羊蹄山(ようていざん, 1898m)

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羊蹄山の標高・特徴・歴史

羊蹄山の標高は、『1898m』である。登山難易度は、中級者向けの山である。羊蹄山は道央にそびえる独立峰であり、富士山に似た円錐形の山容(シルエット)から『蝦夷富士(えぞふじ)』とも呼ばれる。羊蹄山は道央の最高峰である。

羊蹄山の登山口のアクセスは、JR北海道・函館本線の『倶知安駅(くっちゃんえき)』か『ニセコ駅』が起点となる。羊蹄山の登山口までは『倶知安駅から羊蹄山登山口までの道南バス(約10分)→倶知安(比羅夫)登山口』、『ニセコ駅から羊蹄山登山口までのニセコバス(約15分))→倶知安(比羅夫)登山口』である。

あるいは、『倶知安駅から羊蹄山自然公園入口までの道南バス(約35分)→真狩登山口』、『ニセコ本通から羊蹄山自然公園入口までの道南バス(約15分)→真狩登山口』である。いずれも運行期間限定で便数も少ない(廃線の恐れもある)、事前の問い合わせをしっかりしておく必要がある。

蝦夷富士という堂々とした呼称に相応しく羊蹄山は端正なシルエットをしているが、アイヌ人はこの山を『マチネシリ(女山という意味)』と呼んできた。女山であるマチネシリの羊蹄山と対を為していたのが、『ピンネシリ(男山という意味)』と呼ばれていた尻別岳(しりべつだけ)である。

羊蹄山は周囲の山々とつながっていない典型的な独立峰であり、『雲上の庭園』とも称される素晴らしい独自の生態系を持つお花畑がある。200種類以上はあるとされる高山植物の宝庫と植物の垂直分布の棲み分けが織り成す雲上の庭園は『天然記念物』にも指定されていて、特に羊蹄山避難小屋から火口壁に向かう斜面にあるお花畑が有名である。季節によってはキバナシャクナゲ、ハクサンチドリ、ハイオトギリなどの美しい花を観賞することができる。

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アイヌの創世記的な伝説では、世界のはじめは世界が海で覆われていたが、その広大な海面からマチネシリ(羊蹄山)の頂上だけが突き出ていたのだという。その海から出ていた羊蹄山の山頂に、アイヌの創造神であるコタンカラカムイが降臨して、世界に次々と陸地を作り出していったのだと伝えられている。

『日本百名山』を書いた深田久弥(ふかだきゅうや)は、近代日本における羊蹄山という命名には批判的で、『日本書紀』に古代から記載されていた『後方羊蹄山(しりべしやま)』という呼び方のほうを気に入っていたようである。羊蹄山の融雪期には、火口の穴に雪解け水が溜まり湖が形成されるが、期間限定のこの湖は『幻の湖』として上級登山者に愛されてきた。羊蹄山周辺の火口湖として有名なのは、『半月湖畔自然公園』にある『半月湖』で、湖の周囲を原生林で覆われており神秘的な澄んだ雰囲気が漂っている。

羊蹄山は成層火山であるが、現在は休火山として長年活動を停止しているので噴火の恐れはまずない。頂上付近には『父釜・母釜・子釜』と呼ばれる3つの火口があり、噴火の作用によって大きな穴が抉られてできた父釜は特に景観の迫力が際立っている。火口跡は登頂した登山者にとって見ごたえのある景色を作っているが、360度の展望が開けている羊蹄山の山頂は特に見晴らしが良い。北にニセコ連峰の山々、南には洞爺湖を臨むことができる。京極登山口方面には、京極温泉や川上温泉といった温泉もある。

羊蹄山は『日本名水百選』に選ばれるほどの美味しい水が湧き出している山でもあり、ふきだし公園にある『羊蹄山ふきだし湧水』が一度は飲んでおきたい名水である。羊蹄山自然公園入口のバス停付近にも『羊蹄山の湧き水(真狩村)』があるが、この湧き水は雪解け水が数十年かけて濾過された美味しい水であり、アイヌの人からは『カムイワッカ(神の水)』と呼ばれていた。

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深田久弥の羊蹄山への言及

深田久弥は著書『日本百名山』で、羊蹄山を『後方羊蹄山(しりべしやま)』として記しており、標高も現在の1898mではなく1893mとしている。函館から札幌に向かう汽車から見える山で格別に目を引くものとして、駒ケ岳と後方羊蹄山(しりべしやま)を上げているのだが、深田久弥は羊蹄山という省略形の呼び方に強く反対して、『なぜ古代の日本人が後方羊蹄山と書いて“しりべしやま”と読ませたのかの理由』についてかなり長い説明をしている。

深田久弥は『日本書紀』で斉明朝五年(659年)の段階で、既に『後方羊蹄山(しりべしやま)』という呼び方が記述されているのだという。658年に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷(アイヌ)を討伐してこの地に政所(まんどころ)を置いたという伝説があり、その時から『後方(しりへ)=後ろという意味』と『羊蹄(し)』という読み方がされていたようである。

『羊蹄』という漢字を『し』とだけ読ませるのはかなり変わった読み方であるが、深田は奈良時代の万葉集の時代にもそういった事例があるという。なぜそういった読み方をするのかの理由を、深田は植物学者・牧野富太郎(まきのとみたろう)の植物随筆の知識を活かして解き明かしているのだが、『羊蹄』というのは元々『ぎしぎしという野草の漢名』であり、古代ではこの『ぎしぎし』の草のことをただ『し』と呼んでいたのだという。ぎしぎしの葉っぱの形が羊の蹄(ひづめ)に似ていたことから『羊蹄』という漢字が当てられたのだが、深田は『山の名前は昔からのものを尊重したい』という思いから、私はこの山の名前を敢えて省略せずに『後方羊蹄山(しりべしやま)』と呼びたいとしている。

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後方羊蹄山のアイヌ語の呼び方として上記した『マチネシリ』ではなく『マッカリヌプリ』を上げており、村上啓司氏の学説を引いてマッカリは元は川の名前(現在の真狩川の名前)であり、川の近くにある山ということでマッカリヌプリと呼ばれていたのだろうと推測する。後方羊蹄山の北には『尻別川』、南には『真狩川』が山を廻るようにして流れているからであり、尻別のシリ・ペツは『山の・川』という意味になっている。後方羊蹄山の『しりべしやま』の読み方も、この『尻別(シリ・ペツ)』と何らかの相関があるのではないかと考えている。

幕末の蝦夷探検家・松浦武四郎(まつうらたけしろう)『後方羊蹄日誌』にも言及している。ここに雄岳(男山,ピンネシリ)と雌岳(女山,マチネシリ)の区別が記されており、雄岳が尻別岳(後方羊蹄山の東南の1107m)、雌岳が後方羊蹄山(蝦夷富士)に当たると説明されている。松浦武四郎はこの雄岳・雌岳の下に祠を祀ろうと志して、標高の低い雄岳の下に安政5年(1858年)に祠を置いている。

松浦は後方羊蹄山には一泊二日で登頂しているのだが、2月という厳冬期に北海道の山に登ったというのは、幕末の時代背景や登山装備の貧弱さを考えれば凄いことであろう。松浦武四郎は1858年2月3日に二合目で一夜を過ごしたが寒すぎてまともに眠れず、翌日4日の早朝から登山を開始、四合目で朝日(日の出)を拝み、六合目で森林帯を抜け、八合目から険しい登攀をやり遂げて、午後にやっとの思いで登頂したのだという。

深田久弥本人の後方羊蹄山の登山は、比羅夫駅から出発して羊蹄山登山口(比羅夫登山口)・半月湖から登り始めたのだが、富士山登山と同じく無味乾燥な景観が続いてあまり楽しいものではなかったようである。『比羅夫駅』は貧弱な停車場に過ぎず駅前にも小さな雑貨屋しかないと嘆き、『おどろいたことには途中沢もなく水もなく、何の変化もない道をただひたすらに、富士山のように登るのである』とか『それから上は霧の中を一途な急坂で、登山というより体操訓練の一種でしかなかった』とか書き残している。

当時も頂上付近には山小屋(現在の旧小屋跡)があって小屋の番人まで駐在していたようだが、深田は後方羊蹄山に登頂してからも霧の影響で景観には恵まれず、霧で何も見えない乳白色の中を旧火口を一周して下山の途についたようである。下山した時には、もうとっぷりと日が暮れて夜になっていたが、当時の山麓はひたすらに広大な真っ暗な原野であった。富士山や後方羊蹄山(蝦夷富士)のような威風堂々とした円錐形の独立峰は、『実際に山に登ってみる道のり・景色』より『少し離れて仰ぎ見る時の山容・山のシルエット』のほうが見た目は美しい(離れて見る景観のほうが素晴らしい)ということは多いものである。

参考文献

深田久弥『日本百名山』(新潮社),『日本百名山 山あるきガイド 上・下』(JTBパブリッシング),『日本百名山地図帳』(山と渓谷社)

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