雨過ぎて青苔潤う(あめすぎてせいたいうるおう):松尾芭蕉

スポンサーリンク

雨過ぎて青苔潤う
(あめすぎてせいたいうるおう)

松尾芭蕉(まつおばしょう)

[出典]
『本朝参禅録』

[意味・エピソード]

松尾芭蕉(まつおばしょう,1644年-1694年)は紀行文『奥の細道』を書いた日本史上最高の俳人・俳諧師として知られるが、芭蕉は禅宗(座禅)にも興味を持っていた。松尾芭蕉には、鹿島にある根本寺の仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)について参禅していた時期があり、芭蕉と仏頂には個人的交遊もあった。

ある梅雨晴れの日、仏頂は久しぶりに江戸深川にある『芭蕉庵』を訪ね、仏頂の姿を見つけた芭蕉は喜んで庵から駆け出てきた。そして、松尾芭蕉は仏頂和尚と正面から顔を見合わせた瞬間に、芭蕉なりの『悟りの境地』に達して、俳諧にも応用可能な物事をあるがままに見る『悟りの目線』を手に入れたらしい。

芭蕉の顔色や様子がいつもと違うことを見てとった仏頂和尚は、『近日何の事かある(最近何か良いことでもあったのか)』と問いかけた。

スポンサーリンク

その仏頂の問いかけに対して、松尾芭蕉は『雨過ぎて青苔潤う(あめすぎてせいたいうるおう)』とさらりと答えたのである。雨過ぎて青苔潤うという言葉の意味は単純なもので、『梅雨時期の雨が過ぎ去った後に青苔がその水を受けて潤っている、何と美しいのだろうか』という意味である。梅雨の雨上がりの青苔の様子について、ありのままに飾らずに述べた言葉である。

芭蕉が得たとされる『悟りの眼』『心眼(しんがん)』というように言い換えることもできるが、心眼を開いた者は『真如実相(しんにょじっそう)』を見抜くことができるようになるのだという。真如実相というのは、物事のあるがままの姿、修飾されていない物事のそのままの実在といった意味である。

楽天AD

松尾芭蕉が俳諧師として歴史的な業績を残せた要因の一つが、この『真如実相を見る心眼(悟りの眼)』にあったと考えてみるのも面白い。しかし、仏頂和尚は芭蕉の『雨過ぎて青苔潤う』の言葉だけでは悟ったとは認めず、更に『如何なるか是れ青苔未成(せいたいみせい)以前の仏法』という突っ込みを入れた。青苔などが生じる遥か以前から普遍の真理を伝える仏法はあったのだぞという突っ込みである。

仏教用語には、物事の兆しさえまだ芽生えていないという意味の『朕兆未萌以前(ちんちょうみぼういぜん)』という言葉があるが、仏頂和尚は芭蕉の青苔の美しさをまだ悟りには達しておらず甘いと見ていたのである。しかし松尾芭蕉はそういった仏頂和尚の極端な普遍性や朕兆未萌以前(ちんちょうみぼういぜん)を求める批判に対して屈することはなく、言下に『蛙飛び込む水の音(かわずとびこむみずのおと)』という余りにも有名な一句を読んで返したのである。

『古池や 蛙飛び込む 水の音』、衒い(てらい)も気取りもなくありのままの自然の情景を心眼で切り取った会心の一句、この瞬間に『蕉風(しょうふう)』と呼ばれる俳諧の芸術的感覚が開眼したとも言える。

参考文献
有馬頼底『茶席の禅語大辞典』(淡交社),秋月龍珉『一日一禅』(講談社学術文庫),伊藤文生『名僧のことば 禅語1000』(天来書院)

スポンサーリンク
関連記事
Copyright(C) 2017- Es Discovery All Rights Reserved