこぶ者のために顔づくりす。士はおのれを知る者のために死ぬ』となむ言ひたる」と、言ひあはせ給ひつつ、よう知り給へり。
「遠江の浜柳(とおとうみのはまやなぎ)」と言ひかはしてあるに、若き人々は、ただ言ひに見苦しきことどもなどつくろはず言ふに、(女房)「この君こそ、うたて見えにくけれ。異人(ことひと)のやうに歌うたひ興じなどもせず、けすさまじ」など、そしる。
さらにこれかれに物言ひなどもせず、(行成)「まろは、目は縦さまに付き、眉は額さまに生ひあがり、鼻は横さまなりとも、ただ口つき愛敬づき、おとがひの下、頸(くび)きよげに、声にくからざらむ人のみなむ、思はしかるべき。とは言ひながら、なほ、顔いとにくげならむ人は、心憂し」とのみ、のたまへば、まして、おとがひ細う、愛敬おくれたる人などは、あいなくかたきにして、御前(ごぜん)にさへぞ、あしざまに啓する。
[現代語訳]
46段
職の御曹司の西面にある立蔀の所で、頭の弁が女房と長い時間ずっと立ち話をしていらっしゃるので、私(清少納言)が顔を出して「そこにいるのは誰ですか」と聞くと、藤原行成が「弁がいらっしゃっているのです」と(わざと畏まった感じで)答える。「どうしてそんなに長くお話しておられるのですか。大弁がいらっしゃれば、その女房はあなたを打ち捨てて大弁の所に言ってしまうでしょうに」と言うと、大いにお笑いになられて、「誰がそんな事まであなたへお知らせしたのでしょうか。だからこそ、『そんな風に打ち捨てたりしないでくれ』とこの女房に話していたのです」とお答えになられた。
頭の弁は、自分を実際以上の人間だとは見せかけようとせず、風流な男であるといった噂も立てなかったので、ただありのままの平凡な姿であり、中宮に仕える女房たちもみんなそういった平凡な人なのだと思っていた。だが、私はこの頭の弁の奥深い心の様子(才覚)を見て知っているので、「人並みの人物ではありません」などと中宮にも申し上げ、また、中宮もそのことをお知りになっているので、頭の弁はいつも、「『女は自分を愛してくれる者のために化粧をする。士である男は自分の本意を知ってくれる者のために死ぬことができる』と言うではないか」と私におっしゃりつつ、私が頭の弁の才覚を認めていることも知っておられた。
「遠江の浜柳(永遠に変わらないものの喩え)」と私たちは友情を言い交わし合っていたけれど、若い女房たちは、男性の見苦しい部分などを包み隠さずに言ってしまうものなので、「この君は、本当に嫌な人で付き合いにくい。他の人のように歌を歌って遊んだりなどもしないので、面白みがなくて殺伐としている」などと誹謗していた。
頭の弁もさらに色々な女房たちに、自分のことについて話すことなどもしないで、「私は目は縦に付き、眉も額のほうに生えており、鼻が横についているという顔でも、ただ口元が可愛らしくて、顎の下や首が綺麗で、声が悪くない人であれば、好きになってしまうこともあるな。とは言いつつも、やはり顔がひどく醜い人は嫌なものだ」とばかりおっしゃる。まして、顎が細い可愛らしさのない女房などは、むやみに頭の弁を目の敵にして、中宮にさえも頭の弁のことを悪く言っている。
[古文・原文]
46段(続き)
ものなど啓せさせむとても、その初め言ひそめてし人を尋ね、下なるをも呼びのぼせ、常に来て言ひ、里なるは、文(ふみ)書きても、みづからもおはして、(行成)「遅く参らば、『さなむ申したる』と申しに参らせよ」と、のたまふ。(清少納言)「それ、人のさぶらふらむ」など言ひ譲れど、さしもうけひかずなどぞ、おはする。
(清少納言)「あるに従ひ、定めず、何事ももてなしたるをこそ、よきにすめれ」と、後見(うしろみ)聞こゆれど、(行成)「わがもとの心の本性」とのみ、のたまひて、「改まらざるものは心なり」と、のたまへば、(清少納言)「さて憚りなしとは、何を言ふにか」と、怪しがれば、笑ひつつ、(行成)「仲よしなども人に言はる。かくかたらふとならば、何か恥づる。見えなどもせよかし」と、のたまふ。
(清少納言)「いみじくにくげなれば、さあらむ人をば、え思はじと、のたまひしによりて、え見え奉らぬなり」と言へば、(行成)「実に(げに)、にくくもぞなる。さらば、な見えそ」とて、おのづから見つべきをりも、おのれ顔ふたぎなどして見給はぬも、真心にそら言し給はざりけり、と思ふに、三月つごもり方は、冬の直衣(なおし)の着にくきにやあらむ、袍(うえのきぬ)がちにてぞ、殿上の宿直(とのい)姿もある、つとめて、日さし出づるまで、式部のおもとと小廂(こひさし)に寝たるに、奥の遣戸(やりど)をあけさせたまひて、上の御前、宮の御前出でさせたまへれば、起きもあへずまどふを、いみじく笑はせたまふ。
[現代語訳]
46段(続き)
中宮に取次を頼む時でも、最初に取次を頼んだ私のことを尋ね、局にいた私を呼んで中宮の御前にまで上がらせたり、いつも局に来ては用事をいい、里に帰っている時にも、手紙を書いてきたり、自分自身も里にまでいらっしゃって、「参内するのが遅くなるのでしたら、『(頭の弁が)このように申していました』と使いを出して中宮に申し伝えて下さい」とおっしゃる。私が「そういった取次は、他の人にでも頼めばいいでしょうに」などと言って役目を譲ろうとしても、どうしても承知しない態度でいらっしゃる。
「今あるものに従って利用し、頑固なやり方を定めず、何事にも柔軟に対処することこそ、良いやり方とされていますのに」と、注意するような感じで言ってみたのだが、「これは私の心の本性だから」とだけおっしゃって、「改めることができないのは人間の心の本性だと言うではないか」と言われるので、「それでは改めることに憚るところがないというのは、どういった意味なのですか」と不思議そうに聞くと、頭の弁(藤原行成)はお笑いになられて、「仲が良いとも人々に言われている。そのように噂をされているのであれば、どうして恥ずかしがる必要があるのか。直接、会ってくれても良いではないか」とおっしゃる。
「とても容姿が良くないので、そういった人は好きになれないとあなたがおっしゃっていたので、(容姿の美しさ・可愛さに自信がなくて)直接お会いすることができないのです」と言うと、「本当に、(そんなに容姿が悪いのであれば)嫌いになってしまうな。それなら、会わないようにしよう」と言って、自然に顔を見られるような機会があっても、自分で顔を袖で隠したりなどして私の顔を見なかったので、本当にこのお方は嘘をつかないのだなと思っていた。しかし三月の終わり頃、冬の厚い直衣が着にくかったのだろうか、殿上の間で宿直する人たちにも袍だけの姿が多く見られ、翌朝、日が出てくるまで、式部のおもとと小廂に寝ていたところ、奥の遣戸をお開きになられて、帝と中宮がいらっしゃったので、突然のことで起き上がることもできず混乱していたのを、頭の弁はひどくお笑いになられた。
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