『歎異抄』の第二条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第二条

一。おのおの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文(ほうもん)等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。

もししからば、南都・北嶺(なんと・ほくれい)にもゆゆしき学生(がくしょう)たち、おほく座せられて(おわせられて)さふらうなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。

念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じて(そうじて)もて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余(じよ)の行(ぎょう)もはげみて仏(ぶつ)になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈(おんしゃく)虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。

法然のおほせまことならば、親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

[現代語訳]

あなた方は、遠い関東から十余りの国の国境を越えて、生命の危険を顧みずに(京都の草庵に住まう)私を訪ねて来られたが、その気持ちは私から極楽往生の方法を聞き出したいというところにあるのでしょう。しかし、私が念仏以外の極楽往生の方法を知っていて、更に往生の奥義が記された秘密の経典まで知っているのに、それを皆さんに隠していて憎らしいと思われているのであれば、それは大きな過ちですよ。

もしそう思っているのであれば、奈良の興福寺・比叡山の延暦寺にいらっしゃる学問を修めた大勢の学僧にお会いになられて、極楽往生の要点について色々と聞いてみると良いでしょう。私親鸞と致しましては、ただ念仏をして阿弥陀仏に助けられて往生できるという、師の法然がおっしゃったことをこうして信じることより他に、別の理由などはないのです。

念仏というのは、本当に浄土に生まれるための種(理由)になるのだろうか、あるいは地獄に落ちてしまう悪業になってしまうのだろうか。私は総じてこういった問題については何も分からないのです。例え、法然聖人に騙されていて、念仏をして地獄に落ちたとしても、全く後悔は致しません。その理由は、念仏以外の修行に励んで仏になれる身でありながら、念仏を唱えて地獄に落ちてしまったというのであれば、法然聖人に騙されてしまったという後悔の気持ちも起こるでしょう。

しかし、いずれの厳しい修行・学問による悟りにも及ぶことのない未熟者の身ですから、(念仏しなければ)地獄を永遠の棲家にするしかないのです。阿弥陀仏の本願が本当でいらっしゃれば、釈尊が『三部経』で示された説教が嘘であるはずがありません。釈尊の仏説が本当であれば、それを解釈した善導大師の注釈書が嘘であるはずがありません。善導大師の注釈が本当であれば、法然聖人のお言葉がどうして嘘になることがあるでしょうか、いや、嘘であるはずがないのです。

法然聖人のおっしゃることが本当であれば、親鸞が申し上げている極楽往生の方法も、また嘘ではないということになるでしょう。私の考えている事柄、愚かな我が身の信心のあり方はこのようなものです。結局は、念仏の教えを信じようとするのも、念仏を捨ててしまうのも、皆様それぞれのお考え次第(皆様が念仏を信じるも信じないも自由)なのです。

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