『水野忠邦の天保の改革』の項目では江戸後期の重農主義的な政治改革の流れを説明しましたが、ここでは19世紀初頭の洋学・測量術の発達と反動的な洋学弾圧・異国船打ち払いなどについて見ていきます。日本の洋学研究はオランダ語の原典を翻訳して知識・技術・風聞を摂取する『蘭学』から始まりましたが、日本近世の蘭学の到達点を示すものとして前野良沢・杉田玄白らが『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』があります。洋学研究の浸透によって日本でも天文学・地理学・医学・語学などの理解が深まっていき、松平定信の寛政の改革では実用的な西洋の技術・知見に対する関心が急速に高まりました。洋学のうち天文学を学んだ高橋至時(たかはしよしとき,1764-1804)は1798年(寛政10年)に改暦作業を行いましたが、この天文方(てんもんかた)・高橋至時に50歳で弟子入りして天文学・測量学を精力的に学んだ遅咲きの測量家が伊能忠敬(いのうただたか,1745-1818)でした。
伊能忠敬は延享2年(1745年)1月11日に、神保貞恒(じんぼさだつね)の次男として上総国山辺郡小関村で生まれ、伊能家に養子に入る前の名を神保三治郎(さんじろう)といいました。18歳の時に佐原の酒造家・伊能家の婿養子となった伊能忠敬は、傾きかけていた伊能家の家業を建て直しただけではなく、商人としての才覚を縦横に発揮して50歳までにかなりの財産を築きます。50歳で商人としての家業を長男に譲り渡すと、20歳も年下の幕府の天文方・高橋至時に天文学を学ぶために弟子入りしたのでした。当時はオランダの学問の成果によって地球が球形であることは判明していましたが『地球の子午線(経線)の長さ』は分かっておらず、伊能忠敬は子午線の長さを計測するために『江戸―蝦夷地間の距離』を測定したいと考えるようになります。1800年、『土地の測量・地図の作成』を訴えて幕府から蝦夷地測量の許可を得た伊能忠敬は、蝦夷地東南海岸の測量を終えて地図を作成します。
幕府が伊能忠敬に測量を許可した理由は、『正確な地図の作成』が外国船に対する防備体制(海防)の充実に役立つと考えたからですが、土地測量を名目にして薩摩藩・長州藩など外様大名の情勢の偵察ができるといった目的もあったようです。伊能忠敬は初め商業で稼いだ私財を投じて全国の測量事業を行っていましたが、忠敬の測量と地図作成の技術に感嘆した幕府が資金援助を行うようになり、日本全土の地図作成は国家的プロジェクトへと発展していきました。1800~1816年までの17年間にわたって伊能忠敬は日本全国を測量して地図作成を行い、できあがった地方の地図を幕府に提出しましたが、忠敬の存命中には日本全土の地図を完成させることはできませんでした。忠敬の死後の1821年(文政4年)に、高橋景保(かげやす,高橋至時の子)を中心とする門人たちによって、宗谷(北端)、国後島(東端)、屋久島(南端)、五島列島(西端)を日本の限界線とする『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』が完成しました。
伊能忠敬の全国測量に拠って完成した日本地図は、江戸時代までの測量の技術水準では最も精度の高い地図として評価されることになります。そのため、日本の詳細な地理を把握できる『大日本沿海輿地全図』は、異国に知られてはならない海防上の機密情報に位置づけられました。この防衛上の機密性の高さが『シーボルト事件』へとつながっていきますが、幕府が外国に対する警戒感と不安感を強め始めるきっかけになったのがロシアの外交使節の到来でした。特に、日本を開国させられず通商関係も築けなかった遣日使節レザノフが長崎で冷遇されたことに怒り、ロシア海軍大尉・フヴォストフに命じてカラフト周辺を襲撃させた事件(1806年)が幕府に衝撃を与えました。その後には、フヴォストフの襲撃に対する幕府の報復として『ゴローニン事件(1811年)』も起こっており、ロシア関係は一時的に緊迫の度合いを強めました。
ロシアの遣日使節との接触やレザノフの(本国と無関係な)個人的命令による襲撃によって、幕府は海防の必要性を実感するようになり、1810年には『大日本沿海輿地全図』に先駆けて高橋景保に『新訂万国全図』を編纂させています。先進的な洋学の知見を積極的に取り入れる必要を悟った幕府は、天文方に『蘭書訳局(らんしょやっきょく)』を置いてオランダの書籍を次々に翻訳させました。
翻訳事業の成果としては、フランスの学者ショメールの百科事典を大槻玄沢(おおつきげんたく)が訳した翻訳書『厚生新編(こうせいしんぺん)』があり、ロシア人初の世界一周を成し遂げたクルーゼンシュテルンの『世界周航記』も『奉使日本紀行(ほうしにほんきこう)』として訳されています。日本の蝦夷地に長く幽閉されていたゴローニンはそのときの滞在経験を『日本幽囚記』にまとめましたが、これも『遭厄日本紀事』というタイトルで翻訳されています。
ドイツの医師・博物学者であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の総合的研究の使命を帯びて1823年8月に長崎に入港しました(シーボルトがプロイセン政府による日本の政治・地理・文化の研究の使命を帯びていたか否かには諸説あります)。シーボルトは長崎出島のオランダ商館付きの医師でしたが長崎奉行から厚遇されるところとなり、1824年には、門人たちに西洋医学や科学知識を教授する『鳴滝塾(なるたきじゅく)』を長崎郊外に開きました。また、シーボルトは長崎の町で患者を診療する特別な許可も受けていました。鳴滝塾を開く前の1823年4月には、オランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行して、その道中で日本の地理・植生・気候などを熱心に調査したとされます。江戸滞在中にも多くの学者・知識人と交流しており、蝦夷地の北方探査を行った最上徳内や地図作成・測量の技術を持つ高橋景保とも会談しています。
鳴滝塾の門下生には高野長英・二宮敬作・高良斎・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいて、それぞれ医師や学者として活躍したが、シーボルトは優秀な門下には独自の博士号の授与を行ったりもしました。江戸在府中に会合した最上徳内からは蝦夷地の地図を贈られており、高橋景保とはクルーゼンシュテルンの手による『最新の世界地図』と交換で国禁(持ち出し禁止の品)の『最新の日本地図』を受け取っています。シーボルトは日本女性の楠本滝との間に娘の楠本イネを作っていて、日常生活でも日本の文化・慣習に相当に馴染んでいたようです。
1828年にシーボルトは帰国する予定でしたが、日本で収集した品物を積み込んでいたオランダ船が暴風雨で浜に打ち上げられ、その中に幕府禁制の日本地図や武具などがあったことが問題となります。シーボルトが『国禁の品』を国外に持ち出そうとして国外追放処分を受けたこの事件が『シーボルト事件(1828年)』であり、シーボルトの荷物の一部を送られていた高橋景保やシーボルトと親交のあった絵師の川原慶賀も連座して投獄されました(高橋景保はそのまま獄死します)。シーボルトの弟子の高良斎・二宮敬作なども処罰されました。
シーボルト事件によって長崎の洋学の発展は一時的に停滞しますが、江戸においても幕閣の私怨が絡んだ洋学弾圧事件として『蛮社の獄(ばんしゃのごく,1839年5月)』が起こることになります。洋学者・渡辺崋山(わたなべかざん,1793-1841)は三河国田原藩の家老であり、農学者・大蔵永常(おおくらながつね)を招聘して大胆な農業改革を行いましたが、渡辺崋山が洋学を学ぶ契機となったのは海防を担当する海防掛(かいぼうがかり)になったことでした。渡辺崋山はシーボルトの門下に当たる高野長英(たかのちょうえい)や小関三英(おぜきさんえい)について洋学を学びましたが、特に地理学(国際的な地理)や兵学、歴史学の分野において深い造詣を持つに至ります。シーボルトの鳴滝塾で学んだ高野長英(1804-1850)は当時最高水準のオランダ語の語学力を習得していたとされ、蘭学・医学の知見を元にかなり開明的・先進的な思想を持って『開国』を支持していました。
紀州藩の儒学者・遠藤勝助(えんどうしょうすけ)が主宰する『尚歯会(しょうしかい)』という勉強会では、蘭学・海防・飢饉対策などさまざまな事柄が討議されていましたが高野長英や渡辺崋山もこの尚歯会の常連でした。尚歯会は元々は、天保の大飢饉の対策を話し合う勉強会としての位置づけで結成されたものです。渡辺崋山の兵学・世界地理学の見識を慕って、崋山の周囲には有力な幕臣の川路聖謨や江川英龍などが集まっていました。
蛮社の獄の遠因としては、幕府目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)が渡辺崋山の知見の助けを受けた江川英龍(尚歯会のメンバー)に『江戸湾岸の測量手法を巡る争い』で敗れて、渡辺崋山を逆恨みしていたことも影響しています。蛮社の獄の『蛮社』とは、国学者グループが蘭学研究を行う『尚歯会』の蔑称として名づけたものです。1808年のイギリス船・フェートン号事件を受けて、幕府は外国船が来航したら即座に追い払うべしという『異国船打払令(無二念打払令,1825年)』を出しますが、この異国船打払令の規定に基づく砲撃が実際に行われたのは1837年のアメリカのモリソン号に対してだけでした。
しかし、この1837年の『モリソン号事件』に対する外国からの批判や1840年の『アヘン戦争』による清の敗北を受けて、幕府は無条件の異国船打払いは不可能であることを実感します。その結果、1842年7月には異国船打払令を廃して、異国船に薪・水・食糧を与えて立ち去ってもらう『薪水給与令(しんすいきゅうよれい)』が出されました。
尚歯会の高野長英は、幕府がアメリカのモリソン号を大義なく打ち払ったことを批判して『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を書きますが、この幕政批判を知った目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう,1796-1873)が調査に乗り出し、1839年5月(天保10年)に尚歯会メンバーに対する『蛮社の獄』と呼ばれる弾圧事件が起こります。渡辺崋山は自宅を捜索されて幕政批判の罪の証拠品として『慎機論(しんきろん)』や『西洋事情書』などを押収されました。特に崋山の『慎機論』は、幕府の鎖国政策を批判して開国の優位を説く内容を含むもので、当時としては幕府の祖法=鎖国を犯す危険思想の一つと見なされました。
蛮社の獄では、小関三英が幕府に捕縛されることを嫌って即座に自刃し、渡辺崋山は蟄居の処分を受けて故郷の田原藩に護送されますが、田原藩の内紛に巻き込まれて1841年10月に自刃を余儀なくされます。高野長英も永牢の重い判決を受けて伝馬町牢屋敷に収監されますが、1844年に火事に乗じて脱獄に成功し、同門・二宮敬作の紹介によって伊予宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)にしばらく庇護されました。
その後、江戸に戻った高野長英は『沢三伯』の偽名で町医者を開業しながら洋書の翻訳事業も行っていましたが、1850年(嘉永3年)10月30日に、江戸の青山百人町に潜伏していたところを町奉行所に踏み込まれて捕縛され自刃しました(十手で激しく殴打されて死亡したという説もある)。蛮社の獄の直接的な原因には、目付・鳥居耀蔵の個人的な怨恨・嫉妬が大きく関係していますが、日本史の歴史的コンテクストの中では『鎖国』を維持しようとする保守派・国学派と『開国』に踏み出そうとする開明派・洋学派との世界認識・政治判断の落差が大きくなってきたことを象徴する事件でもありました。
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