『枕草子』の現代語訳:49

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『さて、雪の山つれなくて、年も返りぬ~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

83段:続き

さて、雪の山つれなくて、年も返りぬ。一日の日の夜、雪のいと多く降りたるを、うれしくもまた降り積みつるかな、と見るに、「これは、あいなし。はじめの際をおきて、今のは掻き捨てよ」と、仰せらる。

局(つぼね)へいと疾く(とく)下るれば、侍の長なる者、柚(ゆ)の葉の如くなる宿直衣(とのゐぎぬ)の袖の上に、青き紙の松に付けたるを置きて、わななき出でたり。

(清少納言)「それは、いづこのぞ」と問へば、「齋院(さいいん)より」と言ふに、ふとめでたうおぼえて、取りて参りぬ。

まだ大殿籠り(おおとのごもり)たれば、まず御帳(みちょう)にあたりたる御格子(みこうし)を、碁盤などかき寄せて、一人念じ上ぐる、いと重し。片つ方なれば、きしめくに、おどろかせ給ひて、(宮)「など、さはすることぞ」と、のたまはすれば、(清少納言)「齋院より御文のさぶらはむには、いかでか急ぎ上げ侍らざらむ」と申すに、「げに、いと疾かりけり(とかりけり)」とて、起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる卯槌(うづち)二つを、卯杖(うづえ)のさまに頭などを包みて、山橘(やまたちばな)、日かげ、山菅(やますげ)など、美しげに飾りて、御文はなし。ただなるやう有らむやは、とて、御覧ずれば、卯槌の頭包みたる小さき紙に、

山とよむ斧の響きを尋ぬれば祝ひの杖の音にぞありける

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[現代語訳]

83段:続き

さて、雪の山は変わらずに、年が改まった。一日の日の夜、雪がたいそう多く降ったのを、嬉しいことにまた降り積もったかなと見ていると、中宮が「これは、話が違う。初めの雪の部分をそのままに、今積もった雪は掻いて捨てなさい」とおっしゃられた。

局へとても早く下りると、侍の長の者が柚の葉のように青い宿直衣の袖の上に、青い紙の松の枝に付けた手紙を置いて、寒さに震えながら出てきた。

清少納言が「それは、どこからのお手紙ですか」と問うと、「斎院からです」と言うので、すぐに素晴らしいと思って、手紙を取ってから参上した。

まだ中宮はお眠りだったので、まず御帳台の前に当たる御格子を、碁盤などを引き寄せて、一人で力を入れて上げるが、とても重たい。格子の片方だけを持ち上げるので、ぎしぎしと音が鳴り、中宮が目を覚まされて、「どうして、そんな事をするのか」とおっしゃられた。清少納言は「斎院からお手紙がございましたから、どうして急がないでいられましょうか」と申し上げると、「本当に、とても早いお手紙ですね」と言って、お起きになられた。お手紙を開いて御覧になると、五寸ほどの長さの卯槌二つを、卯杖に見立てて頭の所を紙に包んだりして、山橘、日かげ、山菅などの草木で美しく飾って、お手紙はない。何もないはずがないだろうと、よく御覧になると、卯槌の頭を包んだ小さい紙に、

山とよむ斧の響きを尋ぬれば祝ひの杖の音にぞありける

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[古文・原文]

83段:続き

御返り書かせ給ふほども、いとめでたし。齋院には、これより聞えさせ給ふも、御返りも、なほ心異(こと)に、書きけがし多う、御用意見えたり。御使に、白き織物の単衣(ひとへ)、蘇枋(すほう)なるは梅なめりかし。雪の降りしきたるにかづきて参るも、をかしう見ゆ。そのたびの御返しを、知らずなりにしこそ、口惜しう。

さて、その雪の山は、誠の越のにやあらむと見えて、消えげもなし。黒うなりて、見るかひなきさまはしたれども、げに勝ちぬる心地して、いかで十五日待ちつけさせむと、念ずる。されど、(女房)「七日をだにえ過ぐさじ」と、なほ言へば、いかでこれ見果てむと、皆人思ふほどに、にはかに内裏(うち)へ三日入らせ給ふべし。いみじうくちをし。この山の果てを知らでやみなむ事、と、まめやかに思ふ。

異人(ことひと)も、「げに、ゆかしかりつるものを」など言ふを、御前にも仰せらるるに、同じくは言ひあてて御覧ぜさせばやと思ひつるに、かひなければ、御物の具ども運び、いみじう騒がしきにあはせて、木守(こもり)といふ者の、築地(ついじ)のほどに廂(ひさし)さしてゐたるを、縁のもと近く呼び寄せて、「この雪の山いみじう守りて、童などに踏み散らさせず、壊たせで(こぼたせで)、よく守りて十五日までさぶらへ。

その日まであらば、めでたき禄(ろく)賜はせむとす。私にも、いみじき悦び言はむとす」など、語らひて、常に台盤所(だいばんどころ)の人、下衆(げす)などに乞ひてにくまるるを、果物や何やと、いと多く取らせたれば、うち笑みて、(木守)「いと易きこと。たしかに守り侍らむ。童(わらはべ)ぞ、登り侍はむ」と言へば、(清少納言)「それを制して、聞かざらむ者をば申せ」など言ひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、七日まで侍ひて、出でぬ。そのほども、これが後めたければ、おほやけ人、すまし、長女(をさめ)などして、絶えずいましめにやる。七日の節供(せっく)のおろしなどをさへやれば、拝みつること、など笑ひあへり。

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[現代語訳]

83段:続き

御返事をお書きになる中宮も、とても素晴らしい。斎院には、こちらからお手紙を差し上げる時にも、また御返事を差し上げる時も、やはり気持ちを特別なものとして、書き間違えも多く、そのご配慮が手紙に見えている。斎院からのお使いに下賜されたのは、白い織物の単衣、蘇芳色に見えたのは梅がさねであったようである。雪の降り敷いた中を、それらの衣装を肩に打ち掛けて帰っていく姿も、美しいものに見えた。その時の御返歌を、知らないままで終わってしまったことは、残念なことである。

さて、その雪の山は、本物の越の白山もかくやと思えるほどに見えて、消える様子もない。黒く汚れて、見る甲斐もない姿になっているけれど、本当に賭けに勝ったという気持ちがして、何とかして十五日まで持たせたいものだと、お祈りをする。けれど、女房たちは「七日を越すことはないでしょう」などと言うので、どうにかしてこの雪の山の行く末を見届けようと、みんなで思っていたのだが、突然、中宮が三日に内裏へと入ることになってしまった。とても残念なことである。この山の終わりを知らないで終わった事が残念だったと、本当に思う。

他の女房も、「本当に、雪の山がどうなるか知りたかったものを」などと言うし、中宮にもそう伝えたが、同じことなら言い当てて御覧にいれようと思っていたのに、どうしようもないので、中宮の引越しの道具を運んで、とても騒がしくしている時に、木守という者が築地塀のところに廂を出して住んでいる、それを縁の近くにまで呼び寄せて、「この雪の山を大事に守って、子供たちに踏み散らさせずに、壊させずに、よく守って十五日までそうしていなさい。その日まで山が残っていたら、素晴らしい褒美を差し上げましょう。私からもお祝いの言葉をかけましょう」

などと語って、いつも台盤所の女房や下僕などに下さいといって憎まれている、果物や何やを、沢山持たせて上げた。木守の者は微笑んで、「簡単なことです。確かに守っていましょう。子供達が登るかもしれませんが」と言うので、「それを止めて、言うことを聞かない子供がいれば伝えよ」などと言い聞かせて、中宮が内裏にお入りになったので、七日までお供をして一緒にいて退出した。その時も、この雪の山が気になっていたので、女官のすましや長女などという者を遣わして、絶えず雪の山に注意を向けさせていた。七日の節供のお下がりなどまでやった時に、雪の山が消えないようにと拝んでいたことなどを、みんなで笑い合った。

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