『豆腐(とうふ)』は日本料理・和食を代表する食材であるが、元々は肉・魚を使わない精進料理として作られる『禅宗の懐石(懐石料理)』の一品として、日本に中国から導入されたと考えられている。しかし、最も古い豆腐伝来の仮説では、日本に中国から豆腐が入ってきたのは奈良時代であるとされている。
しかし日本の文献で『豆腐』という言葉が初出するのは、平安時代末期の1183年に書かれた奈良の春日大社(かすがたいしゃ)の神主の日記である。禅僧・貴族の日記などの文献に盛んに豆腐という言葉がでてくるのは14世紀頃からなので、日本の豆腐は禅宗・禅僧が食べていた肉・魚を使わない『精進料理』との関わりが非常に深いという特徴がある。
古代中国における豆腐の起源の仮説には、『漢王朝の劉安(りゅうあん)による豆腐創始の仮説』と『篠田統(しのだおさむ・1899-1978,食物史学者)氏の遊牧民の食文化にあったチーズの模倣による豆腐創始の仮説』などがある。漢王朝の劉安(りゅうあん,紀元前179年~紀元前122年)とは、漢の王家である劉氏に連なる人物で、楚の項羽(こうう)に勝った前漢の創始者の劉邦(りゅうほう)の孫に当たり、『淮南王(わいなんおう)』に封じられていた。劉安は豆腐創始の伝説的エピソードだけでなく、諸子百家の影響を受けた思想書の『淮南子(えなんじ)』を書いたことでも知られる。
日本の食文化の歴史研究に関する論文・著書の多い食物史学者の篠田統氏は、劉安の『淮南子』に『豆腐』という言葉が記載されておらず、宋代の官僚・陶穀(とうこく)の歴史書『清異録(しんいろく)』に『豆腐』という言葉が初めて書かれたとして、豆腐の歴史は劉安が考え付いたとする仮説よりもかなり新しいものだと推測している。古代中国では劉備が興した後漢が『黄巾の乱』によって滅亡に向かい、北方遊牧民族が中国大陸にも進出してきて、『魏晋南北朝(184年~589年)』という多くの王朝が乱立する群雄割拠の戦国時代に突入していった。
魏晋南北朝や唐王朝(大唐帝国)の時代は、『国際的な時代』であると同時に漢民族(元々の中国人)以外の『北方遊牧民の文化・食物』が大量に流入してきた時代でもある。『羊・牛の乳』を乳糖を乳酸へと発酵させてタンパク質を固まらせて作った『チーズ(乳腐)』もその時に中国に入ってきた食物の一つだった。唐(618年~907年)は特に牛・羊の乳やチーズといった乳製品が好んで食べられた(飲まれた)時代であるが、唐末期に入ると国際的文化は衰退して北方遊牧民の食文化・食品もあまり手に入らなくなっていったと推測されている。
『チーズ(乳腐)』は唐の時代に非常に好まれていたが、次第に牛・羊を遊牧させて乳を搾っている北方遊牧民が中国大陸から北方に再び戻っていき、基本的に農耕民である漢民族(中国人)はそれまで好んで食べていたチーズを食べられなくなっていったというのである。チーズが食べたいが家畜を飼っておらず乳製品の製法の知識もない漢民族の中で、チーズを模倣した『豆腐』なるものが考案されて製造されるようになったとするのが篠田統氏の仮説である。
豆腐の発想は、大豆を水に浸けてからすり潰して煮て、それを絞って豆乳を作るところから始まり、豆乳に何らかの偶然で『ニガリ(塩化マグネシウム)・石膏(硫酸カルシウム)』が加わったことで豆乳が凝固して豆腐が作られたのだと推測されている。豆乳に『ニガリ(塩化マグネシウム)・石膏(硫酸カルシウム)』が加わった偶然の可能性は、豆乳には味がほとんどないので、それに塩(ニガリ含む)・岩塩(石膏含む)で味付けをしようとして凝固したのではないかと考えられる。豆腐を作るためには、煮た大豆をすり潰す『石臼(いしうす)』が大きな役割を果たした。
この仮説は確かに一定の説得力があるが、その弱点を上げるなら『国際的帝国の唐が衰えたとしても唐は数百年も続いたのだから、漢民族にとっても普及品だったチーズの製法が完全に分からなくなる可能性はそれほど高くないのではないかということ』と『チーズ(乳腐)と豆腐は漢字をはじめ何となく似ているが、それでも模倣品や代替品と言えるほど味覚の共通性があるわけではないということ』があるだろう。
中国では豆腐の製作と一緒に、豆腐を煮立てた時にできる薄皮の『湯葉(ゆば)』も食べられており『豆腐皮・油皮』と呼ばれたが、この湯葉は日本の精進料理でも定番の料理として出されるようになった。中国で食べられていたにおいの強い豆乳の発酵食品である『豆腐干・腐乳』は日本には伝わっておらず、また日本の食文化や当時の日本人の味覚にも合わずに受け入られにくかったのだろう。
現代の日本でも大人気の料理である『おでん』の、歴史的な元々の言葉は『おでんがく(お田楽)』という京都・朝廷の御所言葉であり、『田楽(でんがく)』はおでんの祖形と考えられている。田楽というのは、豆腐料理である『田楽焼き・田楽豆腐』の略称であり、元々は豆腐に味噌をつけて焼いた料理であり、豆腐を長方形に切って竹の串に刺して囲炉裏端で焼いていたのである。
田楽(でんがく)というのは猿楽(さるがく)と並んで、室町時代の農村社会の田植えの祭りであり芸能であった。味噌をつけた豆腐を焼いた豆腐料理をなぜ田楽というのか。室町時代には田植え祭りの時、田楽法師が白袴に黒色・茶色の衣を着て『高足(たかあし)』という竹馬に乗って踊っていたのだが、その竹馬に乗った田楽法師の姿が竹の串に刺して焼いた長方形の豆腐料理と似ていたというのが『田楽の名前の由来』になっている。
今では田楽(でんがく)や味噌田楽というと、『焼いた豆腐』ではなく『煮た蒟蒻(こんにゃく)』に味噌を塗ったものをイメージしやすいが、江戸の『寛永期(1624年~1644年)』に茶店で売られるようになっていた豆腐田楽は、『元禄期(1688年~1704年)』に豆腐からコンニャク田楽へと変わっていったのである。豆腐からコンニャクへと田楽の食材が移り変わる中で、コンニャク以外にも田楽に使われる食材の様々な組み換えが行われていくことになった。
熱い石に当てて水分を飛ばしたコンニャクに味噌をつける『焼き田楽』から、味噌やしょうゆを使って汁物(味噌汁・すまし汁などのスープ)を作る『煮込み田楽』への変化も生まれた。田楽(でんがく)という料理の多様化とアレンジが安土桃山時代以降に急速に進んでいったのだが、豆腐・大根・ゴボウ・里芋・タケノコ・魚などを入れた煮込み田楽(すまし汁)の『あつめ汁』も田楽の変形の一つであった。
色々な具材がたくさん入った『あつめ汁とコンニャク田楽が融合したもの』が、現代まで続く『おでんの原型』なのであり、江戸時代に屋台などで売られていた煮込み田楽(色々な具材を串に刺して煮込んだ料理)が『おでん』になっていったのである。
幕末の寺門静軒(てらかどせいけん)著『江戸繁昌記(えどはんじょうき)』には、愛宕山周辺に『四文屋(よんもんや)』というおでん屋の元祖とも言えるお店(芋・豆腐などを串で刺して煮込んだ料理を出すお店)があったことが書き残されている。おでんは江戸の庶民料理・家庭料理として普及していったが、本来の田楽とは似て非なるものであったため、関西地方では『関東だき』と呼ばれていた。明治・大正時代以降も、更に色々な具材を加えて、旨みのある独特な出汁(だし)で煮込む座敷料理としておでん(お田楽)は発展していき、現代の『おでん』へと近づいていったのである。
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