前回の記事では、出雲国の大国主命による『国譲り』について書きましたが、ここでは、ニニギの天孫降臨以降の血統の流れと天神の東征による神武天皇の誕生について説明します。火遠理命(山幸彦)とワニの本性を持つ豊玉姫の子として、ウガヤフキアエズノミコト(鵜草葺不合命)が誕生しますが、 ウガヤフキアエズは母・豊玉姫の妹の玉依姫(タマヨリヒメ)に養育されました。成長するとその叔母の玉依姫と結婚して、五瀬命(イツセ)・稲飯命(イナヒ)・御毛沼命(ミケヌ)・若御毛沼命(ワカミケヌ)という4人の子どもを生みます。
御毛沼命(ミケヌ)は常世へ渡り、稲飯命(イナヒ)は母親のいる海原へ行きましたが、4人の子は成長すると更に豊かで美しい国を求めて、大勢の配下の軍隊(舟軍)を引き連れて東の方角へと『東征(東方遠征)』を開始します。天孫降臨の地である九州の日向国・高千穂を出た四人は、筑紫や豊後(現在の大分県)の宇佐、安芸(広島県)、吉備(岡山県)などを通って土地土地の豪族を倒して攻略しながら、16年の長い歳月をかけて難波(大阪府)へと到着しました。豊後(豊国)の宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人は仮宮を作ってくれて食事も献上してくれました。岡田宮で1年ばかりの時を過ごし、四国・阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)では7年を過ごし、吉備国の高島宮で8年を過ごしたために、難波(浪速)に着くまでに16年の期間がかかったのでした。
4人の命(みこと)は、難波の土地も攻略して支配しようとしましたが、そこには長髄彦(ナガスネヒコ)という強力な豪族がいて、軍隊を組織して抵抗してきました。大軍による攻撃を受けた戦況は不利な状況になり、長男のイツセはナガスネヒコの軍勢が放った矢に当たってしまいます。深手の負傷をしたイツセは、『我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うと十分な力を発揮できない。敵軍の背後に廻り込み日を背にしながら西を向いて戦おう』という作戦を語りました。この作戦を実行するために一行は南紀の熊野に向かいますが、イツセは紀国の男之水門に着いた辺りで、弓矢の傷が元で命を落としました。
更に南紀の熊野に向かう海路で嵐に巻き込まれてしまい、イナヒとミケヌの二人の兄も、海の果ての常世と海神の国とに流されて遭難してしまいました(実質的に葦原中国に戻れないという意味で死んでしまいました)。最後に一人残された末弟のカムヤマトイワレビコ(ワカミケヌ)は、何とか軍勢を伴って熊野に上陸したのですが、そこで大熊と出会ってその霊力(毒気)によってイワレビコと全軍は失神してしまいました。熊野の豪族の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってきて献上すると、カムヤマトイワレビコはすぐに失神から目を覚ましました。神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)がその霊威のある太刀を受け取って振ると、熊野の荒ぶる神・邪神は自然に滅ぼされていき、失神していた兵士も気絶から回復しました。
タカクラジによると、この不思議な霊剣は、夢の中で天照大神と高木神がイワレビコの危機を救うために建御雷神(タケミカツチ)を遣わそうとし、タケミカツチが自分の代わりに地上に投げ落とした剣だといいます。タカクラジは、夢に現れたタケミカツチが『倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるので天神の御子の元に持って行って欲しい』というのを聞いて、目ざめると倉の中にその霊剣があったのでここまで持ってきたのだといいます。この霊剣はフツノミタマと呼ばれており、その後に、大和地方の石上神宮(いそのかみじんぐう)に祀られる事になりました。
フツノミタマの霊力の助けを借りながらイワレビコは進軍を続けていきます。高木神(タカミムスビ)が案内役として使わした八咫烏の導きもあって、吉野川周辺にまで出て、そこにいた尾(しっぽ)のある国津神の集団を服属させました。大和の宇陀では兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいて、兄のエウカシは宮殿に天上が落ちてくる罠を仕掛けて、イワレビコを倒そうと画策します。しかし、弟のオトウカシが裏切ってイワレビコらに罠の存在を密告したため、エウカシは『天神の御子を招く宮殿であるなら、まずはお前が入って安全を確認しろ』と言われ、自分が仕掛けた罠に押し潰されて落命しました。エウカシに弓矢を向けて宮殿に入るように要求したのは、大伴連の祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直の祖の大久米命(オオクメ)という天津神でしたが、大伴と久米の子孫は後のヤマト王権において有力な豪族となりました。
忍坂の地では、蛮族とされる土雲の八十建(ヤソタケル)がいましたが、八十建というのは『多くの勇敢な首長』という意味であり、地方の首長・豪族の連合軍であったとも考えられています。カムヤマトイワレビコは、八十建との戦いにおいて計画的な謀略を用いて勝利しました。その謀略というのは、御馳走を振る舞うという名目で八十建に対して、それぞれ80人の暗殺者としての調理人をつけて、合図と同時に一斉に八十建を倒してしまうというものでした。土雲の八十建を征服した後には、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟の豪族を倒して、更に兄のイツセの仇敵であるナガスネヒコをもイワレビコは滅ぼすことに成功したのでした。カムヤマトイワレビコの軍勢は敵と戦闘をする際に、『みつみつし 久米の子らが…』という久米部の豪族の歌を歌っていたとされており、これは古代の軍歌・戦歌の『久米歌』として知られています。
ナガスネヒコは邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)という神の加護を受けていたため、強大な武力を発揮することが出来ていたのだが、ニギハヤヒはイワレビコに服属することを決めて、ナガスネヒコにも降伏するようにも勧めるのですが、ナガスネヒコはその説諭を聞き入れません。説得することは不可能と判断したニギハヤヒはナガスネヒコを殺害して、そのままイワレビコに降伏して帰順しました。ニギハヤヒはイワレビコに天津神の御子としての証明である『印璽』を奉納して帰順し、荒ぶる神と邪神、賊軍を服属させたイワレビコは大和を平定することが出来ました。
大和を平定したカムヤマトイワレビコは西暦紀元前660年2月11日に、畝火・畝傍(うねび)の橿原の宮(かしわらのみや)で初代・神武天皇(紀元前660年2月18日?-紀元前585年4月9日?)として即位したとされます。神武天皇はその在位期間が縄文時代であり、生物学的限界を超えた長寿であることを考えても、実在の天皇ではないとされますが、記紀の日本神話においてはこの初代の神武天皇から皇統の系譜が始まる事になります。神武天皇は大物主神の娘・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后として、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ,後の綏靖天皇)の三柱の御子を設けています。
初代の神武天皇の後は、2代・綏靖天皇、3代・安寧天皇と続いていきますが、12代の景行天皇(けいこうてんのう,在位71年8月24日 - 130年12月24日)には、大碓命(おおうすのみこと)と小碓命(おうすのみこと)という兄弟の子がいました。景行天皇は兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)という二人の美女を妻にしようとして、大碓命にその二人を宮殿に連れてくるように命じますが、大碓命はその美貌に誘惑されてしまい自分の妻にしてしまいます。天皇に別の女性を連れて行って騙した大碓命は、天皇に悪いという思いがして余り御前に顔を見せなくなりますが、大碓命が体調でも崩しているのではないかと心配した天皇は、弟の小碓命に様子を見てくるように命じます。
兄の大碓命の様子を見に行った小碓命は、兄が天皇に奉献すべき兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)を自分の妻にしているのを見て激怒し、兄を殺してその手足をひきちぎって投げ捨ててしまいました。景行天皇は小碓命が余りに乱暴で攻撃的である事を恐れて、南九州に拠点を構える獰猛な熊曽建(クマソタケル)という賊の兄弟を征伐してこいという命令を出して遠ざけました。熊曽建の征伐に向かう小碓命は、叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から女性用の衣裳を貰い、それを身に付けて女装してから熊曽建兄弟の新築の館に駆けつけました。新築を祝う宴に紛れ込んだ女装の小碓命は、熊曽建に女性として機嫌を取りながら接近し、宴も酣(たけなわ)になった頃に、剣を抜いて熊曽建の兄を殺害し、逃げる弟を尻から貫いたといいます。
成敗された熊曽建はその死ぬ直前に、小碓命に向かって『あなたほど勇敢で強い人物は知りません。私の名を献上しますからどうか今後は倭建(やまとたける)と名乗ってください』と語って絶命しました。倭建(日本武尊)と名乗るようになった小碓命は、出雲国で出雲建(イズモタケル)と決闘をして打ち倒しましたが、ここでも相手の真剣を自分の持ってきた木刀(木太刀)と摩り替えるという謀略を用いたとされます。何とか九州と出雲の賊を討伐したヤマトタケルですが、大和の王宮に帰ると景行天皇は更にヤマトタケルに対して、東国十二道の征服・反乱の鎮圧を命令しました。
ヤマトタケルは伊勢神宮の斎王をしていた叔母の倭比売を訪ねて、『父(天皇)は私を嫌っているようで私の命が遠方の地で無くなれば良いとでも思っているようです。九州征伐からやっとの思いで帰国した私に、休む期間や新たな軍勢も与えずに、再びすぐに東国征伐に向かえと命令するんですよ』と泣いて訴えました。ヤマトタケルのことを心配した倭比売は、大いにその不安・怒りを慰めて、ヤマトタケルに草薙剣と火打袋という神器を与えました。東国征伐では相武国で、賊軍の豪族(国造)から騙されて野原で火計を仕掛けられて焼き殺されかけるのですが、ヤマトタケルは草薙剣で草を刈り分けて火打石で対抗する火を起こしながら、反対に賊軍を焼き尽くしました。ヤマトタケルが火計で勝利したこの土地は『焼津(やいず)』と呼ばれています。
浦賀水道を渡る時には、波を逆立てる海神の妨害に遭いますが、ここではヤマトタケルの后の弟橘比売(オトタチバナヒメ)が自分の身を海に投げ入れて、海神の怒りを鎮撫したとされます。東国十二道を必死の戦いと妻の犠牲で平定したヤマトタケルは、大和への帰途に着くことになりますが、足柄山の坂下では坂の神である白い鹿を打ち倒して、甲斐国・信濃国を通過して尾張国にまで戻ってきました。尾張国の国造の娘であるミヤズヒメと婚約するのですが、ヤマトタケルは何を思ったか、大事な神器である草薙剣をミヤズヒメに預けたまま、伊吹山の山の神を征伐する旅に出ました。大言壮語して自信満々で山の神を退治しに行ったのですが、白い猪の姿をした山の神に気づくことができず、山の神から大氷雨による攻撃を受けたヤマトタケルは瀕死の重傷を負ってしまいました。
重傷を負いながらも何とか山を下りたヤマトタケルは、凍傷で傷つき腫れあがった足を引きずりながら、居寝(いさめ)の清泉、当芸野(たぎの)、尾津、三重へと移動して、伊勢の能煩野(のぼの)までやって来たところで力が尽きて亡くなってしまいました。ヤマトタケルノミコトは死ぬ直前に、懐かしい大和の故郷の風景を思い浮かべながら、『倭は国のまほろば たたなつく 青垣 山こもれる 倭しうるはし』という国を偲ぶ歌を詠んでから絶命したと伝えられています。ヤマトタケルの死去を伝えられた大和にいる后・御子たちは嘆き悲しんで伊勢に御陵(墓)を建設しましたが、御陵から白鳥が飛び立って河内国・志幾に留まったのでその地にも御陵を作りました。しかし、河内の御陵からも飛び去った白鳥は、遂に天津神の一族の故郷である天上の世界を目指してその姿を消したといいます。
トップページ> Encyclopedia>
一神教の歴史> 現在位置
更新履歴 プライバシーポリシー